自然な無償の愛が不自然な有償の愛に代わる時

65歳と12歳の結婚、法的には認可される。
だが、倫理的・慣習的には犯罪・児童虐待として糾弾される。
子供の教育の機会を、子供時代の青春を奪う、社会悪がまかり通ることを非難するメッセージがされる。
一つの疑問は
どうして、65歳の老人が12歳の女の子と結婚したくなったのか?
単なる性的欲求のはけ口なのか?
65歳の男性の性的欲求は女性の閉口と同じで、勃起も射精ができなくなるので、子供は生まれない。
12歳の女の子は初潮を迎えた歳だろうが、性的知識の関心があっても、性的欲求はほとんどないだろう。
性的欲求のはけ口ではない。
じゃあなぜ、子供も生まれない、性的満足も得られないで、結婚しようと、お互いにしたのか? また女の子の両親も納得したのか?
年齢差の加藤茶と結婚した女性はお金目的だと思い込まれているが、女性の親の方が金持ちであるので、金目的ではない。
では一体なぜ結婚をしたのか?

愛はどれほどの年齢差も、また男女間も 国宗教だって超える。
それが真実ならば、
65歳と12歳の恋愛があってもおかしくない。
その純粋な恋愛を犯罪化させる原因は
それが有償の愛として、結婚、性生活、教育学問、夢を縛り上げたことに問題がある。
年齢・性・国・宗教を超えた恋愛とは「無償の愛」なのだ。それはお互いを縛りあうのではなく、お互いを自由にするのが無償の愛であり、片思いである。
無償の愛も片思いも、一見エゴで、独善的で、妄想に近いものである。
それを有償の愛として、結婚とか性生活とか経済生活に結び付けたとき、神は悪魔に変身するのである。
もし、
65歳と12歳の男女がお互いに無償の愛でつながったら、
結婚をする必要もないし、性交渉も必要ないし、教育学問を奪う必要もない、おじいちゃんと孫の楽しい会話であり、親子や友人また生活、夢に障害があったときの、相談役として、素敵な関係ができるだろう。
自然な無償の愛を 不自然な有償の愛だと勘違いすると、
愛は憎しみに、 自由は束縛に、 神は悪魔に 応援は犯罪に こうした、倒錯・勘違い・狂信と偏見による 不幸と悲惨のニュースは世界中で聞かされる。
そこで、もし、有償の愛を無償の愛に転じる手段をとったならば、
悪は善に、 戦争は平和に、 犯罪は善行に 苦しみは喜びに 変身するものである。

 

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無償の愛 それが辿り着く先は自然の愛だった

やっと モンゴルの旅は終わった。

その土産に 「無償の愛」なるものを 持ち帰った。

命のバトン先を得たのである。

命とは燃え尽きる薪の炎(人生の情熱)のようなものである。

その薪の炎は 新しい薪にバトンされ燃えていく

(人生の情熱は新しい人生の者に伝えられる)

 

いったい、薪というものは火にくべると燃えて尽きてしまうものだが、薪は燃え尽きても火そのものは薪の存在する限り、つぎつぎに新しい薪に伝わって決して無くなるものではない。

それと同じく、人間の生命も個々の人間に関する限り一度は滅び失せるものではあるが、生命そのものは永劫に尽きることのないものだ。

個々の事象にとらわれるところに人間の惑いと悲しみがある。

 

荘子 養生主第三(6)

 

人生の情熱(薪の炎)を恋愛とするならば、

その人生(薪)が燃え尽きる炎は無償の愛また片思いであると言えよう。

 

通常の恋愛は有償の愛また相愛である。

男女が恋愛 結婚 子供が産まれ 家族を育てていく。

これを薪ととらえるならば、夫婦 家族は一緒に燃え尽きる薪であろう。

身体的遺伝子の伝達で、これもまた身体的命のバトンである。

それに対して、

情熱のような精神的生き方の伝達を 精神的命・魂・心のバトンという。

命のバトンといった場合、身体的遺伝子伝達ではなく、精神・魂・心のバトンのことである。

子にない親もいるし、生涯伴侶を持たない人もいる 子がいても親子に生き方が違うものもいる

そういう人の人生もまた、心の命のバトンはできるということである。

会社経営でも、親族経営でもなくても、創業者精神を伝え続けることで その会社が長く存続できるものでもある。

人間は身体と心を分けて考えられるが、魚の鮭は分けがたく、

産まれた川をさかのぼり、そこで産卵し、親鮭は息絶える。

それはまさに、心身の命のバトンしかも無償の愛(片思い)によって、なされ、

自分の命を犠牲にしてまでも 次の命を生み出していくものである。

魚だけでなく、植物も同じである。鳥の実った果物を食べさせ、その種を運ばせる。

そういう心身の命のバトンは自然界では日常茶判事である。

人間のような恋愛(有償の愛)はまるで

「愛するから愛せよ」「これだけ愛すから、その分愛してくれよ」というような恋愛は自然界では奇異な存在である。

もし、

「たくさん愛した人から まったく愛されなかった時」

そこから、愛は憎しみへと 変貌する。そうした、悲惨で惨いDVは愛する人を殺戮するというニュースには事欠かない。

有償の愛は貨幣の貸したら、利息つけて返さなくてはならない。

また、お中元お歳暮、プレゼントをもらったら、お返ししなくてはならない。

それが礼儀とする。

こうした返礼を求める愛はお金の問題と同じく、愛や人間関係においても、狂信じみた喜怒哀楽が展開する。

しかも、法律で、有償の愛を規定して、それに基づいた裁判をする。

そうした人間しかないような有償の愛は 自然の無償の愛に逆らうようなもので、いわば自然破壊の恋愛だといえるのである。

若い時は ずっと片思いを続けて、その一生をささげた無法松は実に寂しい人生だと思っていた。

だが、老境になってはじめて、片思いを続けることの幸福感があることを知った。

それは 宗教的な 男だったら、女神を、女だったら、あのマザーテレサのようにイエスを愛するようなものである。

神様を愛したら、人はどうなるだろうか? ラーマクリシュナ・マザーテレサの青春は輝かしい人生を持てたではないか。

それは愛する行為自体にこそ、その幸せがある。

愛して、愛されなくても 愛されても あまり関係ない。

愛する自体に幸福になる秘訣がある。

それはスポーツでもそうだ。スポーツの試合自体を楽しみ、その試合結果でその楽しみが変わるわけはないからだ。

自分の人生の工程がその充実感があり、その人生の成功失敗はあまり重要ではないのだ。

どんな挑戦をし、どんな人生にすべてをささげたか、どんな情熱を燃やしたかである。

それがどんな結果になるかは、それは誰にもわかるまい。きっと神様だってわからないだろう。

そんなわからないものを期待して、信じて 行うほと疲れるもの、また空しいものもあるまい。

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Маргааш明日のモンゴル

Би бол монгол хүн

私はモンゴル人

argal un utag−a borgiluGsan malcin u ger tU tUregsen bi atar keger−e nutug ban Ulgeyi ben gejU bodudaG・・・・

unaGsan ene notug ban Ober yin beyen sig qayirladaG uqiyaGsan tunggalaG mUren iyen eke yin sU sig sanadaG.

対訳:

アルガルの煙が立ち上る
牧家の天幕に生まれた私
広大な故郷の草原が 私の揺りかごだと思う...
生まれ育ったこの故郷を わが身のように
愛しく 産湯をつかった清らかな川は
母の乳のように懐かしく思う。

 

 

 

Нүүдлийн соёл иргэншил

Хүн бүр өөр байдаг Бүгд сайн

Жишээлбэл,

Бүү дургүйцлээ бүү бууж өг

Энэ нь сүнсээр дүүрэн байдаг.

Энэ нь өнгөрсөн үеийн өшөө хорсолыг мартаж, одоо амьдарч байна гэсэн үг юм

Бусад хүмүүс болон бусад орныг хүндэтгэх, хүндэтгэх, өөрийн зарчмыг зөрчих, хөндлөнгөөс оролцохгүй байх

Энэ нь ирээдүйн ертөнцөд чухал байх болно.

遊牧文明は

みんな違ってみんな善い

として、

恨まない お節介しない

という精神に満ち溢れている。

それは 過去の恨みを忘れて今に生きること

他人や他国に対して、尊敬し、自国の主義を押し付け 干渉しないこと

それが これからの 世界にとって重要になる。

 

Одоо Монгол улс нийслэл Улаанбаатар хотод төвлөрч, төвд амьдарч байгаа хүмүүс баялаг,

Ядуучууд нийслэл хотын эргэн тойронд уулархаг газар амьдардаг.

Энэ бол мөнгөний зорилготой капиталист нийгэмд бий болсон үзэгдэл юм.

Капиталист ялгаатай байдлаас үүдэлтэй сул тал нь дэлхийд тархдаг.

今、モンゴルは首都のウランバートルに集中し、中心部は富める者が住み、

首都周辺の山には貧しき者が住む。

これはお金目的の資本主義社会が生み出す現象である。

その資本主義による格差による弊害は世界に蔓延する。

 

Энэ сөрөг спираль гарахын тулд,

Нүүдлийн соёл иргэншлийн монгол хүн байх,

Тойрог дахь төвлөрсөн бус хот бол нүүдэлчин соёл иргэншлийг дэлхийд хүргэдэг аялал жуулчлалын хотхон байгуулах явдал юм.

Улаанбаатарын усан хангамж нь бохир, согтуу байж чадахгүй. Хэрэв та уувал өвдөх болно.

Гэсэн хэдий ч хөдөөгийн газрын доорх усны цэвэршилт, амт нь дэлхийн хамгийн шилдэг нь байх болно.

その負のスパイラルから抜け出すには、

遊牧文明のモンゴル人であることに自信をとりもどし、

地方に分散型都市として、主に、遊牧文明を世界に発信する観光都市を築きあげることである。

ウランバートルの水道は汚れて飲めない。飲めば病気になる。

だが、地方の地下水の綺麗さとおいしさは世界一だと思える。

Нүүдлийн амьдрал бол аялал жуулчлалын нөөц,

Гадаадын хүмүүстэй ердийн амьдралдаа амьдрах нь хангалттай.

Гель амьдрал, үхэр адууны хонийг хамгаалах,

Бидэнд байгаагүй эрдэнэстэй улс оронд буцаж ирнэ.

Тухайлбал, Монголын эмэгтэйчүүд үзэсгэлэнтэй. Энэ ээжийн зүрх сэтгэл бол дэлхийн ивээл юм.

遊牧生活そのものが観光資源であるから、

外国人と一緒にいつもの生活をするだけで十分である。

外国人はゲル生活、牛馬羊の世話をするだけで、十分満足し、

自分たちにはなかった大切な宝をもって国に帰るだろう。

 

特に、モンゴルの女性は美しい。その母の心は大地の恵みそのものである。

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モンゴルの遊牧文明と日本の農耕文明Монголын нүүдлийн соёл иргэншил, Японы соёл иргэншлийн соёл иргэншил

モンゴルは遊牧文明だ

そのため、

日本の弥生時代から発生した農耕文明とは

次元的に違っているので、比較し、どちらが優劣という判断は当たらない。

遊牧文明は

日本の弥生時代前の15000年続いた

森を移動しながら、採集して生きる 縄文文明に似ている。

弥生の農耕文明はまだ2000年余りしか立っていない。

今、世界の主流をしているのは

広大なアメリカの牧畜文化(定住しながら牧畜をする)だろう。

この牧畜文化は日本の農耕文化、モンゴルの遊牧文化そのものに大きく浸食して、

その本来の文明のよさを壊している感がある。

これら文明の「恨み度」と「お節介度」の強弱でその違いを見てみる。

日本とモンゴルの共通点は

過去の歴史において虐げられた恨みをもたないことだ。

日本はアメリカの原爆投下を恨まない

モンゴルは日本のノモンハン事件虐殺を恨まない。

中国・南北朝鮮は日本の残虐行為を恨む

アメリカとロシアは

とにかく世界のリーダーになろうとお節介であり、

「眼には眼、歯には歯」と復讐の鬼となるが、

正義感が強く、論理的倫理的である。

 

これら4種の文明はその優劣を競い合えば、互いに破壊し、共倒れになる。

だが、4種の文明を尊重、認めれば、互いに協力、平和になれる。

「みんな違って みんな善い」は

人だけでなく、古今東西の文明文化にも言えることだ。

 

 

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PowerPointを使った英語のプレゼンは・・

田崎正己のモンゴル徒然日記

「ゼミナールというのは、私が日本で大学時代に経験したゼミというのとは違います。全部で8回あって、各回に向けて私から予めテーマを与えてあり、そのテーマに沿って生徒にプレゼンテーションをしてもらうというものです。

講義の方では、経営やマネジメント手法に重きを置いているので、ゼミナールのテーマはより広い観点や企業への馴染みやすさを考えました。

ですが、これが結構ハードなのです。3-4人のチームに分かれ、毎週全チームにプレゼンしてもらうのです。

毎週、資料を読んだり、ネットで調べたり、皆で議論してもらってパワーポイントの資料を作ってもらいます。しかも全部英語です。

日本で毎週英語のプレゼンを準備させる授業なんかあったら、そんなの取りたくないでしょうね。

しかもこのゼミナールとは別に講義もあり、予習してもらうことを「強く」勧めており、更にレポートも課してますから、生徒は大変でしょう。

モンゴル人はチームで仕事をするのがとても不得手なので、毎週の資料作りは多分かなりきついのではないかと思います。」

♬♬♬

O教授が私に課した 10分間のPowerPointによる プレゼンは なんと モンゴルの大学のゼミでは普通に行われていることが解った。

中国でも、モンゴルでも、英語がほとんど通用しないのは日本と同じで、

英語がわかるのは若い女性が多く、その数は本当に少ない。

それに、モンゴル大学生の英語のレベルは私と同じ中学3年生程度である。

小学校から英語を学んでいるから もっとうまいかと思いきや、日本のレベルとそう大差がないので

妙な安心感がでた。

日本人が特に言語能力が低いのかと思い込んでいた感があるからだ。

 

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