パパラギとの出会い

徳島大で話を6月に二度することになって、

いよいよ 若い世代(私の子供も含めて)へ「命のバトン」をする時期が来たと思った。

いわば就活である。

命のバトンには「生き抜く力の資産は子供たち」に、「生き抜く知恵は若い世代」へと繋げたい。

 

私は40才になった時、失恋ばかりする人生に「一生結婚しないでいこう」と決意し、

当時、ベストセラー化した「パパラギ」という本に感銘し、

西洋文化を批判したサモアという国はどういうところだろうか?

という疑問もあって、その西サモアにそれまでの失恋全部の傷心旅行にいった。

 

そして、結婚をあきらめた途端に、18才のサモア人と結婚し、二人の娘を得た。

その娘たち世代への「命のバトン」として、国際結婚という経験を整理していて、

改めて、娘たちを産むきっかけとなった「パパラギ」に出会った。

驚いたことに、それがなんと「著者ドイツ人のフィクション」であることが今解った。

 

私の人生は感銘した多くの本に騙され、失敗してきたが、「パパラギ」にまで騙されたとは唖然とした。

当時に、パパラギがフィクションであると解っていれば、サモアに傷心旅行には行かなかっただろう。

真実をいつ知るかで、大きく人生が変わることは確かだ

 

パパラギがフィクションであれ、その内容は西洋文化の批判としては今も通用する内容なので、まとめてみた、

 

パパラギ

1920年にドイツで画家で作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたもの。

 

文化人類学者の間では、ツイアビの演説がサモアの話法とは異なっていることなどから、この本は実際にはツイアビの演説をまとめたものではなく、ショイルマンの創作だと考えられてきた。上記の天声人語での評も、ツイアビが実在の人物かどうかは不明というスタンスを取っている。近年の研究により、ツイアビは現地語で「酋長」を意味する言葉であり、本書でツイアビとされている人物はアガエセ(Agaese)という名のドイツ軍の軍属で、ヨーロッパを訪問したこともなかったことなどが分かっている。しかし、ドイツ及び日本での出版時にはフィクションとの断り書きがなかったので、真実だと取り違えている人も多い。

 

パパラギの本当の神はお金だ

おまえたち、明敏なわが兄弟よ、わたしたちはみな貧しい。太陽の下、私たちの国ほど貧しい国はない。

私たちのところには、箱いっぱいの丸い金属もなければ重たい紙もない。

パパラギ(白人)の考えからいえば、私たちはみじめな物乞いなのだ。

だがしかし!おまえたちの目を見、それを金持ちのアリイ(紳士・男)の目と比べるなら、彼らの目はかすみ、しぼみ、疲れているが、おまえたちの目は大いなる光りのように輝いている。

喜びに、力に、いのちに、そして健康にあふれ、輝いている。おまえたちの目は、パパラギの国では子どもだけしか持っていない。

言葉も話せない、それゆえお金のことは、まだ何も知らない子どもだけしか。・・

大いなる心は、私たちをアイツウ(悪魔)から守ることによって、私たちを愛してくださった。

お金がアイツウである。その仕業はすべて悪であり、悪を生む。お金にさわったものは、その魔力のとりことなり、それをほしがるものは、生きているかぎり、その力もすべての喜びもお金のために捧げねばならない。

もてなしをしたからといって何かを要求したり、何かをしてやったからといってアローファ(贈り物・交換品)をほしがるような人間を、私たちは軽蔑する。

という尊いならわしを、私たちは大切にしよう。ひとりの人間が、他の人たちよりずっとたくさんの物を持つとか、ひとりがうんとたくさん持っていて、他の人びとは無一物、というようなことを私たちは許さない。

そのならわしを大切にしよう。そうすれば私たちは、隣の兄弟が不幸を嘆いているのに、それでも幸せでほがらかにしていられるあのパパラギのような心にならずにすむ。・・
宣教師は私たちに嘘をつき、私たちをあざむいた。

パパラギが宣教師を買収し、大いなる心の言葉を借りて私たちをだましたのだ。

丸い金属と重たい紙、彼らが「お金」と呼んでいる、これが白人たちの本当の神さまだ。
(中略)
彼は患い、とり憑かれている。だから心は丸い金属と重たい紙に執着し、決して満足せず、できる限りたくさん強奪しようとして飽くことがない。

「私はこの世に来たときと同じように、不平も不正もなく、またこの世から出てゆきたい。大いなる心は私たちを、丸い金属、重たい紙なしに、またこの世に送ってくださったのだから」などとは、彼は考えることができない。

(中略)

そう、おまえは誕生のときにさえお金を払わねばならず、おまえが死ぬときも、ただ死んだというだけで、おまえのアイガ(家族)はお金を払わねばならぬ。

からだを大地に埋めるにも、思い出のためにおまえの墓の上にころがす大きな石にも、お金がかかる。

(中略)

何よりもまず、私たちはお金から身を守ろう。

パパラギは今や、ほしがらせようとして、私たちにあの丸い金属と重たい紙を差し出している。

それが私たちを豊かにし、幸せにすると言う。

すでに私たちの中で、目がくらんで、重たい病気になったものがたくさんいる。

けれども私はおまえたちに語ろう。お金で人は楽しくなったり、幸せになったりすることはない、それどころか、人の心を、人間のすべてを、悪しきいざこざの中へ引き込んでしまうということを。

そしてお金は、ひとりも本当に救うことはできない。ひとりも、楽しく、強く、幸せにすることはできないのだということを。
おまえたちが、おまえたちのつつましい兄弟の言葉を信じ、言うことをわかってくれるなら、おまえたちはあの丸い金属と重たい紙を、もっとも凶悪な敵として憎むことになるだろう。

「丸い金属と重たい紙について」

 

石の箱に住むパパラギ

パパラギは、巻貝のように堅い殻の中に住み、熔岩の割れ目に住むムカデのように、石と石のあいだで暮らしている。頭の上も、足の下も、からだの周りも、すべて石である。

パパラギの小屋は石でできていて、まっすぐな箱のような形をしている。たくさんの引き出しがつき、あちこち穴だらけの箱である。

(中略)

たくさんの人の住む石造りの箱、無数の河野用にあちこちに通じる高い石の割れ目、その中の人波、うるさい音と大騒ぎ、すべてのものに降り注ぐ黒い砂と煙、一本の気もなく、空の青もない、明るい風もなく、雲もないところ、これをパパラギ(白人)は「都市」と呼び、それを創ったことを誇りにする。

たとえそこには一本の木も、森も、広々とした青空を見たこともなく、まだ一度も大いなる心と対面したことのない人間ばかりが住んでいようとも。

(中略)

パパラギは、彼らが集めてきたこの石の山が自慢なのだろうか。私にはわからない。

パパラギは、何か特別な心を持った人間のようだ。意味も無いことをたくさんする。無意味どころか、そのために自分が病気になってしまう。にもかかわらずそれをほめ、自分で美しい歌にして歌う。

(中略)

だから不思議でならないのは、どうして人がこの箱の中で死んでしまわないか、どうして強いあこがれのあまり鳥になり、羽根が生え、舞い上がり、風と光を求めて飛び立ってしまわないか、ということである。

だがパパラギは、石の箱が気に入っており、その害についてはもはや気がつかなくなっている。

(中略)
ここは、まだいくらか美しく、豊かである。私たちの土地と同じように、木々や森や川があり、小さな本当の村もある。

(中略)
これらの村には、町の人間とは違った心の人びとが住んでいる。

この人たちは田舎者と呼ばれる。町の人間より食べ物もたくさん持っているはずなのに、ざらざらの手をし、汚れた腰布をつけている。

彼らの暮らしは、割れ目の人間よりもずっと健康で美しい。

ところが、彼らにはそのことが自分で信じられず、彼らがなまけ者と呼んでいる、大地に触れることもなく、果実を植えて収穫することもない町の人間たちのことをうらやましがっている。

(中略)
だが双方のこの争いは、戦争にまで広がるほどのものではない。

総じてパパラギは、割れ目に住んでいようと田舎で暮らそうと、あるがままに、すべてのことに満足なのである。

(中略)
だが私たち、日と日の光の自由な子である私たちは、大いなる心にいつまでも忠実に、石をもってその心を煩わすことはすまい。

もはや神の手を放してしまい、心迷える病気の人たちだけが、日もなく光もなく風もない石の割れ目で幸せになれるのだ。そんな不確かな幸せでも、パパラギが望むならくれてやろう。

だが、日当たりのいい私たちの海岸に石の箱を建て、石で、割れ目で、塵と埃で、うるさい音で、煙で、砂で、人間の喜びを滅ぼそうとするパパラギのあらゆる企ては打ち砕かねばならぬ。

「石の箱、石の割れ目、石の鳥、そしてその中に何があるかについて」

 

個人主義のパパラギ

パパラギは一種特別な、そして最高にこんがらがった考え方をする。

彼はいつでも、どうしたらあるものが自分の役に立つのか、そしてどうしたらそれが自分の権利になるのかと考える。それもたいてい、ただひとりだけのためであり、みんなのためではない。このひとりというのは、自分自身のことである。(p68)

神からたくさんの物をもらえば、兄弟にも分けてやらねばならない。そうでないと、物は手の中で腐ってしまう。

なぜなら神のたくさんの手は、すべての人間に向かって伸びており、だれかひとりが他のものとは不釣り合いにたくさんの物を持つのは、決して神の心ではない。

さらに、だれかひとりがこう言うのも神の心ではない。「おれは日なたにいる。おまえは日陰に行け」私たちみんなが、日なたに行くべきである。

神が正しいその手の中で、すべてのものを支えておられるかぎり、たたかいもなければ苦しみもない。狡猾なパパラギは、こう言って私たちまでだまそうとする。

「神様のものなんて何もない。おまえが手でつかんだものは、おまえのものだ」――そのような愚かな言葉に耳を貸すまい。正しい知恵に耳かたむけよう。すべては神のものだ。(p75)

パパラギは何でも、貪欲に取り込む。

たとえばどんなに悲しいことでも、健康な人間の理性ならすぐに忘れてしまいたいことでも。

そう、まさにそういうよくないこと、人を悲しませるようなことが、どんないいことよりもずっとくわしく伝えられる。そう、よいことを伝えるより、悪いことを伝えるほうがずっと大切で、うれしいことででもあるかのように、こと細かに。(p102)

パパラギの生き方は、サバイまで舟で行くのに、岸を離れるとすぐ、サバイへ着くのに時間はどのくらいかかるかと考える男に似ていると言えるだろう。彼は考える。

だが、舟旅のあいだじゅう、まわりに広がる美しい景色を見ようとはしない。

やがて左の岸に山の背が迫る。それをちらっと見ただけで、もう止まらない――あの山のうしろにはいったい何があるだろう。おそらく湾があるのだろう。

深いのかな?せまいのかな?こういう考えのためにもう、若者たちといっしょに歌っていた舟唄どころではなくなってしまう。若い娘たちの冗談も聞こえなくなってしまう。(p108)

考えることが重い病気であり、人の値打ちをますます低くしてしまうものであることを、パパラギは身をもって私たちに教えてくれた。(p115)

物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。

大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。

だから物に憑かれている。物なしにはもう生きていけない。

(中略)
少ししか物を持たないパパラギは、自分のことを貧しいと言って悲しがる。

食事の鉢の他は何も持たなくても、私たちならだれでも、歌を歌って笑顔でいられるのに、パパラギの中にそんな人間はひとりもいない。

ヤシの木の方がパパラギよりずっと賢い

おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。
サモアの一つの村なら村びと全部がはいれるほど大きな小屋を持ちながら、旅人にたった一夜の宿も貸さない人。
こんな人間をどう思うか。
手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。
私にはおまえたち(白人を指す)の目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。

そうなのだ、これがいつでもパパラギのすることなのだ。
たとえ百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとはしない。
それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろがないのを、持たない人のせいにしたりする。
たとえ小屋のてんじょうのいちばん高いところまで、あふれるほどの食物があり、
彼とアイガ(家族)が一年食べても食べきれないほどでも、食べるに物なく飢えて青ざめた人を探しに行こうとはしない。
しかもたくさんのパパラギが飢えて青ざめて、そこにいるのに。

熟せばヤシは葉も実も落とす

葉も実も落とすから、根元の土はますます肥えまた新しく葉が茂り実が成る
人も年ごとに振り落としていくものがなければ心の土壌は肥沃にならない
でも、パパラギに生き方は未熟なヤシが葉も実もしっかりかけているようなもの

「それはおれのだ!持って行っちゃいけない。食べちゃいけない」

と 人はあんでも抱きかかえて離したがらない。
それじゃどうして新しい実がなる?

ヤシの木の方がパパラギよりもずっと賢い
ヤシは葉も実も落として根元の土を肥沃にし
パパラギはなにもかも抱きかかえて枯れ死していく
ヤシの木のほうがパパラギよりずっとかしこい。

 

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