金依存症が蔓延した

 誰しも、

「お金がないと暮らせない」

「お金がたくさんあればあるほど自由に楽しめる」

 と思いこんでいないだろうか?

 しかし、そう思いこんでいるのは今の人類だけである。他の動物も生物も自由に生きているがお金が必要などとは誰も思わないだろう。

 我々はお金依存症にかかってしまっている。

 最近、芸能界で薬物依存症のニュースがにぎわせているが、お金もまた薬物と同じ習慣性が強いモノである。

お金を持たないで外出すると不安になるのもそうである。とにかく、お金を貯めておけばいつでも安心だというのもそうである。

どんな問題も、「この紋所が見えんのか!」と、権力の象徴である菊の御紋で解決に持っていく江戸の黄門様一行だが、今では菊の御紋は「莫大なお金」にとって代わっている。政府自身が金に使われてしまい、法律そのものが金で解決するようになっている。

 こうした状況は原始の時代に、占い師の神託がすべて解決をすることとまったく同じで、今の政府と替わりがない。宗教も阿片と言われるように、神仏も依存症になり、その宗教界はその神仏の教えが絶対的解決策になる。その宗教界と今の経済界はほとんど変わりがなく、金が絶対的解決策になっている。

 これはお金依存症の世界が常識になってしまった結果である。

1.マタイによる福音書 / 6章 25節~34節

  自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。

 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 今日は野に生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、

 信仰の薄い者たちよ。 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 

 

2.ルカによる福音書 / 12章 22節 ~34節  

 命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。

 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。

 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。

 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。

 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。

 信仰の薄い者たちよ。

 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。

 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。

 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。

 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

 

 このイエスの言葉を金依存症の現代人に向かって言い換えてみると

3.ゴンによる翻訳 

 命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩む必要はない。

 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切である。

 空を飛ぶ烏を見ても、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないではないか。だが、自然は烏を生かしてくれる。人間はこの鳥よりもどれほど価値が高いことか。

 どんなに思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるだろうか。

 どうして、どうでもいい枝葉末節なことに悩み、肝心な幹のことを悩まないのか。

 野の露草を見よ。働きもせず遊びもしない。奢れるものは久しからず、どれほどの栄華を極めた平家も最後は滅亡してしまうではないか。

 今日は野にあって、明日は食べられてしまう草でさえ、自然はこのように装ってくれる。まして、人にはなおさらである。

 金の亡者、金依存症の者たちよ。

 あなたがたは、いかに貯めようか、いかに儲けようか、いかに金を増やそうかと考えてはならない。また、そのことに思い悩む必要はない。

 それはみな、世の亡者や依存症の人々が切に求めているものである。天の太陽も月も、地の水も土も、生きるすべての者も、人が何を必要とするかを知っている。

 ただ、これは私のもの、これは自国のものという自分の所有権を捨てなさい。あなたのモノはあなたの肉体だけであるから。そうすれば、必要なモノはすべての人々に与えられる。

 大きく世界を考えて、小さく自分のできることをしなさい。何も心配することはない。自然は人類が真に求めるモノを必ず与えてくれる。

 自分の金やモノを必要最小限にし、天のモノは天に、地のモノは地に、人のモノは人に返しなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。

 あなたがたが何が富であるか、という答えに、あなたがたの心もある。

 あなたがたの心が人の命に本当にあるのなら、お金も永遠不滅ではなく、通用期間付きの命であるような減価するお金に替わってくるだろう。

 変わらねば人はお金の亡者としてイースター島のように人々は生きられずモアイの金像だけが地球に残ることだろう。

 

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