依存症からの脱却は目的と手段の確認から

食欲依存症からの脱却が最新の私の目的である。

そのために、身体的な健康について学ぶことが多いが、過去数十年は心の健康として、宗教依存症からの脱却が目的であった。

高校の親友は身体の健康の医者になり、私は心の健康の宗教家になり、半世紀の音信不通を経て、今「健康と自然の会」で目的を共有する。友人は身体の健康のプロ、私は心の健康のプロと言いたいところだが、プロではなく、心の病気患い50年者で、自分の心の健康だけで精一杯であって、他人の心のケアなどまったくできないし、したこともない。友人は先生で私はその生徒である。

身体は自律神経のアクセル・ブレーキの効き具合とバランスで健康にする。

心は自立心の自他の力とバランスで健康にする。

依存症は目的とその手段とを逆にした勘違いから起きる

例えば、アルコール依存症は健康目的とその酒手段が逆になり、酒が目的で、健康が手段になる。「酒を飲むのではなく、酒に飲まれる」状態である。

だから、健康が目的で、酒は手段であるという確認とその決断と実行をすればアルコール依存症から抜け出ることができる。

食欲依存症は健康が目的、食欲はその手段として、確認決断実行をすれば脱却できる。

例えば、玄米か白米か といった場合、旨さで選ぶか、健康で選ぶか の選択である。

旨さは食欲で、旨さを目的にしたら、白米になるが、旨さではなく健康目的にしたら玄米になる。旨いものは食べ過ぎ、マズイものは食べ過ぎない。食を薬とすれば、「良薬口に苦し」である。健康目的のダイエットならば玄米という選択にする。

旨いから食べるのは依存症、健康のために食べるのが健康である。

食べ過ぎは依存症、腹八分目が健康というように、常に、食欲を手段、健康を目的として何事も確認しながら、決断していくことで、その選択意識が、無意識選択になって、自然治癒すると思われる。

その他の依存症もまたそうである。

ニコチン依存症 喫煙と健康と対比させた場合、健康が目的だが、喫煙(ニコチン

摂取)はその手段とはならない。手段となるのは一服として、深呼吸またゆっくりと息を吸うことで、副交感神経を刺激することである。

健康を目的にするなら、 その手段は喫煙ではなく、深呼吸である。

アルコール依存症 健康を目的にするなら、アルコールは少々また一切飲まないで、ノンアルコール飲料・甘味料が少ない、緑茶やコーヒーになる。

ギャンブル依存症 健全な(社会に役立つ)事業が目的ならば 金儲けは手段である。

健全な社会生活が目的ならば、自他生活に支障がなくくらいの少しの遊びならば手段になる。また、健全な社会生活にまったく遊びとしてのギャンブルを手段にしなくても、旅行とか趣味とか他の遊びはたくさんある。

宗教依存症 目的が人間らしい生活で、神への信仰はその手段が健全である。宗教依存症は神を目的、人を手段とした勘違い思い込みが原因である。神話とか聖典とかはドラマや映画と同じで、本当のことではなく、想像を楽しむことで、豊かな文化生活が送れる。

いろいろな神を讃える祭りがあるが、その主役は参加者の健康で、豊かな文化生活であって、神様はそのダシ(山車)に過ぎないことを確認していく。政府か国民かといった場合、国民が目的で、政府が手段であるように、人が目的で、神が手段である。

また、神や仏を手段にしなくても、健康で豊かな文化生活目的の手段には科学、スポーツ、芸能、園芸などたくさんある。

目的が一つでも、その手段はたくさんあるのは、木の幹は一つでも、そこからでる枝葉はたくさんあるようなものである。目的と手段は主幹か枝葉かという判断でもある。

 

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