やっとモンゴルの旅は終わった

精進湖で三人横たわるカミユ描く

カミユとジュリアンとの三日間の我が家での暮らしは

まるで夢のような幸せな、またフランス人の心と日本人の心を通わすことができた。

 

2018.3.25 精進湖にて、

 

最終日の今朝、
二人から、43年前のフランスでお世話になった友人を

ずっと探してきた。ジュリアンが名前のスペルを違えて探してもらったら、

その彼とコンタクトが可能となった奇跡。

そして、
67年の人生で初めての恋愛かもしれないという夢もただの独りよがりであることを確認できた。

この二つのたった一時間の出来事は

まさに、楽しいモンゴルの旅のフィナーレにふさわしい、別れの時と、次の旅立ちに向かう勇気と情熱をもたらした。

幸福と感謝がいりまじる 人生で最高の「ああ生きててよかった」という充実感に満たされた。

カミユから私との思いでをプレゼントしてくれた。一生の宝物だ。

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カミユ&ジュリアン我が家で歌う

モンゴルのウランバートルのゲストハウスで知り合い

日本の私の家にきて、

私のための歌ってくれた。

私も 尺八で、リンゴの花びらを歌と朗読で応えた。

 

 

 

 

 

特に、越路吹雪のシャンソンが日本語で歌うのがいいらしい。

原曲はles passantes brassens

 

私のヤングフレンドの似顔絵をカミユは描いてくれた

七海のカミユ描く

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なんとか戦争回避できそうなムード

パラリンピックが今日閉幕する。

そして 南北対話、米朝対話も進みだし・・

不安定ながらも いい感じだ・・・

それがたった一人の金正恩が死にたくないという気持ちで降りただけで・・

戦争から平和へと 一気に変わることができたことは まさに歴史的証明である。

 

それは日常生活でも、頑なな自己主張を取り下げるだけで、まったく違った回りの環境が変化するようなものである。

 

この頑なな自己主張、自己信念、自分が信じる思想・宗教が、やたらと他との摩擦を生み出していく。

それらの摩擦を和らげようとすると、逆に邪魔者・敵対扱いされて、よけい摩擦が大きくなってしまう。

多くの人は「触らぬ神に祟りなし」で、その神様・信念の人を無視するが、親しい者にとってはその無視もできなく、批判も、称賛もできないという ジレンマに陥る。

できるとすれば、その神様・信念の人によって、傷つけられた人を介抱したり、傷つかれる前に逃がしてあげることだろう。

あとは、その信仰、その信念、その主義が、現実・自然に合わないと、本人が自覚するまでじっと辛抱強く待つしかない、

だが、この辛抱なかなかできなくて、つい爆発してしまうと、冷たい戦争が一気に熱い戦争へと変わってしまう。

私はこの辛抱が実に難しく、

「火に油を注ぐようなことをする」「点火剤」とも言われたりする。

それを納めるときは、「自分の主張を取り下げる演技をして、誤ってしまう」「本心で ごめんなさい」と言っていないとバレたら、それは逆効果の謝りだ。

その時は、互角に意見を戦わすしかない。 その時のルールは殺しあわない、殴り合わない、冷静な心で、優しい言葉で、小声でゆっくりと話すことだろう。

そして、意見は互角にして終わるように、

「相手の意見に勝たない、負けない」というくらいが、丁度いい平和解決になり、おさまる。

「みんな違ってみんな正しい」くらいで、まとめ上げればいい。

戦争はコミュニケーション、平和はその休息くらいで 丁度いい塩梅だろう。

こういうコミュニケーションができるようになったのは

なんども宗教に入信、妄信、狂信して、そこから、なんども抜け出してきた経緯があるからだ。

妄信・狂信から抜け出せたきっかけはみな教祖の不祥事、ゴシップであり、言うことと為すことが真逆であった場合に、その教えや信心が間違っていることに気づかされたことだ。

それは 妄信、狂信、誤信に陥っている人の言葉と行為を注意深く観察するだけで、その矛盾に気が付き、それから抜け出せる。もちろん、自分の言葉と自分の行為を観察することで、自分の誤信からも抜け出せるということでもある。

ともあれ、

誤信・狂信・妄信の被害にあったら、一番癒されるのは 赤子の笑いである

 

 

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持続可能な農業探検スタート

なんと、その学会が開かれる大学はuniversiti malaysia sabah で、ボルネオ島にあった。

ボルネオといえば、我がゴリラと同じ類人猿のオラウータンがいるところではないか!

大昔から、オラウータンに会いたかった。

その機会がやってくるとは まさに 奇跡尽くしの67歳だ。

いつもはこんな感じで考察ばかりしているけど

二人の娘の父親なんだな

持続可能な農業がテーマというが・・・・

モンゴルに行って、つくづく、農業が遊牧と合わせて考えないとうまく自然の歯車は回らないって気づかされた。

このボルネオはまさにそうだ。

 

 

日本では森、モンゴルでは草原 ブラジルでは熱帯雨林ジャングル

その自然をそのまま生かしていく 農業、遊牧、さらに、旅観光の三つセットで考えないと

これからの地球も、人類も、動植物も、持続可能な共存世界を維持できないようだ。

 

マレーシア国内の大学を含めてバングラデッシュ農業大学、そしてインドネシア大学を招待して、徳島大学とコラボして、目標の参加人数は100人というのだが・・・

なんか、真面目な持続可能な農業の研究発表がされるなら、問題はその内容なのに、参加人数ばかり目標にするのは 観光客の数を増やすような学会というイメージがわいてくる。

 

実際、近いボルネオ島 コタキナバルは観光地として、ツアーがあるところのようだ。

そのメインがオラウータンに出会い、きれいなビーチでくつろぎ、海鮮料理をたらふく食べて 余暇を楽しむようなところだ。

 

盛大な学会はどうも観光の目玉になるような旅客集めに利用されている感がある。

大体、一日で、たくさんの英文の学者の論文講義など聴けるわけはないし、まして 何を話しているのかさえもつかみがたいだろう。ただ、なにやら難しい話が発表されたというだけのパフォーマンスにしか感じない。

むしろ、メインはそうした論文ではなく、その周りの観光のような気がする。

持続可能な農業についての、いろいろな意見はわざわざ そんなボルネオの学会に行かなくても、ネットで知ることは可能である。むしろ、その方がよくわかる。

学会とは要は大学のイベント・お祭りみたいなもので、みんな集まって顔を合わせて 知り合うための機会をえるものだろう。そこから、互いに連絡しあって、はじめて、貴重な論文が生まれてくるというものだろう。

こういう、同じ目的を持つ人が集まり、その縁で、さらなる研究が深まるという、いわば、結婚相手を探すような、共同研究者をさがすということだろう。

学会 楽会 って感じで、人との出会いを楽しめばいい、

それは論文の内容主体は ズームビデオ会議なんかで、定期的にやればいい。

人と人の出会いから、しいていえば、すべての知恵と情報が飛び出すということだろう。

 

 

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無償の愛とプラトニックラブは次元的に違う

アンネが13歳の時、3つ上の16歳のボーイフレンドがいた。

その彼がモデルになったかもしれないが、実際に付き合ったわけではない。

アンネが恋したのは仮想空想の男性であり、なんでも話ができる唯一心が許せる男性である。

アンネはユダヤ収容所で、チフスで死んでしまう。

実際に、恋した男性は一人もいなかった。

アンネの空想の男性への愛は実際にアンネの問いに答えることも、デートに誘うことも、一緒に話し、食べることもない、なんの見返りもない いわば無償の愛ともいえる。

 

半世紀前に、プラトニックラブというのが純愛の代名詞みたいにいわれていたが、それは単に性交渉がない精神的な愛のように思われ、恋愛感情がないが、セックスだけは共有するのをセックスフレンドと対比することができる。

純愛=プラトニックラブ=本当の愛

汚愛=セックスフレンド=偽の愛

というような、まるで、唯心論が正しく、唯物論が間違いのような風潮ができてきた。

 

アンネの空想の男性への愛は プラトニックかどうかの次元ではないだろう。そこに性行為のあるないはまったく関係ない世界である。

だからこそ、

アンネの空想の男性は無償の愛であって、プラトニックラブという次元を超えた愛なのである。

人間は身体と心を同時に持ち、それは完全に分けることはできないし、完全に分けて考えることもできない。それは無理やり、心身を分けて、プラトニックラブと セックスフレンドという分けたら、不自然であり、その議論さえも無意味なものである。

 

では、

無償の愛と有償の愛と完璧に分けることができるかどうか?

この問いの応えは

この世とあの世を完璧に分けることができるかどうか?

という同じ次元の問いと答えである。

 

そして、アンネの無償の愛は 愛すること自体でその報償の幸せを受け取ることができる。

その愛が空想であれ、現実的な見返りがなくても 愛する自分から 幸せの自分を得られる。

だから、アンネはどんなつらい状況であっても、その空想の男性への恋で、生きる力を得たのであろう、

けして、寂しい 悲しい人生であったとは他人は想像しても、アンネ自身は幸せを愛する空想の男性から幸せの人生を得ただろうと思える。

 

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