物事を判断する上で、
特に科学においては、事実を組み立てていく知識であるし、
裁判でも、証拠としての事実が最も大きな基本となる。
社会において、こうした事実は
物事の結果として捉えられる。
だが、その結果の原因を追究することも大事であるが、
その追及そのものがほとんど中途で終わって結果だけをみて判断されてしまう。
平成28年7月26日の障碍者施設でその看護人が入所者46人が刺され、障碍者19人が亡くなった事件で、
逮捕された元職員が語った。
「障碍者は不幸を作ることしかできません」
彼もまた「障碍者を事実としての結果」で判断している。
妹の障碍者亜由美の看護ドキュメンタリーを撮影するNHK青森でディレクターもまた
「障碍者を事実としての結果」として「障碍者は幸福を作ることができる」とそれを証明している。
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障碍者という事実に対して
それが最も大事であるとしたら・・
どうして人によって、その事実から「不幸」とか「幸福」という正反対な考え方が出てくるのだろう?
そこから見えてくるのは
事実としての結果ではなく
その事実をどうとらえるか?
ということの方がより重要ではないか?
ということである。
障碍者の亜由美と双子の学生もまた別なとらえ方をしている。
障碍者はその家族より社会が責任をもって看護すべきとして
障碍者は「幸でも不幸でもなく、社会的病人」としてみている。
18分のところで、女房が語る
「主人が何をしたのが大事ではなく、何のためにそうしたかが大事である。でくの坊には判らないと思いますが」
つまり、
その結果としての事実よりも、その原因となる事実の方がより重要だととらえる。
障碍者は一種の病気としてとらえることもできるが・・
病気も、健康も、一時の結果としての事実としてとらえることができる。
だが、その事実としての結果になる原因が何か探ることは難しい。
そうした結果よりも原因の方が大事としても、それを判明させるのが至難の技なのである。
となれば・・・
簡単にわかる結果としての事実、
その事実の原因がわかる難しさ・・
それからいえることは?
その結果としての病気や健康という事実を人それぞれがどうとらえるか?
それが最も大事ではないか!
ということになる。
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どんな結果も原因としての事実も、一瞬の出来事である。それが絶対的に持続することはありえない。
生々流転の事実と現実からすれば、
その事実としての結果も原因も重要ではなく、
その事実を人一人がどうとらえるか?!が重要であり、
それは「どんなことをしたか?」
というよりも、
「どう生きたか?」
という過程が重要であって、「結果や原因としての事実」ではない。
健康や病気や障害は一時の流れゆく事実であり、
大事なのはそれらの事実の前の生き方過程にある。
健康者でも、病人でも、健康であろうと努力していく生き方が重要である。
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ダイエットは目標体重がクリアしたら終了ではない。
ダイエットは一生涯 健康であろうとする意識と努力が重要であり、その結果が健康であろうと病気であろうと、障碍者であろうとそれは問題ではない。
その事実より
その事実をどう捉え
自分がどう生きるか?!
が重要である!