娘が古希70歳の誕生日に洋服をプレゼントしてくれた。
デザインは好きだったが、Sサイズで、Mサイズの私には着れなかった。
その時、買ったところでMサイズに変更してもらうよう頼んだ時、その言い方が問題あったようで、
「ありがとう」の一言もないということで、怒り出し 言い合いになった。
数時間して、ライン電話で、お互いに言い過ぎたことをわびて仲直りした。
こうした
子が親に対して何か良いことをしようとするときには、こういういざこざが繰り返される。
数か月前にも、
嫁いだ娘が、玄関の雑草取りと部屋の掃除に来ると言ったが、私は断った。
玄関の雑草は食べられる雑草を育てており、その区別は難しいこと、へやの掃除片付けも、私がいろいろととアート作品を作るようにしてやっているので、娘の趣向でめちゃめちゃにしてほしくないからだ。
それを納得させるために、
「自分の家とモノだけは自分の自由にさせてくれ。お前のモノだけを整理することは大歓迎だ」
その言い方にも娘はムカッとくるようで、せっかく父親のために良いことをしようとしているのにという気持ちが強かったせいである。
こうした親子のなにげない些細な喧嘩には、
多くのコミュニケーションの大事な心と技術が隠されている。
友人・知人・隣人そして大きくは国際関係のコミニケションのマナーと技術にも応用できる。
喧嘩や戦争はお互いの信念の違いから起きる。
それが古今東西最も顕著なのが、宗教と民族闘争である。
その民族がどんな信念を持ち、どんな生活を営んでいるか?
その違いを尊重せずに、他の民族に、自民族の宗教と生活を武力強要するときに、残忍な戦争が起きる。
親子喧嘩も 親子それぞれの信念と生活を尊重せずに、相手に言葉と感情で強要するときに起こる。
生活は信念から形成されるので、喧嘩が起こるのはお互いの信念の強要が原因である。
命ある人に絶対的な真実を求めることはできても、悟ることはできない。
そのため 信念を頼りに生きていくしかできない。
喧嘩は、自分の信念を絶対視して 他に無意識であっても、強要させてしまうときに起きる。
こういう喧嘩せずに平和に生きるコツはこの信念の絶対視を避けることである。
自由とは自分の信念を自分の生活に活かすことである。
自分の自由を守るためには、他人の自由をも認め尊重する必要がある。
他人の自由を尊重するということは
他人のその信念と生活を尊重するということである。
自分の自由を楽しむためには、
自分の信念と生活を他人に荒れさせず、自分の心に正直に生きることである。
平和な生活を営むには
自他の心の尊重と自由をまず優先して
自分の言葉と行為を推敲し、自他の信念を絶対視せずに、真実を求めていくように生活することだろう。
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