依存症からの脱却2

体の健康が自律神経のバランスだが

交感神経力は加齢の変化、男女差がほとんどないが、副交感神経力の急激な低下が、男は30過ぎから、女は40過ぎから起きるというデータから、

緩和の副交感神経力を意識してあげることが、実際的には重要になる

交感神経レベルは加齢による変化も男女差もないが、副交感神経だけが大きく変化する

体と同じように、心の健康は自立心にあり、その自立心は自力と他力のバランスにある。

心の場合、自他のバランスは、他力の状況によって、自力を上げるか下げるかでバランス調整するのが重要になる

心の病気で最も多く、厄介なのが依存症である。依存症は他力がほぼ100%になり、自力はわずかになった状態である。

心の健康は依存症からの脱却をどのようにするかが一番のポイントになってくる。

そのポイントは「目的」と「手段」を明確化させることである。

この目的と手段は、原因と結果、因縁(間接原因とその結果)、主幹と枝葉、重要と子細のような現象にもなってくる。それらの特徴は、

一目的には多くの手段、一原因には多くの結果、一主幹には多くの枝葉、一要には多くの子細がある。

依存症が世界的な問題になっているのが神依存症と金銭依存症である。

私の場合は数十年に及ぶ神様依存症に苦しんできたので、神様依存症を例にして、その脱却方法を考察し、現在患っている食欲依存症に応用して試してみたい。

私が初めて神様依存症になったのは高校1年生の時である。

一つの疑問「何のために生きるのか?」にひっかかり、それを追及して一年たち、はっきりと答えてくれたのが、ヨガ(ヒンズー教からきた一宗教)で、「神のため」だった。それは「神になるため」という意味になっていった。

神が目的、人が手段。神になる目的の手段が、自分の修行(瞑想・ポーズ)になり、それが自分の生きる目的になった。

ここに大きな誤信が二つある。

1.「生きる目的は神ではなく、生きるそのものが目的である」

2.「神のためは、神になるためではない」

「何のために生きるのか?」

「生きる」ことは「生きる目的」であり、「生きる手段」でもあり、目的と手段が同一のもので、すでに完結した問いと答えである

「何のために生きるのか?」という問い自身の中に答えがあり、こういう問いは「迷宮入り問題」であり、次のように言い換えなければ、正しい問いにはならない。

「私はいかに生きるべきか?」

神のような抽象的な不可思議なものでなく、具体性が必要になり、またそれは「生き方」「生き模様」になってこないと、答えにくいだけでなく、答えられない。

大人が子供に

「あなたは将来何になりたいですか?」

という問いに変換しないと、答えが出てこない。それが職業であったり、尊敬する人だったりすると、自分も他人にも分かりやすい。

「あなたは一番どんな人が好きですか?」

「あなたが尊敬する一番の人は誰ですか?」

という問いに変換して具体的な答えが出るようにすることである。

私の神様依存症は「生きる目的も手段も生きることであるのに、生きる目的を神様に、生きる手段を神になる修行してしまった」ことが始まりであった。

目的と手段には、太い幹からは太い枝が何本か出てくるように、大目的、中目的、小目的というようにあり、それぞれの目的にはたくさんの枝葉がつくように多くの手段がある。

大目的=生きる 中目的=高校卒業 小目的=期末テスト

もし、当時の私だったら、他の高校生と同じような3つの目的になっていて、神様依存症にはならなかったと思える。

 

この反省を食欲依存症に応用してみよう。

「何のために食べるの?」

「お腹が減っているから」「美味しいから」「美味しそうだから」「大好物だから」

といろいろ答えるが、

1.栄養補給 2.美味しさ 3.好き

美味しさと好きは食欲依存症へなりやすいが、栄養補給は健康へとつながってくる。

つまり、

目的が健康としたら、

大目的は健康 中目的は栄養補給 小目的は美味しさ好き関係なく腹八分で胃腸保護

と意識していけば、きっとほんの少しが本当に美味しく感じ、謙虚で礼節ある食事態度になってくるだろう。

食欲依存症の脱却は煙草や酒や宗教やギャンブルのように、それらが無くても十分楽しく生きられるが、飲食の場合は、それが無いと生きられなく、それが適度の少々であれば生きられ、多すぎれば死んでしまうというという、薬のようなものであるから、バランス感覚が必要であり、断食すれば脱却できるというものではない。

自律神経バランスのように、健康と食欲のバランスが必要な依存症脱却法である。

 

カテゴリー: 社会問題, 自然に生きる パーマリンク