生死は紙一重

 生まれるということが奇跡なら、生きているということもまた奇跡である。

 まったく予想もつかないで死が突然やってくることがあるのは、まさに天国と地獄は紙一重でつながっているようなものだ。

 人の体も、捨て去る糞尿の出口と命が生まれる出口とは隣り合わせである。

  どうやったら、食べ物を循環させるかを考えていた。

 生ゴミの中にはたくさんの種が混じっている。種と生ゴミを分けるべきである。死の堆肥と、生の種とをはっきりと区別して扱うことが、食べ物を循環させるためには重要なことになる。

 どうして、いままでリサイクルをしながら、肝心の生ゴミそのものを堆肥と種と分けて扱わなかったのだろう? それは「味噌糞一緒」にすることほど馬鹿げたことなのだ。

 善人も悪人も一緒の扱いをすることをそもそも自然だと勘違いしているが、そうではない、善人も悪人も一緒にしないで紙一重で区別しているのも自然であるからだ。自然は矛盾することを明確に行っているのである。

 そもそも知識とか知恵というものは、物事に名前を付けて、それを分別することから生まれる。それに対して、愛や欲望は物事を一緒にする心から生まれる。

 いわば、生死を一緒にするのは愛だが、生死を分別するのが知である。愛と知によって、人は常に学習して人類の種を永続させているのである。

 いわば、生ゴミの種とその他を分別して、種と堆肥にするのは知である。種もその他も腐敗させて堆肥にするのは愛である。

最近、キッチン畑がはやりだした。水と光と養分だけで野菜をつくって、それをそのまま食べるというものだ。

そういうレストランも増えてきた。

 この流れは、まさに種を苗木まで育てるキッチンの役割があるかのように思えるのである。そうなれば、家に中で苗木を育て、外で堆肥を作る知恵が求められてきたのではないだろうか。

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