公とは私が無いということだけである

 昨年公私理論として、瓦理論をここに書いたことがある。

それは、公私を5:5にするのが、丁度いいコミュニケーションだというものである。

 しかし、これは公というものを存在すると仮定したものである。公とは私の集合体であり、常に同じ集合体ではないので、固定的に存在するのではなく、時代の流れとともに変化しつづける集合体である。

 さて、宇宙のはてはどうなっているのだろうか?

 時は無限に進んでいるのだろうか?

 無限の宇宙の存在と時間をどうとらえたらいいのだろうか?

 数学の図にしてみると、実存と心の姿と合わせて公私を表現することができる。

公私の公は無限(∞)の空間と時間の変化し続ける姿であり、私は世界を観る基点(0)として表せることができる。

 実際に存在するものは、第4元の時間と空間の中にしから存在しないので、緑の部分であり、それ以外は実存はしていないが、存在しているかのようにみえる心が黄色の部分であり、それが実存の世界では記録として残された言葉や写真の電子の組み合わせのような信号として記憶される。

 神仏とは公の無限の存在のようなものであり、それを支えているのは私(自己の存在)の意識(0の基点)だけである。そのため、あえて、公というものは存在として言い表すと、私が無くなっていく流動体のようなものに表現できる。

お金のしくみからいうと、

 減価する貨幣は、私という所有権が時間とともに消えていく貨幣であり、その消えていく価値の数字が公の価値になる。

 例えば、1万円の年10%の減価貨幣を造幣して、Aさんに譲渡したとする。Aさんはもしおの減価貨幣の減価率10%の1万円を使わないで貯蓄すれば、その10%の減価率1000円を毎年税金として国に徴収され、10年後には合計で1万円徴収されることになり、Aさんが貯蓄した減価率10%の1万円はそのお金を製造した国に没収されるということである。

 しかし、Aさんがこの減価する1万円を使用すれば、10年間はそのお金が消費税年1000円支払いながら、流通するということになる。

 税金を公のお金とすれば、減価する貨幣においては、私の所有権を捨てた(減価率)お金のことになる。

私が少なくなると、公が増える。私を捨てると公が豊かになっていく。

 そのため、税金を払ったり、ボランティアしたり、公務をすることは大変だが、減価する貨幣社会においては、公に働くことは私的なものを捨てていくだけの楽な作業になる。但し、その私の捨て方は生ゴミを単に捨てるのではなく、堆肥になるように捨てることで、公として、生まれ変わる私の存在になる。

 

 

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