昨日から5日間全ブース借りていたお客さんが当日の午後1時になってキャンセルした。
予約金も約束の日付をのばされて当日になってしまった。そのため、キャンセル料がかかることをつげたが、99%支払うことはないだろう。そうした失敗経験は何度も受けているが、ちょっと注意散漫だと、だまされてしまう。
そして思ったものだ。
お金の実態は信用創造による信用貨幣(借金システム)が90%である。今回の子ども手当にしても国債という借金をして支払うのである。
会社の倒産も、借金が返せなくてそうなる。銀行だって、自分にお金がなくても、日本銀行から借金して、その金で国民に貸している。
借金は必ず利息を付けて返金しますという約束からなっている。金儲けがたくさんできる株式だって、借金の変形である。金融商品のすべてが、信用度のランクでその利息が違ってくる。
お金が信用から成り立っているということは、経済生活もまた信用から成り立っているということである。
信用と信仰とは本質的には同じものである。
キリスト教は、イエスを 「信じれば救われん」というのが基本である。
マルコによる福音書 / 16章 16節
信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
パブテスマというのはイエスが復活したことを信じるというものである。歌のゴスペルという意味はGospel”とは英語でGod Spell(神の言葉)=Good Spell(良い知らせ)が変化した言葉であり、「イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪の身代りに死んでくれて、そしてよみがえられた。この方を信じれば救われ、天国に行けるということが良い知らせ=ゴスペルである。
人間が生まれ変わること、人間が神様になれること、またその神人がキリストであることを信じてはじめて通用する信用社会である。これは仏教でも同じで、釈迦が仏陀であり、すべてを悟った人であると信じることを基本にした社会である。
こうした宗教と同じで、借金システムにより信用貨幣は「お金を貸したら必ず利息を付けて返す」という約束を信じることを基本にしたものだ。
もし、キリストを信じなくなれば、キリスト教社会を離脱することになり、釈迦が悟った人でないと信じなければ仏教は通用しない。
借金を利息をきちんと返す人は信用され、救われ天国に入るが、そうしないと罪人になり、地獄におちる。
科学は事実から基づいたものなので、計算を間違わなければ月に人を運ぶことができる。しかし、借金を利息付きで返金できるかどうかは、その人の意志に依存するだけで、確実なものではない。そのため、宗教社会のように、借金を返すことが道義であり、法律であるというのが政治経済社会である。
つまり、今のお金のシステムは宗教の信仰システムとなんら変わりがない、不安定な「信用」から成り立っている。それは砂の上に家を建てるようなもので、ちょっとした災害にあればすぐに崩れ去ってしまう運命である。
そのため、借金システムをしないように、店の経営を前払い制の予約にしていたが、それでもつい相手の言葉を信用してしまう経営をすると痛い目にあってしまう。
宗教から科学に向かった世界歴史のように、言葉の信用とう不安定なものから事実という確実性が高いものを基本にした貨幣システムを築かないと、経済は安定しないだろうと、人間関係も不穏になってしまうだろうと思うのである。