諦めが肝心 DO GIVE UP は恋心に通じ

前回、「Never give up」という主張と反対の「諦めが肝心 Do give up」を今回は主張したい。

特に 恋愛における片思いには 必要なエッセンスである。

私の67年の人生はずっと片思いの連続であったが、特に、初恋の中学2年生の同級生への片思いは10年以上続き、相手からは一言の返事がもらえなかった。

それは青春のトラウマとなり、そうした片思いがサモア人との結婚にいたっても、離婚するという結果をもたらした。

60歳もすぎると、もうそんな片思いも まして相愛など ありえないと、残りの人生を諦めていた。

だが、突然なんと相手が19歳の女の子に片思いしたのである。

寅さんのように その恋の病にとりつかれ、会いたい気持ちをどうにも抑えきれなくなってしまった。

この長い67年間の生涯で、片思いが持続成立するには その恋が「無償の愛」であり、「相手の幸福だけを求める」ことを悟っていた。だが、実際はそんな聖人や高僧のようにはなれなく、ごくありふれた凡人のような望みをもち、「有償の愛」「相愛」を夢想し、いかに会えるかの策を捻るものである。

そうした片思いの辛さとどうにも抑えられない激情を

相手もそうした片思いを経験したのだろう、それを理解して ラインにおける長いラブレターを出し続けることだけを許してくれていた。

片思いというのは 本当の相手を恋するのではなく、自分が創造した相手を自分が求める姿にした幻想に恋することであり、自分の恋愛に恋するような、自己中心な自己愛であり、実にエゴイスティックな行為なのである。

それを十分わかり、相手に相当な迷惑をかけることが解っての片思いで、それは 病人が医者にその痛みを取り去ってもらうように嘆願する行為であり、

しかも、困ったことに、その医者は 片思いをする相手でなければならないという まるで負のスパイラルにはまり込むような また、恋愛依存症のような症状を呈する。

そうしたとき、相手からの一言の返事は特効薬のように恋の苦痛から解放してくれるが、それが一冊の長編小説をかくようなラブレターを毎日書き続けるが、一週間も一言も返事がないと、相手の異変に気が付く。

「返事はいらない」と言って書いてきたラブレターだったが、本当にこのままラブレターを書いていいものか? もう相手も迷惑の限界を超えているのではないか?

そこで、相手の本心を聞き出す妙案が浮かぶ。

このまま長文のラブレターを書いていいものか、返事がなければ「書いてはダメ」というメッセージだと理解すると、最後のラブレターを送った。

すると、すぐに 長いラブレターを読んでたみたいで、その具体的内容にもふれて

「交通違反! 本当に迷惑!」

これは 片思いの病から解放させてくる特効薬になった。

本音で 互いにぶつかりあえば、そこに新たな道が開かれると悟った瞬間でもある。

通常、それを失恋というが、それは相愛があってはじめて成立できる失恋であり、

片思いには失恋はない。

片思いの病から、解放された実にすがすがしい 晴れた気分であり、

初めて会ったときに、リセットされたような こんな人に会えたことの喜びが滲みだしてくる。

それは 自分ができることはすべてやりつくした感があり、その結果が失恋のようであっても、そこに大きな幸福感と満足感に包まれてくる。

10代の初恋の無言の片思いのトラウマから、67歳になって初めて解放された自遊を満喫できた瞬間でもある。

多くの友人の青春時代のトラウマで 死ぬまで一生涯苦しむ姿を見てきている。それは他人でも、友人でも、何もできなく、ただ見守ってあげるしかない。

私は10代はずっと精神病に苦しめられ、そして、宗教の狂信妄信にも、また 喫煙やパチンコやメタボのような依存症にもさいなまれ、そこから脱出してきた。

今回 まさか青春のトラウマだった片思い病からの脱却ができた幸福はひとこと、「生きてきてよかった。あきらめて自殺しなくてよかった」という感慨にふけっている。

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ここからは 私の得意分野である哲学的思考に入っていく。

仏教でいう愛とは執着のことであり、キリスト教の愛とは仏教では慈悲である。

苦(煩悩)の原因には108ある

眼・鼻・耳・舌・身・意(六根)

×苦・楽・不苦楽(三種)

×貧・不貧(二種)

×過去・現在・未来(3位)

=合計百八苦

〔出典〕大智度論
〔例〕「百八のうち五六十嫁のこと」(古川柳)

これら108の苦はみな一つの欲望に留まろうとする執着から起きる。

恋愛の対象を一人に絞り、その一人にこだわると 恋の病(苦悩)は無限に増大していく。

それは終わりなき愛欲望列車である。

一つの欲望にこだわり執着したとき、自他破壊が起きる。その末路は相手を殺して自分も自殺するか、ともに自殺するかである。それが一つのアラーの神への信愛であっても同じで、それは自爆テロとしての末路が待っている。

仏教の愛は一つの愛であり、それにこだわる執着でありそれは一神教でもあり、仏教の慈悲は多くの愛であり、それぞれの愛に特別こだわることなく、博愛することで多神教でもある。

欲望の負のスパイラルから抜け出すには 知足つまり足るを知って、小さな幸せで満足することである。

片思いも、知足のように、知愛つまり愛を知って、小さな慈悲のような愛で満足することで その苦しみから解放され、楽になる。

自分の愛や自分の欲望には「Never give up]は通用しないばかりか、逆効果、負にスパイラルの増大、憎悪増大になってくる。自他の愛や自他の欲望や夢や希望は 自然に合う限りにおいて、「Never give up]は通用する。

自分の愛や自分の欲望には「諦めが肝心 Do give up]だけが通用し、知足、小さな幸せ、小さな親切で 自然な友愛のような関係が持続する。

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実際問題、片思いに理想的な無償の愛の適応は難しく、そういう愛する人に出会えただけで満足するような片思いは友愛となって持続する。

また、その小さな幸せと満足ができにくい場合、その自分の愛を徹底的に分析・発展させて、その極限にまでいたらせることでも、友愛という形で持続可能になる。

片思いであれ、相愛であれ、その愛は相手の幸福・相手が本当に望むことを助けたいという心である。

もし、相手が片思いする自分を嫌い遠ざけたいと願うならば、その願いをかなえることは容易なことであり、それは自分しかできないことである。そこで、相手の気持ちとの一体感が実現し、ようやく同じ気持ちで ともに生きていくことができるようになる。

それは失恋ではなく、本当に相手を愛すると必然的に相手と同じ気持ちになってくることで、なんら問題はなくなり、恋愛執着地獄からの解放がされることになる。

今回、私は後者のとことん愛しつくした時の境地を味合わせていただいた。それがまさか、初めて相手に巡り合った時の状態にリセットされたような感覚になろうとは この世の摩訶不思議な体験を そう今日も明日も、誰にも予想しないことが起きている。

この感覚は 「Never give up]を自分の持てるすべてで突入すると、そこは「諦めが肝心 Do give up]に到達するのである。

それは弁証法における正反合のような相対的感情がアウフヘーベン止揚するようなものである。

この感覚はいわば地球の磁場の男がN極、女がS極のようなものになり、

地球の真ん中では 男女(N局S局)は引き合い一体になっているが、それが離れていくと、反発するように地球の遠くの方に飛ばされるが 遠く円周を描くようにして、また引き合いつながっていく。

 

地球が回るのは時の流れである。

恋愛する男女が反対方向に歩きだすと、それはいつしか地球を一周して また巡り合い、新しい形の恋愛が始まるような関係ともいえる。

 

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