ネパールは王制から民主制に代わって、少女神(クマリ)を立てることをやめなかった。ヒンズー教・仏教・イスラム教の信仰者が共通して平和の象徴して少女神を祈りつづけている
お釈迦さんが亡くなるとき、信徒に
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自灯明・法灯明
「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」
「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、
他人を頼りとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ
(中村元訳「ブッダ最後の旅)・・パーリ語の経典「大パリニッバーナ経」の現代語訳」
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「自分を頼りに」というのは「自信をもって」の意である。
問題は
「法を頼りに」という、法とは 仏法のことで、
それは悟った釈迦(仏)の言葉(教え)を頼りにとおいう意味である。
釈迦・イエス・アラー・ヒンズーの神々が直接話した言葉も、その記述もない。
つまり、神仏は言葉も文字もない存在としてまず認めなければならない。
少女神(クマリ)も、三歳の時、釈迦の血筋を引き継いだ家系と国と寺院の間で選出され、
その選出基準は泣かない少女、喜怒哀楽の表情を出さない者であり、それはいわば言葉を持たない、発しない神としての代理が務まるかどうかである。
一般に法とは日本国憲法、世界連合憲章のようなもので、はっきりとした 基本精神・信条を文字にしてものであり、各宗教の経典のようなものである。
釈迦自身は 法灯明を説くとき、
「仏から直接聞いたという教師をそのまま信じるのではなく、よくよく 他の教師に聞き、また書かれた経典を吟味して 信じる道を決めよ「
と言っている。
法灯明とはつまるところ、多くの他人の言うこと、言ったことを吟味し、学びながら、自分自身が信じられるモノを見出し、頼る自信・・自灯明・・に行きつくのである。
それは
少女神クマリを信じる人が「クマリは平和の象徴だから信じる」といっている。
平和の象徴としての仏陀・アラー神・ヒンズーの神々を信じるということで、それぞれの宗教を超えて、共に祝い、共に生活できる。
それは
法灯明ということは「共に平和への祈りの意思があるかどうか」で判断せよという意味である。
その教えに「平和への灯り」が見えたら、信じても安心だが、
逆にその考えに「戦争への暗黒さ」が感じられたら、信じてはならない。
この少女神クマリも、日本の天皇(日本国民の象徴)も、平和への象徴としての法灯明に感じられるので、素晴らしい祭りであり、制度であり、法灯明であると信じることができる。
それらは科学的には馬鹿げたことかもしれない。
だが、科学的知識は自然・人間のほんの一部の知識でしか到達し得ていない。それが全能でも、絶対知でもないのだ。
白根山が噴火するなんてことは科学的専門家がまったく予想もできなかったことであるように、科学的知識だけでは、自らの命を守ることはおぼつかない。
自らの命を守るのは、自灯明としての自信と、法灯明としてのコミュニケーションである。