老いぼれ親父の平和運動

平和は感情論では実現しない

 

平和を目指すと言ったら、議論相手に、

即勘違いされたのが、政治的また市民運動的な平和運動のように思われたことだ。

余生を楽しもうとしている無名の吾輩に、そんなパワーも気力もあるわけないのに、

勘違いされたことにビックリした。

そこで、わざわざ

「私のいう平和は心の平和のことだ」

と付け加えたのであるが、それもどうも宗教的な心の平和と勘違いされた感がある。

政治的な平和も、宗教的な平和も、感情論であり、それは同じ言葉「平和を! 平和を1」と繰り返し叫ぶか、祈るか、歌うかするものだ。

だが、古今東西、それがどれほどの効果があったかは歴史を検証してみれば、解るはずだ。

むしろ、そういう平和を願う団体は弾圧されたり、それに抵抗して、暴徒化したりするのを見てきている。

そこで

「宗教的な平和の祈りではなく、その祈りの技術のことである」

とまた付け加えた。

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お互いの気持ちが通じる時、平和がやってくる

 

同じ病気や事故災害や人間関係問題で苦しんだ経験がある者同士が集まり、会話すると、

みんなの気持ちがすっと入ってきたり、

それぞれの挑戦で問題解決していった時の経験は実にいいヒントになり、

とても気分が楽になってくる。

そういう状態のことを「心の平和」というのだろう。

また、

夫婦でも、会社でも、グループでも、同じ目的に向かって、

共に苦しみ、共に悩み、共に楽しみ、共に悲しみ、共に怒りして、

共に話し合い、共に活動するとき・・・

嗚呼、なんて楽しいんだ、こんなに人生が面白可笑しいなんて!

と発見して、その幸せと一緒に生きる充実感を味わったりする。

これを「心の平和」と言いたい。

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みんな違ってみんな良い

この金子みすゞの言葉をどうも日本人は特に理解できず、実現できることに不得手である。

ドイツ在住の雨宮紫苑がブログで、

「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ!

と言っているが、

まさに、平和への祈りの技術とは、この議論する技術のことである。

 

この雨宮ブログの

「日本では意見の賛否と人間性を切り離せない人が多く、話し合いの場でも感情が重視される」

で、思い当たる節がある。

 

自分の尊敬する友人が尊敬する著名人を同じようについ尊敬してしまったが、

或る時、その著名人の人格に問題があることを発見して、尊敬が逆に軽蔑になった。

それで、どうも友人とうまく会話できなくなった経験がある。

私も、典型的な日本人で、人格(人間性)と意見が切り離しにくい者であることを痛感した。

 

人格とは、自分の言った意見また自分の信念の通りに実践して生きている人、また、不言実行して世に役立つことをしている人である。

そのため、人格がない人は嘘を平気で何度もいい、他人をだまして自分のよいようにしたり、無責任な人にとらえられるため、その言葉は軽く、聞いても翻弄されるだけとか、相手にしても迷惑が被ると思われてしまう。

 

だから、著名人、権威者の言葉が強く影響し、また信じられやすい。

信じるのも、愛するというのと同じ感情論である。これは日本人だけでなく、世界中共通の感情論ではないだろうか。

この人格と意見の混同よりも、日本人の議論不得手は、

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「日本の「同調圧力」「空気を読む」といった独特な考え方に根差したものだと思う。

みんなが同じ考えであることを前提としているから、同じ考えの者同士は徒党を組んで、ちがう意見の者を攻撃する。みんなが賛成なのに反対する「空気が読めない輩」は、厄介者扱いされる。

意見がちがう=和を乱す悪者であり、敵なのだ。

そういう思考回路だと、敵には容赦なく攻撃するし、「自分が正しいから相手は間違えている」という極論に走るようになる。

意見がちがう人=敵だと考えている限り、双方は意見はひたすら平行線をたどるし、議論ではなく、ただの意見の押し付け合いになる」

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その場の雰囲気が平穏・平和であれば、それでよし、それが一番だという伝統のような慣習が、議論=喧嘩 と捉えられ、論点はずれにずれ、それは言い方やしぐさをののしるような感情的対立になりやすい。

これが、共同で議論したり、アイデアを出したりすることが難しくなる原因であり、問題解決はそれぞれ自分の中でやるのが、一番ということに落ち着いてしまう。

あえて、反対意見は言わないし、あえて問題定義もしないし、質問もしないのが無難というのが日本人の特徴であろうし、それはまた外国語を学ぶのが不得手という特性にもつながってくる。

金子みすゞの「みんな違ってみんな良い」は

まさに、

「みんな意見が違って、みんなで活発に議論できて、楽して良い」

ということである。

これには、

アイデアを出すためのブレーンストーミング(意見を言っている間は反対意見を言わない)などの

基本議論技術が幼少から学校教育されることが必要である。

共同で学ぶ、共同で問題解決する

そんな技術と知識が「心の平和」を実現する第一歩であろう。

A:I can ○○, but (B) can’t ○○.
  B:I can △△, but (A) can’t △△.
A&B:All are different. All are great!

りょう:I can do karate, but Nagisa can’t do karate.
なぎさ:I can do calligraphy well, but Ryo can’t do calligraphy well.
りょう&なぎさ:All are different. All are great!

○「動物」バージョン
Whales can swim, but cats can’t swim.
Cats can jump high, but whales can’t jump high.
All are different. All are great!

○「家族」バージョン
My mother can sing well, but my father can’t sing well.
My father can drive, but my mother can’t drive.
All are different. All are great!

○「アニメ・キャラクター」バージョン
Doraemon can use Dokodemo Door, but Jibanyan can’t use Dokodemo Door.
Jibanyan can punch 「ひゃくれつ肉球」, but Doraemon can’t punch 「ひゃくれつ肉球」.
All are different. All are great!

上記は 私はこれができる。あなたはそれができる。

それを議論に応用すると、

私の意見はこうです。あなたの意見はこうです。

あなたと私の意見の違いがあってこそ、議論ができていいし、楽しいな

!(^^)! vvvvv

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