奇跡を求めるということ
奇跡はそれを求めて得られるというものではない。
疑問に思うことがあると、
その答えを見出した時に、
それが奇跡だと気づく。
それは
この世の奇跡に気づくことが
求めるということである。
それが知るということである。
つまり
奇跡に気付くことが知るということだ。
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奇跡詐欺商法
少年のころは
サンタクロースの話を本当だと信じてしまう。
そうした奇跡的な話を求めたり、信じてしまうのは少年少女の特徴だろう。
また、
祖父から地獄の話とその絵を見て、それが本当だとつい信じ込んでしまい、
怖くてたまらなかったこともそうだろう。
最近、オーム真理教の教祖とその信徒13名が死刑になったが、
この教祖の麻原は私よりも5歳下である。
私が中学高校時代には奇跡や悟りを求める風潮があった。
麻原が空中浮遊というジャンプした写真トリックを奇跡として
あたかも、麻原が神か仏のような力と悟りを得た者のように信じ込ませる
宗教詐欺に青年たちはコロッと騙されて入信し、金を分捕られてしまう。
超能力とか超常現象とかに興味津々で、それが起こせる人を神か仏として、
あがめ、その人のいいなりになってしまい、けして教祖を疑おうとはしない。
こうした詐欺は言葉をうまくあやつることで、
相手に信用させ、お金をまきあげる詐欺商法のオレオレ詐欺と同類でもある。
投資で、簡単に儲かる話にひっかかるのも、これまた人が奇跡的な物事を求める特徴があるからだろう。
こうした奇跡詐欺を信じ込みやすいのは少年少女だけでなく、
オレオレ詐欺のように愛情が強い年寄りにもいえそうで、年齢的なことより、むしろ奇跡的なことをどうとらえるか?で、騙されるか、騙されないか?の道が分かれそうである。
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奇跡も事実も確率的事象
奇跡とは確率的に非常に少ないことの総称であろう。
ギャンブルというのも確率でもっともシンプルななのは丁半の確率50%で。
科学的事実というのは100&ではない、95%あればほぼ確実として通るようなものである。
では地味な仕事はどうか?
それも100%の推測通りのお金が入るとは限らない。
この世あの世にも絶対的な100%の事象はありえないし、それは絶対的な神仏は存在しないともいえ、すべてを知る悟りなども到達できないことも、そういえる。
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生まれた自我こそ奇跡
この世に生まれ(=あの世から生まれ)
この世の事象を見る自我は
この世の世界の窓ともいえるもので、
その自我こそ、確率的には奇跡以上の超奇跡みたいな存在である。
その超奇跡的な自我を持つ故に、
人は奇跡的なことを信じ、奇跡的なことを求めていくのだろう。
その特質は奇跡的な命をもらった自我にはけして変えられないだろう。
けれど 人は他人に
なんども騙され、なんども信じては裏切られていくと、
すぐ信じ込まないで、まず疑ってかかる用意周到な知恵を持つ。
そして
どんな物事も自分が納得いくまで確かめてから決断して行動するようになってくる。
その検証と決行を繰り返ししていくとあることに気付かされる。
それは
リセットのようなもので、
常に振り出しに戻されて、自分自身の姿をその奇跡的な存在を改めて気づかされる。
それは疑問に思っていたことが解るということは
追い求めていたものが自分自身の中、自分自身の姿に気付かされること。
奇跡も、悟りも、この自我の姿・自我の中にあることだ。
例えば
陸稲を8年も自然栽培しようとあれやこれや実験してきたが
陸稲栽培は自分の畑では不自然で不向きであるとして諦めた。
そして、
主食という稲という常識的観念から抜け出て、自分が本当に望んでいた畑の姿が、
自然栽培で、いろいろな野菜や穀物を作ることであったことを知る。
イネだけではなかったのだ。
それを知ったのは、稲というものを追いかけて、自分の本当の欲望に気付かされたからだ。
自我という命は生物多様性と人間多種性に支えられていることを気付かされる。
それまで求め続けていた自給自足、主食の自然農法という妄想から脱却できたということである。
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つまり
奇跡とは自分らしく生きることである