自然の美しさに埋没

健康 平和 を考えながら

自然を意識すると

出逢う人の心の壁が消え去り

オープンな関係になるようだ.

ウユニ塩湖の6人のペルー スペイン ドイツ メキシコ インド 日本

での楽しさはいったいどこからやってくるのか?

二度目のウユニツアーと比較してみると、どうやら、6人は一人旅の人たちであり、二度は家族 友人 そしてオーストラリアの一人旅だった。

僕は一人旅の人との心の交流が特に生まれた。

その比較から、同じ目的と心を共有したときに、楽しい気分が生まれたのでないか?

旅の前に作成したプレゼンは

余りにも抽象的すぎて 旅の現実からすると空しいつぶやきとしか感じない。

もっと

現実的な経験を分析した方がより強いメッセージが得られる。

そして

健康平和自然にどうつなげていくか?

それをプレゼンした方がよさそうだ。

特に

マチュピチュでは写真ビデオをとることに意識が集中していて

瞑想して そこから何かを得られるようにはなかなかできない。

それで7度マチュピチュにいって 写真ビデオをしないで、

一人瞑想するように残り6度をとトライしたいものである。

ここマチュピチュの自然環境は日本の山ではありふれたものであり、

特別、違うというものはない。

ウユニ塩湖にしても、日本の雪原風景とそう変わりがない。

鉄道にしても、観光にしても、安価で、観光客への接待は群をぬいている。

マチュピチュの遺跡にしても、日本の古城あとのような石垣と大して違いはない。

インドの仏跡のおいても、その石組の家の跡とも変わりがない。

だが、

何故、マチュピチュに世界各国から高いお金を払い、

なおかつ、入場制限するほどの人気があるのか?

失われた文明という意味での物語に酔いしれているのではないか?

サイババに群がる世界中の人が集まったような群集心理とにている。

山岳に村を作り、暮らしたのは、敵から身を守るように、隠れるように、

高地に平地から見えないようにしたようにも思える。

だが、そんな生活が持続させるには、平地における衣食を高地にもっていかなければなるまい。

それは、どんな村社会でも、国際化していかないと生き残れないことを示しているのでないか?

二度のウユニ塩湖のツアーメンバーによる楽しさに必要だったのは、

全体意識である。全体が楽しめ、心を共有するような写真撮影などをして、そこからコミュニケーションをしていかないと、楽しさは実現できない。

自分がしたいことと他人がしたいこととは合った時に喜びが生まれる気がする。

自分の健康な体と平和な心と自然と共に生きる生き方を示すことが最も効果的な全体社会へのメッセージであると思われる。

 

インカがスペインに対して排他的ではなく

友好的に受け入れたら  滅亡しなかったのではないか

日本がアメリカとの交易に承諾したから 明治維新に発展できた

初めての出逢いでは 最初に友好的かどうかで

その後の平和か戦争かが決まってしまう

人間関係において

固定観念をとって相手と接するかどうかで

心を平和なオープンの関係になるか決まってしまう

 

アメリカ映画は金とセックスと正義が強く求められる

だが

この金 セックス 正義はどんな時も求めない方が

人間関係を平和でオープンにする

それは営業で売り込もうとするとガードが固くなってしまうのと同じである

欲望には謙虚さがあってこそ

健康と平和と自然さが保てる

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マチュピチュに14日滞在し、7回トライして感じたことは

日本の山と古城後とそう変わりがない、

同室だったスエーデンのアンナが私の家の写真をみて、

マチュピチュみたいと言った。

そこでハットしたのだが、

確かに、だんだん畑に家があるし、山の中である。

いかにいつも過ごしている家が世界中の人が望むような生活をしていると

気付かされた。

それに

娘たちの存在がいかに自分の幸福に大切であるかも知らされた。

それはほとんどが、カップルか家族でマチュピチュに訪れるからであり、

独りでくる人は僅かである。

今回の新しいプレゼンで気づいたことが

そのまま実感できた。

若いカップルと親しくなることが多く、

しかも、何かと行動をともにすると

家族のような安心感が芽生えてくる。

それは娘たちのカップルとの付き合いを予想しているような感じさえする。

 

 

 

 

 

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