モンゴルは泣いている??Монгол уйлж байна уу?

Takaoka Ryosuke (одоо 1943 оюутан · 74 настай)

Монголд 18 жил болж байгаа дэлхийн ядуурлын асуудлын талаар үргэлжлүүлэн ярилцах уу? Амьд

Бид Япон дахь 10 фермерч, Монгол улсад асран хүмүүжүүлэх эцэг эхчүүдэд дэмжлэг үзүүлдэг.

“Би бол үл таних” блог дээр гарч ирнэ үү

高岡良助(1943生・現在74歳)

世界の貧困問題に取り組み続け、今モンゴルのウランバートルに18年?住んで

日本の里親とモンゴル母子家庭を10数人援助活動している。

“I am a stranger” というブログで発信報告している。

 

Takaoka блог “Монгол уйлж байна”

2009 оны 1-р сард Монгол улсын гамшгийн нөхцөл байдлыг тайлагнасан.

高岡ブログの「モンゴルは泣いている」には

モンゴルの悲惨な状況を2009年1月に報告している。

 

このブログで印象深い言葉を列記する。

  • モンゴルでは、「金を貸してくれ=くれ」です。返却はゼロです。
  • モンゴルでは、「食うために生きる」人が多い。義理人情とは無縁です。
  • モンゴルでは、男が女に子どもを産ませると、「はい、さようなら」が多いのです。
    19歳くらいの、「無責任出産」が多いのです。
    モンゴルには、慰謝料の考えはないのです。
    第一に、男には金がないのだ。
    男は「種付け後」さようならだ。
  • 欧米や日本は、家庭の子育ても、学校教育の目的は、
    「自立できる人間=自己責任」だが、
    モンゴル語には「自立」の言葉が無いようです。
    常に、「あなたが悪い」です。
  • 役所からの福祉は、子ども一人18歳までに支給される、月、
    一人わずか、200円.だけだ。
    この補助金だけが収入のすべての母子家庭が多いのだよ。
  • 首都では、とにかく、泥棒が多いのです。
    地方から首都のUBに出てきても、仕事がないので、「すぐできる職業」
    の泥棒が非常に多いです。
    モンゴルでは「泥棒は職業のひとつ」なのです。
  • 都会に出てきても仕事がないので、男は泥棒、女は売春が
    「すぐできる仕事」に染まってしまう。
    発展途上国の共通の社会問題です
  • 外国人、特に日本人は狙われるのです。
    大使館から「街中では日本語を話さない」よう、注意が出ています。
    モンゴルでは、街中とバスの中では、かばんは胸に抱えることです。
    大人が盗むので、子どもがまねをする。
  • 私も、2年間で、5人に、会の金を使い込まれたり、物を盗まれたり、
    ひどい目にあいました。
    モンゴルでは、信頼できる人に出会うのが、非常に難しいのです。
    携帯電話でも、すぐ、盗まれるのだ。
    ゲル図書館、事務所にやってくる女性、作業に来てくれる男。
    ちょっと油断すると、何かを盗むのだ。
    モンゴルでは、他人の物を盗むことが当たり前なのだ。
  • 企業には、農耕文化(和の精神)の東南アジアがベターだ。
    農業の村落では、共同作業で、水路や道などの共同作業をする。
    皆で協力しないと、祭りや運動会も出来ない。
    そのための「話し合い」が行われる。
    隣と仲良くすることが生活の基本でもある。
    放牧文化は、「隣と仲良くする」は必要ない。
    「先進工業化」は、苦労する。
    進出企業は、事前の調査と、リスクのCase studyが必要だ。
  • モンゴル人は、物事の順序がわからないのだ。
    議論も、企画も、報告も、5W1Hは無理だよ。
    外国からの援助は、モンゴル人に引き継いだら、1-2年で廃墟だ。
  • 大人がそうだから、子どもでも、交通規則も守らない。
    しかも、近くの大きな交差点では、歩行者用の信号が壊れたままなのだ。
    日本では、えらいことになるが、モンゴルでは、もともと、人々は信号
    を守らないので、こわれても大きな影響がない。
  • モンゴルは毎日が日曜日なのだ。
    人々はすることがない。
    役所でも、銀行で、時間はたっぷりかける。
    別に急ぐ必要がないのだ。
  • 男は朝から粗悪のアルヒ(ウオッカ)を飲んで立小便だ。
    バス停留所の近くは、特にひどい。
    「どこでも便所」は、男には、便利といえば、便利だが。
  • 後から、地方から首都に出てきたら、山の上しか住む場所がない。水運びなど、
    特に、冬は大変だ。ほとんどが子どもの仕事なのだ。電気がない家庭はろうそくだ。
  • 画像
  • モンゴルでは大学を卒業していても、さぱっぱりだめなのです。
    日本の中学2-3年程度の学力なのです。
  • 新聞やTV,雑誌、広告、郵便などに触れるのは「社会教育」だ。
    モンゴルではこれらがほぼ、ないに等しい。
    郵便&新聞の宅配がないのだ。
    郵便は、「情報も運ぶ」のだよ。役所が、入学や予防接種の
    通知が出来ない。人々は、「口&耳」だけ。
    人々は「井の中の蛙」だ。
    自分の周りの世界で、今、何がおきているかを、さっぱり、知らないのだ。
  • モンゴルでは小学校から大学まで、「課外活動が少ない。」
    日本の「クラブ活動」や「研究室」、大学の「サークル活動」がほぼ皆無。
    モンゴルは「読む、書く」が中心だ。
    教材は、貧弱な教科書だけだよ。
  • 第一、モンゴルでは体育館が少ない、運動場も整備されていない。
    校舎は小学校、中学校、高校と、同じだから、午前中と午後に
    分けて使っている。
    高校生の授業は、夜8時間での場合がある。
  • この国は、病院も、道路も、空港も、「外国からの援助」が多いのだ。
    政府も、個人も、自立はとても無理なのだ。
    モンゴルでは、「私を助けないあなたが悪い」のだ。
    先進国では、冗談だがねえ・・・
  • 首都の中心のアパートに住む日本人はゲルでの寝起きの体験が無い。
    夜間の恐怖を知らないのだ。日本の「モンゴル通、評論家」は、ゲル地区での長期の生活体験
    がない人が多い。 説得力??

    彼女&彼らは、もっともな事を述べるが、「表面だけ」の知ったかぶりだよ。
    日本人のモンゴル通の人々にも、ゲル地区の糞尿や、犬の死体の臭いが
    する通りで、その臭いを衣服に染み込ませるんだよ。

    夜は、首都のウランバートルのホテルや、暖房、水、湯に心配のない
    ところにいて、
    昼間だけ、現地の付き添いを連れて、
    ゲル地区の調査では、住民の苦しみが身体で理解できない。
    あくまでも、「他人事」なのだ。
    まして、一人で、夜、ゲル地区を歩いたことがない。
    JICA関係者など、日本人は、日没までに、「ゲル地区から
    退去すべし」となっている。

    モンゴル人との交流や、単なる物資の支援の外国人、NGOの人々
    には、ゲル地区に住んで「悩みを共有する」ことをしない人には、
    本当のモンゴル人の苦しみはわからない。

    水運びは子どもの仕事。
    冬はきついよ。
    零下40度C, 庭の片隅の板2枚渡しただけの、
    風がそのまま入る、トイレは厳しい。
    お尻の素肌は、2分間が限度だ。
    「溜めて、ぱっと出す」だ。
    私も、十分に体験した。

    住居地は2Mの高い塀で囲まれ、隣との、挨拶の機会がない。
    地域社会が育たないのだ。
    塀に囲まれ、昼間でも死角ができるので、女性の一人歩きは危険。
    夜は恐ろしい。男でも夜は危険だ。

  • 画像
  • 自宅以外、地域社会で勉強の機会が全くないのだ。
  • 特に、小学生のときからこれらの「読み書き」以外に読書に親しむことが、
    大人になっての「想像力」が豊かになる条件だ。 モンゴル人には、これらが
    絶望的に不足している。これでは、大人になっても「動物の世界」だよ。
    想像力が生まれない。

    NGOが提供する、自立プログラムも、立ち往生だよ。

    だから、ほとんどの外国のNGOは現場で悲鳴を上げている。
    いくら、なんど、繰り返して教えても、「理解して実行できない」のだから。

  • モンゴル人には、発足時の状態の継続の運営は、不可能なのだ。
    外国からの援助は、「私利私欲で終わり。親族で山分け」が多い。人々は、ただ、ひたすら、「食って、寝て、子どもを生んで」の繰り返しになっている。
    とても、日本人が想定する「文化的な生活」とは、縁がない。
  • 人々は、何を楽しみに生きているのか?私は、1990年代後半、北朝鮮の飢餓児童救援に現場で活動したが、
    当時「自分たちは、ただ、生きているだけ」と人々が言っていた。
    このモンゴルも、そのような人が、圧倒的に多いのだ。
  • 母親の結核が多い。
    栄養が足りなく、十分に食べられないのだ。
    ほとんどは「実の無い、栄養不足の、一日2食」なのだ。だから、
    女の生理は日本の半分以下の1-3日だ。
  • ここでは、役所はまったく役に立たないのだ。転勤の無いモンゴルは「腐れ縁」で、
    役所はワイロの巣窟でもある。
    就職も、何もかも、ワイロが潤滑油だ。
    病院の医師の給料も月に3万円くらいだが、日本製の4WDで通勤している。
    ワイロを使わないと、入院や手術も出来ないのだ。学校も、幼稚園も、何事も、ワイロだよ。

    なんとか、ならないかなあ?

  • 「モンゴルでは、明日に希望のある生活」は無理。
    友人のKさん(67歳、日本人、女性)は大学で7年間、日本語を
    教えているが、教え子600人の卒業生で、卒業直後に、就職できたものはゼロだそうだ。モンゴルの大学の、高校の先生は、学生の卒業後の運命には責任が
    ないのだ。
    第一、日本のように、常設の「就職相談室」が無いのだ。
    モンゴルでは、学校も、政府も、卒業後につぃて、「関係ない」のだ。
    日本の大学3年生後期で、「就職内定する」は、モンゴルでは夢物語だ。
  • モンゴルで日本語を勉強している若者の理由は、大部分「日本で働きたい」だ。
    短期ビザで日本に行き、あわよくば、ドロンだ。
    オーバーステイして、移民官や、警察官に捕まるまで働けば、モンゴルの
    収入では想像できない金が稼げるのだ。
  • 日本など、先進国、豊かな国は、これら、貧困にあえぐ国から、
    鉱物資源など輸入して、豊かな社会を作っている。
    原料の産地の若者は「絶望」だ。これで良いのかなあ?
    あなたは、何が原因だと思いますか?????
  • モンゴルの放牧文化には「個人と地域社会がない。
    あるのは一族の文化」だ。草原でのゲル生活では、プライバシー(個)がない。 また、広い
    草原では、一族だけで テント(ゲル)生活が成り立っている。

    私が、「それで、よくこどもができるだなあ」と、モンゴル人に聞いたら、
    「モンゴルは広 いから、子作りは草原だよ。」

    なるほどなあ。
    モンゴル人は、「自然とともに生きる」民だ。

    モンゴルには、
    日本や他の国のように、「農耕文化で、和の精神が第一」のような
    意識がはないのだ。

    草原では、隣と仲良くする必要がない。
    いやなら、水のあるところに、家畜を連れて移動すればよい。

    モンゴルでは、一族が最小の生活単位なのだ。

    家畜の放牧文化は、どちらかといえば、アフリカやアマゾンの、
    採集と狩猟文化 と似ている。
    たえず、移動するから、「定住から高度な文化が生まれる」には、
    距離がある。

    これらの文化は、自給自足の生活で、家長父制度だ。

  • 都会に来ても、お互いに親族を頼って生きるので、支援をしている
    家庭のゲルを 訪問しても、常に共同生活者のメンバーが入れ
    替わっているのだ。自立しなくとも、一族が何とかしてくれるのだ。
    必死に生きなくとも良いのだ。
    シングル・マザーでも良いのだ。

    なお、モンゴル人と結婚したら、「一族を抱え込む」ことになります。
    一族とは
    20-30人です。
    他の発展途上国も同じです。

  • モンゴルの市内に住む富裕層、多分、全人口の10%前後(?)の人たちは、
    首都の郊外に広がる、ゲル地区の、また、地方の貧困層には、なかなか、
    同情して、「同じモンゴル人だ。
    何とかしたい」と、生活向上などの支援活動には参加しないのだ。ほとんどの場合、外国のNGO,政府の支援で、「何とかしたい」を援助している。
    第一、同じモンゴル人は、UBに住んでいても、ゲル地区には「用事がないので行かない」の返事です。
  • 非効率な政府機関。政府が、非効率だから、先の見得ない状態、「発展途上」が
    永久に続くのか????

    ま、役人たち、政府高官たちは、庶民とは縁がないのです。私は昔、社会主義国
    のほとんどを訪問しました。
    現在のモンゴルは、いたるところ、レーニン像が健在です。

    昔も今も、一般の人々と、統治する側の人々との差が大きすぎるのです。
    役人の高官が月給料3-5万円で、数百万円の日本製の4DWに
    乗って通勤です。

    えらくなると、一回の賄賂で、アパートや車が取得できるのです。
    日本のODAがフリッピンのマルコス大統領の奥方の、イメルダ婦人の、
    「靴3,500足に化けた」は、今のモンゴルでもありうることです。

    この前は、ベトナムで「巨額汚職」がありましたが、そんなの、
    氷山の一角です。

    日本のODAの大部分は、欧米のように、NGO経由にすべきです。

  • 俺が感心するのは、地方の完全なリサイクルだよ。牛馬の糞は乾燥ささせて燃料だ。
    乾燥しているので汚くない。
    本当によく燃える。
    番犬のえさは人間の糞だ。

    究極のリサイクルだ。
    日本より進んでいる。
    世界の金融危機にも影響されないのだ。

  • 韓国には、35,000人のモンゴル人が出稼ぎ中で、その半分以上が、
    「観光ビザで入国後仕事をしている」(最近の韓国のニュース)らいしい。
    日本にも同じ人々がいて、私の知り合いは「オーバーステイ労働で
    帰国後、アパートを買った、建てた」の例が多い。仙台には約7,000人のモンゴル人がいて、その半分は違法滞在者らしい。
    もぐりで働いているのだ。

    モンゴル人は順法精神が希薄だ。
    人は、2人以上集まると、集団だ。

    人間社会の集団には、守るべき規律や倫理があるのだ。
    日本の幼稚園では、「手洗い、うがい、あいさつ、列に
    並ぶ」を、習得するが、モンゴルでは、大人になってもできない。
    モンゴルには、その、法律や規律を守る人が少ない。

    美辞麗句より、「金だ、満腹だ」よ。本当に。
    理想論だけでは、モンゴルでは、生きてゆけないのだ。

    立派な言葉より、「背に腹は代えられぬ」だよ。

  • 俺もずいぶん、「日本に行きたいので保証人になってくれ」と要求された。
    全部、断ったよ。帰国後は、「車とアパート」の夢だ。
    いきなりあった女性に「結婚してくれ」にも出会った。日本に行きたいモンゴル人の大半は「働きたい」だ。
    観光・短期ビザで来日して、行方不明になってどっかで、働くのだ。
  • モンゴルは、日本の4,2倍の面積に、人口は約300万人。豊かになれる環境
    だが、人々は貧困のスパイラルに飲み込まれ、苦しみ、泣いているのだ。国として、何もできないよ。
    役人の給料払いもままならない。
    昨年の8月は、先生の給料はなかった。

    (ペット・ボトルを集めている親子。仕事がないのだ。家族全員で集めても、
    一日200円くらいにしか
    ならない。とても、満足に食べれないから、栄誉不足になる。モンゴル
    の現実は厳しいのだ。)

  • 画像
  • それでも、子どもだけは、どんどん、生まれるのだ。
    半分はシングル・マザーだがねえ。。
    その子どもたちが、外国で働いて、自宅に送金が「近代化の早道だよ」に、
  • 先進国で研修、留学などした発展途上国の医師の実に70%は給料の
    安い自国に帰らない
    そうだ(国連の統計)。日本政府招待の学生、研修生は、帰国したら元の「モンゴル人」だよ。
    自分の利益だけにまい進する。
    在モンゴルの日本大使館の某氏も、同じことを言ってた。
    先進国の人々の税金が、有効に使われていない。
  • 約140年の昔、江戸時代から明治にかけて、日本に来た欧米人はびっくりした。
    「日本人はとても貧しいのに、礼儀正しく規律を守る人々だ」と。それに比べ、モンゴル人は、日本や韓国で、もぐり(オーバーステイなど)
    で金を得て、帰国後アパートを買うことが夢である。

    夢や、希望が小さいよ。 自分個人の私利私欲のためだ。
    情けない。
    「祖国のモンゴルを、何とかしたい人」が少ない。

    情けないことです。

  • ウランバートルでは、水道の水も、そのままでは、飲めないのだ。
    生水は、モンゴル人でも飲めないのだ。日本だと、水道の水を飲んで腹痛を起こすことはない。
    モンゴルでは、「清潔な水の供給」が、緊急の課題である。
    病気の予防にも、きれいな水の条件が重要なのだ。
  • モンゴルでは、
    この厳寒の季節、裏通りには、立小便と、うんこが凍結、野垂れ死の
    犬がごろごろだ。
    暖かい春先には、解凍して、とても不潔になる。ごみの山がいたるところにできている。
    腐敗した犬の死骸は、そのまま。
    行政の仕事ではないそうだ。
    不衛生が極限だよ。
    疾病が多いのは、当たり前だ。
    暖かいシャワーは無いのだ。

    日没後のゲル地区、闇のゲル地区は、男でも一人歩きは危険だ。
    犯罪の巣窟になる。
    日本人で、一人で、闇のゲル地区を歩いた経験の人いますか??
    私は、主要道路から離れたところを、闇夜に、一人で歩いたときは、背筋が寒く
    なったのだ。

    批評と、現実は違うのだよ。

    さながら、私には、このゲル地区は、「目的と行き場のない、人間の集団」
    のように思えるのです。

  • まわし一本で、資本は裸、日本で、相撲で大成功したら、祖国で事業をして、
    大金持ちになれる、それが、モンゴルの男児の夢だ。
    「個人技」には、相撲や柔道、マラソンなどが最適だ。
    組織=団体(チームワーク)の競技は、特に、学校の教育では、
    卒業後に、社会生活で日々必要になる。
  • モンゴルで、最近の高岡は、時々、真剣に、思うのです。
    この、貧困のスパイラルは、誰かが言った「火星に人を住ませるより難しい」が、
    本当のような気がします。私もモンゴルにかかわって8年目。「知ってしまった。見てしまった」なので、
    前にも進めず、
    尻をまくって日本にも帰れず、まさに、この老兵の高岡は、泥んこになって、

    「底なし沼」に入り込んで、どうにも、足を抜け出せないのです。

    この、老兵の高岡も、「自然は美しいが、モンゴル人の困難」に同情して、泣いています。

  • 観光旅行や、エコツアーで、10日前後の発展途上国訪問と違い、住み込んで、
    結果に責任を持つとなると、「悩みが桁違い」なのだ。B君が来たので、これから63名の里子に支援金(奨学金)を支払いに
    事務所をでます。

    このプログラムは、
    多い時、毎月、一人、1,800円です。135人を援助出来ました。
    日本の里親の皆様に感謝します。

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Муу эргүүлэг бол гайхалтай илэрхийлэл юм.

Гэхдээ энэ бол Улаанбаатар орчмын гел уулсын орчим юм.

Бүс нутгийн хуучны гель шилжих хөдөлгөөн Бэлчээрийн мал аж ахуйг дахин боловсруулж,

Бодит баян чинээлэг,

Маргааш ирээдүйд том инээдтэй мэт санагддаг.

貧困スパイラルとは見事な表現だ。

でも、それは ウランバートル周辺のゲル山地域のことだ。

地方の昔ながらのゲル移動牧畜生活の完璧なリサイクルに、

本当の富のスパイラルがあり、

そこには 大きな高笑いのような 明日の未来があるように思える。

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モンゴルのスケート場 新事業提案 Монголын шинэ уран гулгалтын трубинг

Манай гэр бүл Тамба уулын тосгонд 8 жил амьдарсан.

Өвөл байх үед бид хаврын усны цоргоны усыг хоолойгоор сул орон зай руу цацна.

Өдөр бүр, бидний шахаж байсан ус хөлдүү байсан бөгөөд том модны хусуураар хавтгайрсан байв

Долоо хоногийн дараа та гайхалтай тэшүүр гулгах боломжтой.

私たち家族は丹波山村で8年間暮らしていました。

冬になると、湧き水の水道水をホースで空き地に撒きます。

毎日、撒いた水は凍り、それを大きな木のへらで、平らにして

一週間もすると 見事なスケート場ができます。

 

「丹波山村 スケート」の画像検索結果

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Бага сургуулийн сурагчид өөрсдийн уран гулгалтын гутал,

Насанд хүрэгчид гутал дээр слайд,

Сандал дарах үед ахлагч слайд.

小学生はみな自分のスケート靴をもっており、

大人は長靴で滑り、

年寄は椅子を押しながら滑ります。

Бүртгэлийн хураамж өдөрт нэг хүн (нэг цаг биш)

Бага дунд сургуулийн сурагч 100 иен Насанд хүрэгчдийн 200 иен

Би наран мандахаас нар жаргах хүртэл гулсдаг.

入場料は 一人 一日(1時間ではありません)

小中高生 100円 大人 200円

日の出から日の入りまで滑れます。

Улаанбаатар хотын төвд нарийн гулгуурын уралдааны зам

Олон хүмүүс байнга очдог.

Та бага зардлаар хэдэн арван удаа хялбархан хийж чадна.

Түүнээс гадна,

Бүр тэшүүргүй ч бид аюулгүй, аз жаргалтайгаар залуу, хөгшчүүлээрэй.

Цас ихтэй талбайд машин жолоодож чадах хөлдөөсөн гол биш үү?

Үүнийг хийхэд хялбар, ажиллахад хялбар, хүн бүрт таалагдах болно.

モンゴルのウランバートルのショッピングセンターの狭いスケートリンクは

いつもたくさんの人が訪れます。

その何十倍もの広さを簡単に ほとんど経費なしで作れます。

しかも、

スケート靴がなくても、老若男女一緒に 安全に楽しく滑れます。

広大な雪原も、自動車が走れる凍った川もあるではありませんか?

簡単に作れて、簡単に事業し、みなさんに喜ばれることまちがいないでしょう。

 

 

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モンゴルの接待文化 Монголын зугаа цэнгэлийн соёл

徳島大の大橋教授は 日本の大学生(交換留学生)を歓待する時の様子を特別な言葉

「モンゴルの接待文化」と呼んだ。

日本の学生・社会人を招待されたのは

1.テレルジ国立公園 TERELJ NATIONAL PARK において、

ジンギスカーン廟 寺院 亀山 のめぐる、ゲルで 盛大な手作り夕食パーティ そして 馬乗り、雪ぞり

など、みな一度は日本へ短期留学生としてきた学生がガイド、料理、手配、そして、預かったお金で すべてまかない、余ったお金は返却してくれた。(通常ツアーでは1万円だが、その半額) しかも、盛大なともに食べ、踊り、酒を酌み交わすという 通常のツアーではけして楽しめない、モンゴルと日本の交流が実現している。

そこに モンゴル大学の シールド教授の親子が流ちょうな日本語で対応してくれ、特別ゲストとして遊びにきた。

当初、学生だけが シールド先生が招待するゲル生活体験であったが、大橋教授はその予定を断った。その理由はよくわからない。

学生も社会人・教授も、自分たちが好む 一般ツアー、個人ツアーを企画し、三つのグループ個人に分かれた。

教授と男子学生は アルタイ山へ、Sさんは友人のシールド先生のところへ、その他の学生と社会人(私も)はゲストハウスが主催するテレルジ ツアーを 他のゲストハウスの泊り客とともに相談していた。

その話をモンゴル留学生が聞くと、自分たちが そのツアーをガイドするということになり、6人の学生社会人に足して、10人の留学生とその友人が 自分の車三台で案内し、その食材やら、昼食のハンバーグやらを全部手配してくれた。

当初は学生が3人だけなので、シールド先生の持つ郊外のゲルに 泊まり 歓待される予定だったのだろう。そして、付き添いの大人だれか一人というので、(ひょっとして俺か? むしろ教授が適任だと思うのだが?)

私はどうしても モンゴルの雪原を馬で行きたかったので、それがあるかどうかわからないので、その役目を辞退した。一般のモンゴルツアーを自分たちで探して、同じ泊り客のフランス人にもその旅行会社を紹介してもらっていた。

なぜか、女子学生は馬が乗りたかったらしく、社会人の一般ツアーに入ることになり、シールド先生の招待を結果的に断ることになったが、たった一人のSさんだけがシールド先生のところに遊びにいくことになったようだ。

大橋教授は モンゴルの日本人学生の接待にずいぶん気を使っていた。相手に迷惑をかけたり、失礼がないように 相当気を使っていたのだ。

学生は日本のカレールーを シールド先生への接待の返礼として 日本から持ってきたようだ。だが、結果的には、シールド先生親子を 私たち学生社会人が招待したことになり、その返礼は必要がなくなったはずであるが、なぜか、スタディーツアー最終日に、そのカレールーを 教授はなぜか私に届けさせたがっていた。(たぶん、大橋教授は 留学生が主導したテルンジ ツアーを シールド先生が企画招待したと勘違いしていたと思える)

それだけ、モンゴルの接待文化としての気遣いと、マナー 特に返礼のお土産を大切にしていたといえる。

 

2.スケートに招待される

スケートに行けるかどうかで 三回ももめている。

このスケートの招待に、大橋教授は異様なほどこだわり、行きたがっていた。

A 学生の知り合いの留学生グループが二つあり、女子学生との留学生グループはスケートと招待していた鍋レストランをいくコースと、男子学生の留学生グループは鍋レストランだけということで、最終的に合流することになった。

問題はスケートリンクがどこにあるか?(ゲストハウスが紹介するスケートリンクは近くにもいくつかあったので、それを選びたかったが、どうやら、昨年教授が行った遠い空港近くのスケートリンクしかないとしか思えなかった)

さらに予約していた鍋レストランが閉まっていたので、さらに混乱してしまった。

留学生は押し寄せてくると、スケートにいくにも、レストランいくにも どうにも収まりがつかないまま、ゲストハウスは暗く夜は更けていった。

そういうときは、いつも私の出番である。

まず、時間的に、スケートをいくことをあきらめさせて、レストランだけいくことに絞らさせた。

近くに住む留学生が The BOOMというレストランが開いているというので、そこにみなゾロゾロ歩いていくことにした。そして、その場所が判明したら、後からやってくる男子学生の留学生を呼びに 誰か(大橋教授?)走った。

そして、シャブシャブレストランのThe BOOM の 空いていた部屋は14人しか入れないので、学生と大橋教授と栗原医師と、留学生がちょうど満杯になり、社会人(私も)の4人は別の一般席で、勝手に注文して食べた。

その食事代は社会人がいくらか多く出して、日本人学生教授社会人が割り勘した。

先に、社会人4人はゲストハウスに帰ってのんびりしていた。

それから1時間もして、夜の10時も更けて、大挙、招待した留学生がゲストハウスにやってきた。

栗原医師が 栗原医師と親しい、私と真弓さんの三人を翌日どこかに招待してくれるということになり、それがまとまらないので、私が起こされた。

ゲストハウスの人にはもう10時過ぎなので、静かにするよう指示されるが、おさまりがつくようすがない。

こういう混乱を収めるのも私の出番である。

明日早く、小学校へのスカイプ実験が予定されていた。これは今回のスタディーツアーではメインの企画である。

そのことを、栗原医師はまったく知らなかった。

大橋教授と目があうと、首をすくめて お好きなように というように 私に暗黙に委任された。

「さあ、留学生のみなさん、もうお帰りください。栗原先生はまったく明日のスケジュールを知りません。非常に大事な朝早くからあるので、どうぞ ここで解散してください」

不満そうな栗原医師は、親友の私だけはその横暴な処置をゆるしてくれた。

そして、翌日、栗原医師と真弓さんは疲れて寝込むことになり、それ以外は早朝に小学校へと出発した。

B MUUGIIと ERKA が 空港近くのショッピングセンター内のスケートリンクにバスで連れていってもらった。

女子学生と私の三人だけのスケートだ。夕方5時半についた。

スケートする前に、私はトイレに入ったとき、そこに大橋教授が入ってきたからびっくり仰天だった。

一緒にスケートをしたくて バスで、追いかけてきたことは間違いがない。

だが、その日は日曜日で、混雑し、夜の8時半まで待たないと 入れてもらえないことが解った。

やむなく、日本のレストランで一緒に食事をして、大橋教授だけを先に帰らせ、私たちはブラブラショッピングとアイスを頬張った。

帰りはMUUGIのクラスメイトが車でゲストハウスまで送ってもらった。

もし、大橋教授もいたら、乗れなかっただろう。

C 最終日 スケート50分できた

今度は別な留学生グループだ。リーダーは車をもっている MANDHYAI だ。

それが学生の友達かどうかもよくわからない。知っているのは大橋教授だけであろう。

The BOOM で、招待した返礼のようで、栗原医師を案内したかったのではなかろうか? と想像する。

しかし、栗原医師はすでに日本に帰国していた。

どうも、スケートがしたくても、みな失敗に終わっているので、3グループがまさに競演して、レストラン招待の返礼をしようとしていたらしい。

問題はゲストハウスで起こった。

大橋教授が 作った餃子を食べないと、一緒にスケートに行かないと言い出した。

食べなくても、料理した後片づけをしないと行かないというので、学生と留学生一同はそのかたづけを手伝った。

でも、最終のスケート時間の夜8時半には間に合わない。夜8時をすぎていた。

大橋教授は大丈夫と連呼するが、私はあきらめていたが、あとは運をまかせた。

スケートリンクに着いたのが、最終の8時半を回り、8時40分 9時半までの50分だけということで ようやくスケートができたのである。

留学生も 大橋教授も、最終のスケート時間を知らなかった。

私はショッピングセンターは夜10時に閉まるので、前回の最終時刻が8時半であることは確実にわかっていた。

それを知らずに、モンゴル留学生はスケートに招待する。

夜9時半になり、学生たちは ナイトクラブに招待されていた。私も呼ばれたが、なぜか、大橋教授と一緒に MANDNYAI の車に乗り、ゲストハウスに到着し、なんと、そこで、大橋教授の餃子作りを無理やり手伝わされた。もう11時をまわり、深夜で 翌朝5時のタクシーで空港にいく。

そういえば、夕飯を食べていなかった。

すると、すぐに、学生たちがタクシーで帰ってきた。ナイトクラブはやってなかったというのだ。

それも、留学生は知らなかったということになる。それが妙に変である。あまりに行き当たりばったりの招待であり、その場その場の思い付きで行動しているようとしか思えなかった。

大橋教授の餃子を我々に食べさせるという執念はすざましく、なんと、あまった餃子を モンゴルから北京の機内で、機内食事の上に、その大餃子を二つ食べさせられた。

それは

私たち学生や社会人が このスタディツアーに招待した大橋教授への お返しが必要だったとも反省させられる。

接待文化は モンゴルと日本の間だけでなく、 大橋教授と 学生社会人の間にも あったといえるのではないだろうか?

3.返礼品

小学校の授業の返礼として、チーズと子供たちの絵の入った額を全員いただいた。

大学の授業の返礼として 学生には 風貌付きスエット上着 社会人には ボールペン 名刺入れ キーホルダーをくれた。

日本人がモンゴルの学生や教師、校長、事務に招待したのは

A しゃぶしゃぶレストラン

B 肉料理のバイキングレストラン

C 大学で 日本式カレールーで カレーライス

で、ほとんど食事に招待している。

 

この招待とその返礼をどうするかというのが、いわば 悩みどころであり、

相手に失礼がないようにするというのが モンゴルの接待文化といっていいだろう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だが、

本当にそんなモンゴルの接待文化があるのか??

むしろ、それは 日本の接待文化で、

お中元にお歳暮、誕生日プレゼント 年賀はがき

のような返礼をしないと失礼に当たるものの慣習ではないか!

 

モンゴルにはそんな接待文化はない!

読めば納得!モンゴル人横綱の「尖った」言動
「建前なし」「容赦なし」には理由があった

――日本とモンゴルの根本的な違いは、遊牧民族と農耕民族というところでしょうか?

そうです。お互いの国を理解しようとするときには、歴史から始めるべきだと思います。お互いの国の歴史を勉強して、文化がどこからでてきたかを知らないと、物事の背景を理解できません。

モンゴルは遊牧民族で、その生活では家畜のために広い面積が必要です。遊牧民同士があまり近寄ると家畜のえさとなる草がなくなるので、他人と接触する機会が少ないのです。

お互いの空間を尊重し、人のことにはあまり入り込みません。また遊牧の生活ではさまざまな決断を自分でしなければいけないので、完全な個人主義です。みんな違って個性があるのが当たり前。だからモンゴルではいじめはなく、逆に言えば他人に対して淡白とも言えますね。

しかし、家族は別です。何よりも大切なのが家族です。ゲルを構えた10キロ範囲は自分と家族、そしてその周りは衝突を避けるために兄弟、親族で固めます。家族や親族など血のつながりを大切にするので、その親族が住んでいる地元意識が強いのですよ。会ったら「あなたの地元は?」と聞きます。

謝らない、恨まない、そのワケ

――地元意識、ですか。遊牧民族に地元があるのですか。

遊牧といっても大体の地域があり、それを聞けば近い関係かどうかがわかります。地元の人同士は親近感があるので、信用してもいいか判断するときにはふるさとの話をします。モンゴル人には家族は裏切らないけど、ビジネス関係では他人には容赦がない、弱肉強食的な感覚があります。

それでも、自分たちの間合いと言える住んでいる空間に、お客さんや見知らない誰かが入ってきた場合には、全力で助けます。広大な自然の中ではそれは生死の問題ですから。

しかし、助けても見返りを求めず、恩を売りません。遊牧民の生活では今日会った人は、もう明日は会わない人。今日行ったことは今日限りです。助けられたほうも感謝はやたらとせず、恩を返さなければとは思いません。やって当たり前なのに感謝をしたら逆に失礼で、怒られることもあります。

それに、謝ることも恨むことも、さほどしません。謝っても延々と謝りません。相手も間違いなどは大目に見ます。モンゴル出身の横綱が問題を起こしたと言われることがありますが、彼らにとってはおそらくそれほど大きな問題を起こしたとは思っていないのです。

 

――それをわかっていないと「あいつは失礼だ」と言われてしまいますね。

これは広大な土地に家族のみで住む遊牧民と、地域に根差して仲間意識が高く、社会性を持ってみんなで力を会わせて作業をする農耕民族との大きな違いです。「建前」も遊牧民族にはわかりません。今日会って、明日会わないモンゴルでは、取り繕う必要はありません。物事はまず率直に、正直に言うことです。

それとモンゴルには「言霊」文化があります。歴史をさかのぼるとモンゴルはシャーマニズムです。「天」と「地」を大切にし、その間に神々がいます。悪いことを言葉にすると、それを神様が聞いて実現しないようにすると考えられています。

思っていても口に出しません。たとえばビジネスで「うまくいかないだろう」と言ってしまうと、それば本当にうまくいかなくなると考えられる。建前で適当なことを言うのもよくないけれど、ネガティブなことばかり言うのもダメです。その意味ではモンゴルの国民は、とても前向きで楽天的な国民ですね。

日本人は時間管理を重視しますよね。でも、モンゴルでは「何時までに必ず着きましょう」とか言うのはタブーで、神様が怒って途中で邪魔すると考えられていたりします。

――「また来ます」というような社交辞令も、本気でないなら言わないほうがいいと聞きます。

言ったことは本気でとらえるのです。「また来ます」と言うと「いつ来るの?」「来ると言ったじゃないか」となります。日本ではよく「検討します」や「またやりましょう」など建前で言いますが、そのとおりに受け取るので、そこははっきりと言わないといけません。

――日本でも「八百万の神」と、自然の中の神様が信じられていたので似ていますね。

そうなのです、そこが私は日本とモンゴルが似ているところだと思います。日本はもともと神道で、自然の中に神を感じていました。それは言ってみればシャーマニズムです。その後、仏教や儒教が入ってきて、それらが入り交じったものが今の日本です。モンゴルもそれに近いのです。

シャーマニズムから始まり、12世紀のジンギスカン時代からラマ教、キリスト教、イスラム教が入ってきました。20世紀の初めに共産主義になり、その後、70年間、ロシアの社会主義下で無宗教になりました。さまざまな宗教が交ざっている点で、宗教に関しては日本人と近い考え方を持っています。亡くなった方を敬い、また亡くなった方が神となるという気持ちも同じです。元寇のときに日本に向かって亡くなった人を、壱岐で祭ってくださっているのを知って、モンゴル人は感動するのです。

ーー遊牧民の住居「ゲル」の中でのマナーにも、「自然の神」を敬う心が根付いていますよね。

はい。ゲルの中央には柱が2本あり、その間に火がたかれています。その柱と柱の間は神様の空間です。そこに火の神や天窓を通って入ってきたさまざまな神がいて、その家庭を守っています。その間に人が入って空間を壊すのはとんでもなく失礼なことなのです。神だけでなく、その家庭を壊すことを意味します。

ですから、モンゴルではお茶を渡すときは、その柱の外から回ってお茶を渡します。そのマナーを知らない人が柱の間を通して手を差し出すことがありますが、それはタブーです。

また、座る場所も若い人は柱の奥までは進めません。若いのに柱の奥に座ろうとすると「お前何なんだ」と言われてしまいます。若い人は入り口のほうに座ります。そして女性は入って右、男性は左です。

帽子は入るときはそのままで、座ってから取りますが、必ず下に向けて置いてください。上に向けておいたら大変です。モンゴルでは上を向いたものは上を向いたまま、下を向いたものは下を向いたまま、と考えられています。下に向いたものを上に向けて置くと、そこにその家の中の善が入ってしまい、帽子の持ち主がそれを持ち帰ることになってしまいます。また逆に、持って入った悪いものを広げてしまうとも考えられています。

「強さ」の背景にある、モンゴル人であることへの誇り

お酒の飲み方にもマナーがあります。お酒を飲むときは薬指にお酒をつけてそれを上に向けて親指で3回弾きます。最初は天の神に、2回目は地の神に、3回目は地元にあるいちばん高い山に向けて、さまざまな神にお酒を捧げているのです。それをせずに自分が神よりも先に飲んでしまうと、周りにいる神が怒ってしまいます。感謝の気持ちを込めて行うのです。

地の神と言えば、モンゴル人は環境をとても大切にし、土を汚さないようにしています。屠殺するときは地面に皮を敷いて、土を血で一滴も汚さないようにするほどです。また、水もとても大切ですので、泉を通るときなどは拝んで水の神様を怒らせないようにし、水を汚すこともしません。

ーーこの遊牧民のマナーは、現代のビジネスマナーにも残っているのでしょうか?

これらのマナーは伝統的なマナーです。今はグローバル化の時代ですから、グローバルマナーでも大丈夫です。とは言え、モンゴルはまだ社会主義から変わって成長過程ですし、遊牧民のときからの他人よりも自分という意識が残っており、道徳などは関係なしに、自分が利益を得られればよいという考えもあります。もともと「強い」文化なので、市場は奪い合いと思っています。

――生活スタイルが近代化する中で、どのようにして「強さ」を保っているのですか?

モンゴル人であることに誇りを持っていることが挙げられます。しつけの中でもヒューマニティを植え付けていますし、遊牧民としてのマナーも、親族の中の誰かが遊牧民であることも多いので、地方に行ったときなどに接する機会は多いです。その際にマナーを厳しく言われたり、知恵を教えてもらったりします。首都だけに住むのは窮屈ですし、お客さんが来たときには首都だけがモンゴルではないことを見せるために、地方に連れて行ったりします。

実際、ビジネスマナーの点からはモンゴルはまだまだ発展途上です。成長すればビジネスマナーもよくなってくると思います。

2015年5月の段階で、日本からモンゴルに556社が投資しています。しかし、モンゴルへの海外資本はまだ圧倒的に中国が多く、日本からの投資は全体の1.6%です。輸出全体としても8割が中国なので、中国経済の変動がモンゴルに直接影響を及ぼしてしまいます。

そこで「鉱物資源に頼らない競争力のある産業を育てていくこと」が、モンゴルの今の課題です。日本とは戦略的パートナーとしてインフラ分野での協力も深まり、EPAも締結され、人材育成も行われています。日本はモンゴルが最初にEPAを結んだ国なのです。

能力・知識に関しては、日本はモンゴルの「兄貴」

そこで、ぜひビジネスにおいては、日本はもっと遠慮せずにモンゴル人の間合いに進んで入り込んで、「兄貴」としてマナーや技術を教えてほしいのです。お話したとおり、モンゴルは「家族」をいちばん大切にします。

ですから下手に遠慮をして距離を保つと、「他人」として扱われ自分の間合いに入れてもらえず、よい関係が築けません。それよりも「俺が兄貴だ、一緒にやろうぜ!」という態度で、家族として中に入ってきてほしいのです。

――ジンギスカンのころにあれだけ広大な領土を統治し、長い歴史と文化に誇りを持っている国の人に対して、「兄貴」として上からの立場で接して大丈夫なのでしょうか?

ビジネスで大切なのは3つ、能力・知識・人間力。その中の能力と知識は日本が上の場合が多いのです。モンゴルは産業をみてもこれからの国ですので、日本は兄貴であっていいのです。ただ、いちばん大切な人間力。そこは対等です。

――技術などの指導に関しては上の立場からですが、人としてはモンゴルのマナーなどを尊重して対等に接することが大切なのですね。

はい。モンゴル人はプライドが高いので、そこは気をつけたほうがいいです。日本の強さは「うそはつかない」「モノ作りの質の高さ」「おもてなし」など日本独特のものです。そこが世界で尊敬されているので、それをなくして欧米企業のようになったら尊敬はされません。モンゴルと共通する価値観や、日本独特のよさを前面に出しつつ、技術指導や規則などは遠慮しない強い姿勢をとっていけば、「家族」として中に入っていけます。

モンゴル人はIQが高いですし、順応能力があり、言語能力もあります。素地はよいのでそこに教え込んでください。最初に悪いところがあっても発展途上と理解して、腰を据えて教えてほしい。でもすきをみせたら甘く見られますので、そこは凛とした態度で接する。また最初から規約などはしっかりと作っておいて、罰するときには規約を基に罰せるようにしてください。

最初からすべてを理解して進めることは大変です。ですからモンゴルと日本のビジネス文化を知っている私のような、日本に留学経験がある人が橋渡しになれます。そういう人をパートナーに選ぶと、長期的にうまく行くと思います。モンゴルとのビジネスにおいて何かあれば相談してください。

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つまり、

モンゴルは どんなに助けても けしてその見返りを求めない

招待されても、その返礼を求めない また返礼をしない

日本は助けられると

ありがとう

と感謝する。そういわないと、態度でいわないと 礼儀に反する。

 

だが、助けて当たり前の文化はありがとうという言葉さえない。

 

それはイスラム文化とインド文化にもみられ、

富んだ者が貧しき者を助けて当たり前であるため、

あえて、ありがとう と 返事をしない。

むしろ、インドでは そういうお布施の機会を与えたというので、

感謝するのは、お金やモノを与えた富んだ者がするもので、貧者ではない。

 

こうした、

ありがとう 返礼文化は 日本独特の文化というもので、世界ではむしろ少数派である。

 

日本では

何かプレゼントして、ありがとうも言わないと怒り出す。

そこから いじめさえ起きてくる。やっかいなおせっかいな文化でもある。

 

モンゴルではいじめはない

日本ではいじめがある

その理由は みんな違って みんないいが

当たり前である。

やたら、人のおせっかいをしないのだ。

むしと、おせっかいを要求しているのは日本の方で、それで、自分で自分のそのモンゴルの接待文化として特別して、自己矛盾に陥り、ストレスをかかえることになる。

 

日本の接待文化をむしろ見直すことで、

いじめ はモンゴルのように一切なくなるだろう。

 

参考:モンゴルは泣いている

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | モンゴルの接待文化 Монголын зугаа цэнгэлийн соёл はコメントを受け付けていません

馬頭琴の三伝説

フフー・ナムジルのものがたり

むかし、フフー・ナムジルというとってもハンサムな男[おとこ]が、モンゴルの西[にし]の辺境[へんきょう]で兵隊[へいたい]の仕事[しごと]についていた。フフーには、翼[つばさ]のあるジョノン・ハルという馬[うま]がいて、それに乗[の]って婚約者[こんやくしゃ]のところにかよっていた。

その婚約者[こんやくしゃ]とはべつに、フフー・ナムジルを好[す]きになった女[おんな]がいた。

その女[おんな]は、フフー・ナムジルの婚約者[こんやくしゃ]がねたましくて、彼女[かのじょ]に「フフー・ナムジルにはほかに好[す]きな女[ひと]がいるわよ」と、うそを言[い]った。

あるとき、フフーが馬[うま]のむれを追[お]って家[いえ]にもどり、翼[つばさ]のある馬[うま]を休[やす]ませていると、あのわるい女[おんな]が馬[うま]のところにやってきた。

ジョノン・ハルはご主人[しゅじん]がきたとおもって、よろこんでふたつの翼[つばさ]をひろげた。

すると、女[おんな]はその翼[つばさ]をはさみで切[き]り、馬[うま]はすぐに死[し]んでしまった。

フフー・ナムジルは、息[いき]たえたジョノン・ハルを見[み]て悲[かな]しみにくれ、この馬[うま]を忘[わす]れないために、ジョノンの頭[あたま]の形[かたち]を木[き]に彫[ほ]り、

それにながい柄[え]をつけて、根元[ねもと]に箱[はこ]をつけ、ジョノンの皮[かわ]でおおい、

しっぽの毛[け]を張[は]り、松脂[まつやに]をそれにぬって音[おと]を出[だ]し、

ジョノン・ハルのいななく声[こえ]や、歩[ある]いたり走[はし]ったりするすがたを音楽[おんがく]にした。

こうしてモリンホールは生[う]まれた。
(「フフー・ナムジル」はモンゴル国[こく]で有名[ゆうめい]なおはなしです。)

 

バトルと黄色[きいろ]い馬[うま] むかしむかしモンゴルの草原[そうげん]に、バトルという正直[しょうじき]で勇敢[ゆうかん]な男[おとこ]の子[こ]がいた。黄色[きいろ]い小[ちい]さな馬[うま]がいちばんの仲間[なかま]。一人[ひとり]と一匹[いっぴき]は、ナーダムの競馬[けいば]では9回[かい]も優勝[ゆうしょう]したんだ。

ある秋[あき]、バトルがくらす国[くに]の領主[りょうしゅ]が、となりの国[くに]の領主[りょうしゅ]たちと、ナーダムの大会[たいかい]をひらく相談[そうだん]をしたついでに、こんな賭[か]けをした。

「あの黄色[きいろ]い馬[うま]が勝[か]ったら、君[きみ]たちから30平方[へいほう]キロメートルずつ牧草地[ぼくそうち]をもらおう。負[ま]けたら、君[きみ]たち一人[ひとり]ずつに、30平方[へいほう]キロメートルの牧草地[ぼくそうち]と、美人[びじん]を2人[ふたり]ずつプレゼントしよう。」

うわさはあっという間[ま]に広[ひろ]がって、バトルは心配[しんぱい]で恐[おそ]ろしくてたまらなくなった。

[うま]は年寄[としよ]りだから負[ま]けるかも知[し]れないし、負[ま]けたら、国[くに]の人[ひと]たちに、すごく迷惑[めいわく]がかかってしまう。ああ、負[ま]けたらどうしよう!

試合[しあい]の日[ひ]、草原[そうげん]には見物人[けんぶつにん]がおしよせた。

試合[しあい]に出[で]る何百匹[なんびゃっぴき]もの馬[うま]もやる気[き]まんまんだ。王様[おうさま]たちが席[せき]におつきになると、いよいよ試合[しあい]開始[かいし]。コースはなんと30キロもある。バトルと黄色[きいろ]い馬[うま]は、ゴールの直前[ちょくぜん]で必死[ひっし]にラストスパートをかけて優勝[ゆうしょう]した。

「やったあっ!」見物人[けんぶつにん]も大[おお]よろこびだ。

でもね、バトルの馬[うま]はゴールしたとたんに倒[たお]れて、二度[にど]と立[た]ち上[あ]がれなかった。

あの馬[うま]が死[し]ぬなんて。。。悲[かな]しくて、馬[うま]のそばを離[はな]れられないバトル。

夜中[よなか]、ぼんやりしていると声[こえ]が聞[き]こえてきた。

「ねえバトル、ぼくたちほんとに長[なが]い間[あいだ]いっしょだったね、別[わか]れたくないよ。

もし二人[ふたり]の思[おも]い出[で]を残[のこ]したければ、ぼくの体[からだ]で楽器[がっき]をつくって、ずっと君[きみ]のそばに置[お]いてね。」

バトルは言[い]われたとおりに、馬[うま]の骨[ほね]で楽器[がっき]の棹[さお]を、しっぽで弓毛[ゆみげ]と弦[げん]を、皮[かわ]を共鳴胴[きょうめいどう]にはり、最後[さいご]に頭[あたま]を棹[さお]のてっぺんにのせて、モンゴル草原[そうげん]ではじめてのモリンホールを作[つく]った。

それからというもの、モリンホールはモンゴル人[じん]といつも一緒[いっしょ]だ。
お年寄[としよ]りの話[はなし]では、ラクダもモリンホールを聞[き]くと涙[なみだ]を流[なが]すらしい。お乳[ちち]の出[で]ない母[かあ]さんラクダにモリンホールを聞[き]かせたら、お乳[ちち]が出[で]たって。

そんな言[い]い伝[つた]えもあるよ。モリンホールの音[おと]は、人間[にんげん]だけじゃなくて動物[どうぶつ]の心[こころ]にもとどくんだね。

スーホの白[しろ]い馬[うま]

[ちい]さな羊飼[ひつじか]いの男[おとこ]の子[こ]、スーホは、ある日[ひ]、草原[そうげん]で怪我[けが]をした白[しろ]い子馬[こうま]を助[たす]け、家[いえ]に連[つ]れて帰[かえ]った。

何年[なんねん]かすると、子馬[みっ]は速[みっ]さでは誰[だれ]にも負[ま]けないほどのりっぱな馬[うま]に育[そだ]った。

そのころ、スーホは競馬[けいば]に出[で]ないかと誘[さそ]われたんだ。

優勝[ゆうしょう]すると、領主[りょうしゅ]の娘[むすめ]と結婚[けっこん]できる。そしてスーホは白[しろ]い馬[うま]に乗[の]って優勝[ゆうしょう]した。でも、領主[りょうしゅ]はスーホがまずしい羊飼[ひつじか]いだとわかると、約束[やくそく]をやぶって、娘[むすめ]をスーホのお嫁[よめ]さんにしなかった。それだけじゃない。

自分[じぶん]の兵隊[へいたい]に、スーホをいためつけて白[しろ]い馬[うま]を盗[ぬす]むよう命令[めいれい]したのだ。
ひとりで家[いえ]にやっとたどりついたスーホが傷[きず]の手当[てあ]てをしていたころ、白[しろ]い馬[うま]は領主[りょうしゅ]のところから逃[に]げ出[だ]した。

残酷[ざんこく]な領主[りょうしゅ]は兵隊[へいたい]にこう命令[めいれい]したんだ、

“お前[まえ]たち、何[なに]が何[なん]でも白[しろ]い馬[うま]をつかまえろ!つかまえられなければ殺[ころ]してしまえ!”。

[しろ]い馬[うま]はスーホのところに必死[ひっし]でたどりついた。

けれども傷[きず]が深[ふか]くて、とうとう死[し]んでしまった。スーホは悲[かな]しくて気[き]が狂[くる]いそう。

その晩[ばん]、スーホの夢[ゆめ]にあらわれた白[しろ]い馬[うま]が、こう話[はな]しかけた。

“ぼくのこと忘[わす]れないで。君[きみ]とずっと一緒[いっしょ]にいられるように、ぼくの体[からだ]で楽器[がっき]を作[つく]って”。 これがモリンホールができた理由[りゆう]だよ。

(「スーホの白[しろ]い馬[うま]」は中国[ちゅうごく][うち]モンゴル自治区[じちく]で有名[みっ]なおはなしです。)

 

スーホんが助けた白いハルハが矢に打たれ悲しむ曲

アニメと馬頭琴のメロディを合わせたもの・・白い馬ハルハが打たれたまで・・・だが

 

スーホーとハルハが、競争に勝つときの、軽快なテンポが魅力である。

万馬の轟

モンゴル小学生は絵が抜群にうまい

モンゴルは牧畜文化である。

馬羊牛駱駝それらの糞までもけして無駄にしない。

楽器も、馬の毛皮や尻尾で作られ、その柄は馬の形で掘られる。

馬と人の心が一体となったメロディとリズムと そのものの生活がある。

こうした動物と一体となった人の生活から生まれ出た文化様式、考え方、

それは日本の農耕文化とはまったく違った理解が必要だ。

モンゴルを理解するには、その自然、その歴史、その生活を思い浮かべながら ハートでとらえなくてはなるまい。

 

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シニアフレンド

二週間のモンゴルの旅で、

私には19歳のヤングフレンドが二人できた。

彼女たちにとって67歳の私はシニアフレンドである。

年齢差 48歳 趣味百姓と大学1年生である。

シニアフレンド&ヤングフレンド

私には精神障害者のような見かけや常識では解らない劣等感のようなトラウマがある。

実際、私の高校3年間は精神病院に入院と通院で通学はほとんどしていない。

担任と校長の恩情で卒業できたが、

19歳といえば、私は日本をヒッチハイクしながら放浪生活していたころである。

そんな19歳のころの自分の幻と 同じ19歳のヤングフレンドをつい重ねて

その時代の苦悩それは”生まれ出する悩み(自立する直前の痛み)”に、共鳴してしまった。

 

生まれ出ずる悩みとは

子が親から旅立つ時の不安や葛藤 親の意向と子の希望が矛盾する時、そのどちらを選択するか?

最終判断を攻められる状態である。

 

私は26歳と24歳の娘がいる。

年齢的にはヤングフレンドは娘とも孫とも言っても可笑しくはない。

しかも、私は娘たちを6歳と3歳の時からシングルファーザーとして育ててきた。

二人は大学卒業し、就職、住まいもアパートを借りて自活したので、自然に自立していった。

最終的に自立させたのは 携帯電話料金を自分で払わせた瞬間から、親の役目は終了し、親の自由も娘の自由もそこから始まったという感慨がある。

 

ヤングフレンドはまだまだ自立・自活できていない。

 

だが、まさか、そんなヤングフレンドの屈託のない赤子のような笑いに

今までずっと抱えてきた精神障害の苦痛から解放させてもらったのである。

67年間の苦労が吹き飛んだような 私にとっては奇跡の開放感である。

 

その瞬間から沸き上がる感情は恋のようなものだが、よくよく分析すると かなり異質の恋心である。

それは 無償の愛のような 片思いのような無償の恋というもので、友愛と表現した方が正確である。

 

モンゴルの旅で、どうしてもひっかかるのが・・

”モンゴルの接待文化” ????????

そのキーワードが、

「(経済的・知識的・文化的など)モンゴルに来たらモンゴル人がすべて引き受け、日本に来たら、日本人がすべて引き受ける」

だが、大橋教授によると、「モンゴルと日本の経済格差が大きすぎるので それを受け入れ難い」として、

実際は「自分たちの分・・モンゴル人の分はモンゴル人で、日本人の分は日本人で それぞれ、個人的に負担していく。いわば、おごりおごられ、ではなく、別々会計になっていく。

しかし、

「モンゴルに来たらモンゴル人がすべて引き受け、日本に来たら、日本人がすべて引き受ける」

は金銭的には通用しないが、ボランティア(労働と知識と文化と楽しみ)でされていた。

例えば、

ゲル生活や馬乗りなどの一泊二日の観光ツアーは一人一万円が相場だが、それがモンゴル留学生のボランティアに前もってその料金を預け、かかった費用を差し引いたら、半分の5000円で足りた。

しかも、料理も観光も、同じ仲間として 楽しめたので、観光ツアーよりも100倍も楽しく実のあるコミュニケーションができた。

また、私にはヤングフレンドができたので、そのまた100倍の一万倍の天上の幸福感があるようなコミュニケーションができた2週間でもあった。

 

ボランティアとは無償の労働である。

その無償の労働とは

つまり

無償の恋友愛にリンクして、通じている。

シニアフレンド&ヤングフレンドは 私が命名したのだが、

この無償の友愛は無償のボランティアに通じていると直感すると・・

この無償の友愛を

国際交流の基本にすると、より深い交流 内容ある交流ができ、次の平和の時代への礎になる感じがする。

 

国際紛争の原因は単なるお互いの理解不足から起きると思える。

相手は敵とか味方とか、いわば心理学における 集団的レッテル化 であり、先入観、偏見、押し付け主義 で、単なる勘違いから そういう悲惨な戦争が引き起こされる。

そういう先入観や勘違いは親子、男女、老若、宗教、国、民族・・の間に蔓延して あらゆる病的問題を引き起こしている。

そうした病的勘違いを健康ならしめるには

無償のボランティア(友愛労働)による、日常の交流生活が最も効果的であると思える。

これから

シニアフレンド&ヤングフレンドの友愛から、

一体 何が学べるか? 実に楽しい研究の始まりである。

 

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