一体、植物は人間に食べられたいと望んでいるだろうか?
どんな生物も生きたいと望むはずである。食べられたい、殺されたいとは生物である限りありえないことであろう。
生存の欲求が一番強いのが生物の基本だからだ。
しかし、エデンの園のりんごの木のように、人は食べたくなるように、おいしそうにリンゴの実が実るのはどういうわけだろうか?
それは自分の実(身)を食べて欲しいと望んでいるかのようにさえ見える。
これは学校の授業で習ったように、人がりんごの実を食べると、その種を他の遠くに運んでくれ、新しくその種からりんごの木が生まれるという、「種の保存」というより「種の継続」のためだと思える。
つまり、人が永遠の命を願ったり、生まれ変わりを信じたり、また愛する人のために命を捧げようとすることと同じ命の永続の願いではないだろうか?
どんな生物も自己の命よりも、もっと大きな種の命を望んでいる。人でいえば、自分の命よりも人類という種の命の継続を望んでいるといえる。
昔、海でクラゲがたくさん浮いていたので、それをとって海辺に捨てていたら、一匹のクラゲが怒って私に向かって襲ってきた。どうみても勝ち目がないのに、そのクラゲは自分の身を捨てても、クラゲの種の命を守りたかったのだと思い知らされた。
「一寸の虫にも五分の魂」とは、まさに「種の永存」の力であろう。
この種の永存欲求は自己の生存欲求よりも強いというのが自然の摂理である。そのため、世界各国がどんなにもめようと、最後にまとめる力は人類という種を守ろうとする環境問題であることがわかる。
もし、宇宙戦争が起きたら、地球人類は一致結束して人類という種が永続するよう戦うだろう。人類同士が今までどんな敵同士であっても、そうなるはずだ。
畑をどのように作るか、まだ考え中だが、今、「種の保存・永続」という視点で、循環させてみたくなった。
つまり、今まで生ゴミから堆肥をつくって野菜を育てようと思ったが、それだけではまだ循環できない。野菜を育てるには種がいる。苗木もいる。
そこで、野菜や果物の種から育て、実がなったら、次の野菜果物の種と、食べて生ゴミにする堆肥とに分けて循環生育させていくシステムをつくりたくなった。
こうした小さな自給自足の食べ物の永続的な循環がうまくできるか試したくなったのである。
そこで、野菜や果物を買ったら、そこから種や一部から、新しい野菜や果物を作り出すようにしたくなった。
つまり、全部食べないで一部を再生し元の野菜や果物に再生するマナーを育てたいのである。
アイヌ民族が狩猟するさいに、必要な食べ物だけ食べて、それ以上はけして狩猟しないで、その食べ物環境を守るという伝統とおきてと同じである。
種の永続をどんな生き物も、自己の生存欲求よりも望んでいるという事実から、それは自然のおきてであり、自然の心理学という科学でもあるだろう。