幸せには失敗という文字がない

 最近、幸運が続いている。

 というのは、やっと新車が来たのだが、業者の方から納車が遅れたので、7万も高い車のランクにあげてもらい、さらに、遅れたので、マットやipotの接続コードの両方で35000円も無料で付けてくれた。

 納車は2ヶ月くらい遅れたが、その間代車が提供されていたのだが、その代車を娘が運転中、ぶつけられて車がへこんでしまった。もし、それが新車だったら、かなりがっくりしたことは確かだ。古い販売店の代車であったため、販売店の方に迷惑をかけないですんだ。

 こうした幸運はよい業者に巡り会ったためだ。バイクを買うときもそうだが、最初は変な業者で高くて質も悪い車をかうはずだったのに、何かのハプニングで、その業者をやめ、今のよい業者に巡り会った。

 よい業者はそのときは儲からないけれど、「損して得をとれ」というような性格が自然ににじみ出ている。というのは、なにがあっても、今後その業者で車を買い、修理したくなるからだ。一生の関係になるので、長い年月からいえば、その時損をしても、あとで大きな得がまいこんでくるはずである。

 自分が家の購入や店の経営で大きな失敗を何度もしてきたが、その失敗なくして、今の幸運な家と店にはならなかっただろう。そう思うと、失敗は失敗ではなく、あとになって成功への道筋をつけてくれたものだということがよくわかる。

 失敗は成功の元

 とは確かなことだ。でも、これは逆も真なりで、

 成功は失敗の元

 にもなる。ナウル国が国民1人当たりの生産高が世界一になったが、それが数十年後の今では糖尿と貧困の国になってしまった。

 成功と失敗は常にあとで判断されるもので、それをそのとき成功か失敗かを決めつけることはできないということだろう。

 しかし、より正しく失敗か成功かを判断するには数十年先の出来事を予測したり、数十年前の出来事を反省してみるから可能であろう。

 物事の判断は時間的にも空間的にも広い視野に立ったものがより正当であるということは確かである。判断する内容によって、それをどのくらいの期間とどこまでの地域において、失敗から成功かを決めることが可能になる。

 そのため、狭い視野のとのときの失敗か成功かはわからないことになる。

 それにしても、今幸せだと、過去の失敗はみな幸運な出来事に思えてくる。

 幸せには失敗という文字はないのかもしれない!

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