対等・バランスの意味の履き違えが戦争を産み出す

北朝鮮が国連安保理の制裁に対して

「アメリカと実際的なバランスをとり、我々の自主権と生存権を守り、地域の平和と安全を保障するための力をつけていくことに、より拍車をかけるだろう」

核武装のバランスが自主権と生存権そして、平和と安全を保障するというのは、

人間また国の「対等・平等・バランス」の意味を履き違えした、単なる弱小国のコンプレックスまた強大国の傲慢さである。

それは、戦後経済成長が激しかった日本で、隣人がテレビを持てば、自分も欲しくなるような気持ちと同じで、他人との対等意識が、貧乏人にとっては嫉妬に、金持ちにとっては自慢になるようなものである。

「人は生まれながらにして平等である」

「天は人の上に人を造らず」

という平等の意味は、人の命の平等である。

命は生きているか、死んでいるかの二者の姿しかない。

命が病気であるとか、健康であるとか、そういう姿の平等・不平等ではない。

まして、

命を守る経済や環境や、持ち物の平等・不平等ではない。

 

共産・社会主義が、どうして民主・資本主義に負けたのかは、単に経済的生活レベルの対等を目指したからである。

 

日本が核武装をして、そのバランスをとろうとすることは、北朝鮮の対等意識でアメリカとのバランスをとろうとする危険な行為と変らない。

核武装をすればするほど、それは核で他国を危険に犯すだけでなく、自国の核に対しての攻撃危険性を数倍も増やすようなものである。原発にしても、そこに内外のテロで核爆発する危険性が増えるので、原発をもつこと、原水爆を持つことの自爆する危険性は同じく増える。

「目には目を歯には歯を」

これが史上でどれほどの戦争を産んだことだろう。

これは

「テレビにはテレビを、核には核を」

という命の平等を経済バランス・武力バランスと履き違えしたものである。

傲慢

人の命は常に平等である。自他を比較する必要もない。

人の命はオンリーワンであり、自他比較することができないから、ナンバーワンでもある。

 

もし、北朝鮮も日本も、命のオンリーワンかつナンバーワンであることを意識し、自他の比較やバランスや対等を意識しなければ、戦争の心配は消え去り、平和への独自路線として、核武装なんか考えることもすることもしない。

核も原発も、戦争また自爆する危険な道具であるとして放棄し、平和で安心する道をしっかりと歩むことができるだろう。

オンリーワンを意識する人は他者と比較することはなく、自分の生き方に自信をもっている人である。

国だって人が集まっただけのこと、オンリーワンとして自信をもっていけば、他国との比較やバランスをとることなく、自然と独自で、平和で安全な国の方針を打ち出すことができるようになる。

 

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる パーマリンク