ゲゼルの自然経済学の基本になったのが、
「あらゆる物が腐るのにお金は腐らないのはおかしいではないか!」
という疑問からスタートして、「減価する貨幣」こそが、自然にあった経済学であるという結論に達した。
しかし、あらゆる物がすべて一律同じように腐るという前提からお金を一律数%減価させて構築した。これだと、自然にあった経済学にはならない。自然界は命のあるものとないものが混在する。腐るのは命あるものだけであり、しかも、動植物の寿命の年数はみな違い、かつ、同種であっても、その命がある年数は様々であって一定ではない。
もし、「自然のお金」にするには、「命のお金」にする必要がある。
では一体、「命とは何ぞや?!」である。
我々が生まれた時に、親はその子に「名前を付ける」。そして、役所にいって、「国社会の一員」としての戸籍登録をする。
そうして始めてその子の命は家族や社会から守られることになる。
つまり、命の本体は自己である。他と区別でき、他とは違う存在であるのが命である。
では、命がつきる場合はどういう状態であろうか?
人は死ぬと死亡届を役所に提出し、戸籍に斜線が引かれて、この世に存在しないことになり、その命は守られることはなくなる。そして、どんな自己主張もできなくなる。
つまり、名前は家族に記憶されても、その自己は消えるのである。
しかし、人間以外にとって、その人の生死の存在も、自己もどうでもいい問題である。その人の命の存在が確認されるのはその人が所属する社会と人類の中だけである。
そのため、人の命である自己の存在とはその人が所属する社会と人類の一員であるかないかである。
つまり、
生きるということは公の中の自己が在ることであり、
死ぬということは自己が無くなり公になることである。
公とはその自己が所属する家族・地域・社会・国や人類のことをいう。
お金を自然に合わせたものにするには、命に合わせたものにすることである。
お金を命に合わせたものにするには、自己の存在に合わせたものにすることである。
そのため、命のお金とは、自己の所有の有無である。
お金の生死とはお金が自己所有された時がその生であり、お金が公のお金になったときがその死である。
そのため、お金を自然に合わせたものにするには、「命あるお金」にすることであり、それは「公私の循環」の姿になって、「命のバトン」がされる繰り返しになることである。
この命のお金のバトンは自己所有のお金を徴収する税金と、その税金で集めた公金を国民の1人1人の自己を守る社会事業の繰り返しのバトンで行われる。
つまり、自然環境に合わせたお金とは税金と社会事業の循環がスムーズにいくことである。
ところが、今のお金は貸借による循環であり、貸す人は豊かになり、借りる人は貧しくなるという貧富拡大であって、金持ちに操られる社会実現のための道具にすぎない。それは金持ちだけが贅沢に生きられ、貧乏人は苦しんで死んでいく社会を実現する道具のアメとムチである。
そのため、お金を自然の命あるものにするためには、貸借による循環をやめ、公私の循環にすることである。
お金を自然に合わせる改革とはつまり税制改革のことである。政府から税をとればつぶれる。政府がつぶれれば国民もつぶれる。そのため、政府でもっとも大きな仕事は税と社会事業である。そして、お金はそれを手助けする道具になることである。