パパラギの本の内容は本当に西サモアの酋長であるツアビが話したのかはいろいろと疑問がある。
誰が話たかは、そう問題ではなく、その中身である。
読了後、私は西サモア人なるものはどんな感性をもっているのか知りたくなり、すぐに旅だった。
だが、ツアビという人物はほとんどの人が知らず、ツアビがどこに住んでいたのかも不明だった。
旅行中、
西サモア人はさぞかし西洋批判をしているだろうと思っていたが、それはまったく逆で、西洋にあこがれ、しかも、キリスト教信者になり、その教会を中心にした生活が営まれていた。
日曜になると、みな着飾り、教会に礼拝しにいくのが、唯一の娯楽であり、そこでの、寄付や、労働奉仕を好んでやっている。
毎日夕食の前に、讃美歌を歌い、年長者と旅人から食事が与えられ、子供たちはその世話と、そうした余り物を外のキッチン小屋でつまむという生活である。
この旅が縁で、帰りのバスを逃した私を喜んで止めてくれた家の娘さんと結婚し、二人の娘を得ることができた。
どうして西サモアに行ったのか?
と聞かれるたびに、「パパラギ」に書かれた西洋批判のことを話す必要に迫られるので、それをいくらか伝えてくれたのが、世界不思議発見のパパラギを話した西サモアの酋長ツアビ紹介である。
トランプ登場で、白人至上主義が復活しだした。
人の多様性というのは、国・民族でいえば、国・民族の多様性でもある。
それぞれの文化・生活がみんな違ってみんな善いということは、
それぞれの文化に違いがあって、かつそれらは平等に価値があるということであり、
それらを比較しても、それらの優劣も上下も判断できないということである。単に違っているだけで、どちらの分明も尊重され、同等に価値がある。
もちろん、時代の変化や空間の移動により、交流が深まれば、それぞれの文化同志は、批判や賛美があって、その時代時代にあった変遷をしていくというものである。
人の文化分明も、常に不変なものではなく、他の文化とのコミュニケーションによって、変化対応して、より他にも応用されやすくなるということであろう。
何が良いの悪いのというのは、狭い了見の討論であって、広い視野にたってみると、真実がみえ、みんな善いというものになる。それぞれの文化がそれぞれ自分の文化が最高最上などと主張しあっているのは、群盲象を評すという譬えと同じ御笑い種なのである。
文化には、学問・芸術・生活と多種含まれるように、人々の健康や政治や経営もみな違ってみんな善いという多様性を認めていくと、もっと、地球生活が平和で楽しく過ごせるようになるだろう。
今の西サモアは西洋文化に対して、コンプレックスをもっているように思える。
西洋に真似る必要はなく、もっと、西サモアらしい文化生活を模索して、築いて、自信をもった生き方をしてほしいと思う。
とくに、子が親を選べるという文化は手放さないでほしいと願う。