いつもの散歩道のソメイヨシノの坂道
十数本の桜のソメイヨシノに、なんと数個のサクランボが実っているのを発見した。
その確率からすれば、万が一というよりも、もっと奇跡的な確率に近いものではないだろうか。
染井吉野はたった一本の実のならない桜の木の枝の挿し木から作られ、全国にその花の美しさから、挿し木によって広がっていった。
ところが、その染井吉野に身がなるという事実を発見した。
物事の多くはこうした「絶対に・・染井吉野にはサクランボがならない」というような考え方が多いのではないか。
この世界に絶対という現象はないことからも、どんな思想、どんな信条、どんな科学にも、絶対という知識はないということである。
そもそも、この世を眺める自我を持つ人間が生まれる確率からにしても、奇跡の自己をもつ人間であり、
そうした人類を生み出す自然現象は、みな奇跡的なものであり、人類が想像するよりも、
もっともっと 奇跡的な現象であり、
そこに「絶対! 何々・・」という断定!など、できるはずもなく、
どんな考え方、どんな感情、どんな法則も、どんな知識も、絶対的な事実も真実も ありえないと言えるだろう。
まして、
我々の未来を占い断定するなど、馬鹿げたギャンブルにすぎない。
そもそも
希望はどうして生まれるのだろうか?
もし、絶対的な現象が真実だったら、
そこに希望など産まれやしない!
この世界はみな奇跡的な現象に満ちているからこそ、
希望が産まれるのではないだろうか?!
まして、
「あの人は 絶対こうだ!」
というレッテル貼りなど、典型的な妄想、迷信であると思った方が間違いが少ないだろう。
「あの人がこうだ!」と断定できる確率は奇跡的確立だからである。
それはまた
「自分はこうだ!」という断定もまたそうであろう。