表現するということ
マルセ太郎が最も大事なことは表現するといいうことだと言った。
彼にとって表現するとは自身の芸を披露することである。
私にとって「表現する」とは「自分を他人にどう伝えるか?」ということである。
過去70年間、自分の考えを他人に言葉で伝えることであったが
その効果はほとんどなかったというより、語らなかった方がマシだったように思える。とくに、思想的なことは反発をくらうだけで。人間関係も悪化したようにも思える。
老いていく70歳になって 過去70年間信じていたことが次々と違う考え方になっていく。表現についてもそうである。
「どう表現すれば最も効果的なのか?」
生きることで重要なのは生きる目的よりも、生きる過程であるように、
表現の内容よりも、表現方法が重要であり、言う内容よりも、言い方の方がより重要で効果的である。
断定的な 抑圧的な言葉を本能的に人は嫌うように、
悟りきった言葉や、上から目線の言い方は敬遠される。
喧嘩でも、その中身は大したことではないのに、その言い方で殺し合いにも発展してしまうことだってある。
目的に向かった行為にも、目的にあった行為にも 脱線した行為や雑事の方がより重要であることも多い。
それは目的よりその方法に、結果よりその過程に より価値があるからだ。
結果がすべてではなく、その過程がすべて
仏教の仏(悟った人)また仏法(悟り)が大切ではなく、
悟ろうとする凡人、また悟ろうとする意志がより大切であるともいえる。
結果がすべての世界では上下関係の堅いピラミッド構造になってしまう。
過程がすべての世界だったら、上下関係よりも友達関係やコミュニケーションの楽しさがある柔らかな円満構造の世界に変ってくる。
なぜ老いる70歳になって初めてこんな結果よりも過程という考え方になったのか?は、
きっと 欲望が少なくなり、目的も小さくなってきたからだろう。
過去70年間を振り返って内省したとき、
あまりにも、目的に固執し、夢実現にがむしゃらで、その
結果しだいで大きく人生が乱されていたように思える。
自己犠牲する愛や英雄 また人々の幸せへ導く思想、絶対的な神仏への信仰と信心に 自分のすべてを捧げていたように思える。
だが、それらがことごとく本物ではなく、偽物だったということを知ってズタズタになってきた。
その原因が、本物という結果のみ大事にしすぎて、偽物を毛嫌いしてしまったことであろう。
何が本物で偽物なのかは本物を決めた時点で生まれるもので、人生における神仏のような本物なんて決めることも 悟ることもできないというのがより真実に近いだろう。
それはより本物(神仏のような)になろうという意志とその努力(過程)にこそ、楽しい極楽の日常があるように思える。
ダイエットにおいても、
健康という目的そのものよりも、健康になろうとする意志と努力行為の楽しさにこそ、
生きていく意義があるように感じる。
その意識においては、病人も健康人も差別がなく、ともに努力し楽しめる友がいるということだ。
平和のための戦争?
「平和のための戦争」という矛盾に騙されてしまう現代世界であるが、
目的よりも手段の方により価値があるとすれば確かな世界を築ける。
「平和のための平和的手段」でこそ、意義があり、問題解決もしやすい。
そもそも戦争は敵味方の幻想を盲信して始まる。もし、平和を求める意志があれば 敵味方を前提とはぜず、ともに平和を求める友人同士という意識になる。
戦争や競いあいは一種のパフォーマンス 演出であり、そのゲームやコミュニケーションを楽しむ友同志というのが実態というのが受け入れやすい、
結果よりも過程にフォーカスして観て判断することが大切であろう。