果樹を植えることにした

 引っ越しとリフォームの日々で、河川敷の畑がおろそかになっていたので、どうなっているか見に行った。

 なんと、雑草に覆われて、野菜は花を咲かせてはいるが、圧倒的に数が少なく、収穫できるものではなくなっていた。

 雑草に負けないような強さの野菜を作ればいいのではないかと思い、その野菜やハープを探すことにした。

 収穫といえば、昨日、以前の住民の畑のビニールハウスにあったえんどう豆を収穫して食べた。ビニールハウスのほとんどはブロッコリーで、花がたくさん咲いていたが、食べられるところはほとんどなかったが、ほんの半坪のところに植わっていたエンドウ豆だけが食べられただけである。

 私はサヤ付きで食べられるキヌサヤは少なかったが、家族の夕飯のおかずで、肉と一緒に油でいためて、卵をかけておいしくいただいた。やはり、収穫したては歯ごたえと新鮮さがあってひと味もふた味も違うようだった。

 河川敷の自分が作ったエンドウ豆は雑草にまけて実がなっていなかったので残念だ。エンドウ豆はやはり支柱を立てないと、地中をはう感じで実がなるようだが、それだと実のできがばらけて、調理がしにくくなるように思える。

  畑には雑草対策が一番必要のように思える。

 昨日、サクランボの苗木を1本植えたが、何か寂しそうである。父母の記念樹ではあるが、何も樹木葬とするから寂しくなるのだと思えた。人は樹木になるよりも、人は神仏のように未来の子ども達を守り育てる存在になった方がより役に立つような気がしてきた。

 つまり、樹木葬をやめて、山葬に変更した。御山自体を先祖の山のように扱えばいいのである。樹木だと人のようだが、山だと神仏のようになれるではないか。

 母が生前言っていたことがある。

「もう人は嫌だ。神様になりたい」

 そのときはその意味がわからなかったが、いわば自然回帰への心だったのだろう。

 雑草に負けないように成長するには、その背丈が高い果樹の方が栽培しやすいように思える。偶然にもここ山梨はフルーツ栽培の盛んなところである。まわりはブドウとモモ園ばかりである。

 そこで、家の周りのすべていろいろな果樹を植えてみたくなった。先祖はこの大地そのものになってもらうことにして、果樹園そのものを先祖の記念山にし、その山の中で生活する子どもや孫が今の自分の家族になるようにしたくなった。そうなれば、先祖の大地に守られて健やかに育つことができるようになるではないか。

 考えてみれば、我々の先祖は地球そのものとした方がより効果的な自然循環になれ、人々の和も広がってくるような感じがする。

 先祖とか、死後の世界をもっと別な角度から観られるようにしたい。

 つまり、

 人は死ぬと自我が無くなって、公の我・・たくさんの我・・・になるといえるのではなかろうか?

 もし、自我が生前のように残しておくと、永遠の自我のような幻が生じ、霊とか、魂とかになって、人間関係をややこしくするように思える。

 人の心はほおっておくと、つくづく雑草のようなもので、食べられ人の役に立つような野菜の生長を妨げる。そんな悪さをする雑草も秋冬になれば枯れて、大地になるように、人も死んだら、大地になって自我が消える世界だと想定した方がいいだろう。

 先祖の名前は子孫や友人の心の中のメモされればいいだろう。

 自然に名前はない、地球には名前がない、不名草樹であり、あの世とはこの地球のことだったのだ。

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