「汚れはアートだ」とそのまま受け取ってもらうと誤解が生じる。
実はこんなことがあった。
浴室はカビだらけで、プラスチック系の材料にビニールコーティングされているのだが、そのビニールコーティングに壁が腐食していて、カビキラーなどの薬剤で落とせるものではない。そこで、軽いボチエチレンとプラスチックのタイルを買ってきて、そこに貼り付けることにした。
6枚一組で6セット買って、カビの部分が隠れるようにして貼り付けたが、3枚と半端なタイルが余ってしまった。一部カビがある部分があるが、それを隠すように高さを合わせるともう3組買わなくてはならない。1組2280円するのでお金がかかる。
残ったタイルや半端なタイルは捨てるか倉庫入りするかと考えていたが、娘が汚れの部分だけ残ったタイルを切り取って貼ればいいではないかとアイデアを出した。
なるほどと思い、汚れた部分だけが隠れるように残ったタイルを切り取って、貼り絵みたいなことをした。
「そうか、汚れはアートになりえるのか!
いいや、汚れをアートにして美しくさせるのだ!
いやいや、アートそのものが汚れを美しくさせるハートなんだ!
下の娘が柔道着のズボンの膝の部分が破れたので新しいズボンを買おうとした。
しかし、昔から柔道着は破れては接ぎ当てをして、使い古したものだ。その方がいかに柔道を練習してきたかも解るし、その接ぎ当てた柔道着にアート・・美とハートと力を感じる・・・ことができる・
翌日、
仕事場の壁紙を張り替え、フローリングを作ったが、最後に天上の蛍光灯のカバーの汚れが気になってしまい、それをはずそうとしたが、手ではずれない。そこでスプリングのボタンを手で押せないので、木と金槌でたたいたら、スプリングが動いて、カバー全体が落下して、プラスチックのカバーは粉々に壊れてしまった。
そこで
「汚れはアートだ!」
を思い出した。壊れた蛍光灯カバーをアートに変身させればいいではないか。幸い、針金と障子の張り替えした紙が残ってる。和風の蛍光灯カバーに変身できるではないか!
こうして、
汚れや破壊されたものやゴミのようなものは、必ずアート作品に変身できるという確信をもった。
人だってそうではないだろうか。
汚い人間、ゴミのような人間、ボロボロになった人間も、アートの心で人間国宝に変身できるのではないだろうか。
浄土真宗を創設した親鸞の書いた歎異抄の第3章の冒頭に
「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
とある。これは仏教・・宗教の愛の心であるが、汚れ壊れた生活用品を美しいものに変身させるアートの心を人の精神生活に応用したといえるのではないだろうか。
宗教的な愛というのは「赦し・許し」ではないだろうか。
許せないことには、「こうでなければならない、新品が一番美しい、人はこうあるべきだ」というような固定観念がそうさせている。しかし、そうした固定観念を取り去って、何が一番大事なのかを見直すとき、そこに美と優しさと人の絆が生まれてくる・・・そのときに、アートや癒しが創造されるように思えるのである。
もともと、それが 汚れ だと決めたのは、人間だけですしね。
>pikaさん
コメントありがとう。
人間は宇宙創造した神のように地球に対して振る舞う。
何か大事なことを忘れているように思えます。