敵が消え失せて味方だけになった

徳島大の授業を二つしてからというもの、

自分自身の中が大きく変化していった。

なんと教えていたら、自分が教えられて、自分自身の意識が変化しだしたのだ。

私が教えていたのは

「みんな違ってみんな善い」

それだけに要約することができる。

上記の絵の目隠しした専門博士たちは、みんなの中の1人1人のものの考え方、個性である。

私も、その専門博士とおなじ 目隠しした盲人の1人であり、特有な考え方と個性を持っている。

1人1人の見解は、それぞれの経験と知識と欲求によって、総合判断された正しい結論である。それを否定することはできなく、できることは、100%肯定することなのである。

なぜなら、70億人同志の見解も個性も、同格としての人間と認めるならば、お互いに100%認め合うことしかできないからである。

お互いに認め合うということは、「みんな違ってみんな良い」といことである。

「みんな違ってみんな善い」の反対は、

「みんな違ってみんな悪い」であるが、その反対意識は、単に自分の意識を狭めただけにすぎない。

自分だけが正しく、他の70億人が間違っているという主張を繰り返す人である。

「象は槍」「象はへび」「象は木」「象は壁」「象は綱」「象は団扇」と主張する人たちで、他人の主張はみな

間違っており、自分だけが真理を語り、自分だけが正しいという狭い了見を強引に主張するだけでなく、洗脳、教育、しいては、反対意見の者は殺してしまう。

つまり、

自分の意識の範囲が自分だけの狭さなのか、

自分の意識の範囲が自分以外の広さなのか、

自分の意識が狭いと、「みんな違ってみんな悪い」となり、

自分の意識が広いと、「みんな違ってみんな善い」となる。

なにが善いか? なにが悪いか? という判断の違いは、単に自分の意識の広狭にすぎないことが解る。

学生に教えて、その学生の態度から教えられて、

私の心の中にあった「自分の意見とは真逆の意見の持ち主である敵たち」がいつの間にか、消え失せていることに気が付いた。

そして、むしろ、自分とは真逆の意見や行動の人たちは、

私にとっては、反面教師であり、私の意見を支え、発展させてくれる人たちであり、

自分の意見や本質を明確にしてくれる鏡のような存在でもあり、

また、自分の意見を広く伝えてくれる人である。

 

つまり、今まで敵対心を持っていたが、それが、消え失せ、仲間意識に変貌していっている。

それはちょうど将棋にように、敵の駒を取った時、その駒を使って、別な敵を攻める味方の駒に変身するようなものである。

敵の駒ととった状態というのは、敵の意見や意識を十分理解して受け入れたときの心の状態をいう。

敵を打つとは敵を理解する

ということなのである。

徳島の帰路に三人徹夜で討論した時に気付いたことがあった。

田舎の隣人意識、伝統的な結や自治体の組織やその圧力、伝統的やり方に、私は長年苦しめられていた。

そして、今の田舎暮らしにおいては、そうした堅苦しい付き合いからのがれ、脱退し、自由きままに過ごしている。

その伝統的な田舎の風習・慣習・考え方は、まさに隣国との国際関係と似ており、そうした問題の解決法は同じであるように思えてきた。

「象は槍」「象はへび」「象は木」「象は壁」「象は綱」「象は団扇」と主張する人たちは、伝統的な風習と同じであるともいえ、それを否定して 闘うのも野暮なことである。

「郷に入っては郷に従え」

というのが、もっとも、うまく生き抜く方法であるが、

「郷に入っては郷に従えない」場合

は、その郷に風習が時代遅れ、消えゆく運命の遺産のようなものであった場合である。

私は実際になんどもそういう場面に出くわし、その郷から脱退せざるをえなくなった。

それでも、なにかしらの関係を維持せざるをえないのが現状であるから、その場合、意識を大きく広げて、

田舎のローカル意識を 地球規模のグローバル意識に広げ、そして、世界の田舎同志を結び付けることで、互いの伝統文化スポーツ・風習・祭りなどの違いを楽しむことで、徐々に、伝統的風習もグローバル化し、外の人も受け入れやすい環境になってくる。

それは 

「象は槍」「象はへび」「象は木」「象は壁」「象は綱」「象は団扇」と主張する世界の田舎もんが、真実の象をあぶりだす理解へとつながっていく、国際交流なのである

これが、戦争から平和へとつなぐ、真実への道筋なのであろう。

 

 

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