脱原発に一歩近づく投票は?

今年 脱原発の実現に一歩近づけるかもしれない都知事選で細川氏を応援したが

その始めての政治運動をする上でいかに政治が権力闘争で汚れきっているか知り

もう二度と政治運動には手を出さないことにした。

 

自分ができる唯一の政治運動は投票であるので それだけに絞った。

昨日自民党長期政権を狙った衆院選の解散がされ 12月に投票になるが

自分の脱原発を実現したい投票をどうするか? 思案した。

 

まず現与党の自民公明党の原発再稼働する推進派には反対なので

それを阻止する投票をいかに有効的にするか?

 

都知事選では脱原発派の票の取り合いになって完璧に負けた反省をした。

とにかく与党に代わって野党が政権を担当するしか道がない。

野党の票の取りあいをしないで

野党第一党の民主党に票を入れるのがもっとも効果的であるということなのだが

現在の民主党は原発再稼働反対とは思えないので迷うが 少なくとも自民党の原発推進よりはマシである。

 

しかし

もっと効果的な脱原発への道は

野党連合をするのではなく 小沢さんが言うように

野党連合の新党を造り

いろいろな政策の違いがあっても それを尊重しあう党を作ることである

そうすることで 反現政権の受け皿を造ることである。

 

もし政権がとれたら 政策がみんな違う意見を充分論議し 多数決でその政策を決定すればいいだろう。

まずは野党連合党で政権をとり、その野党同士の論議と多数決の議決でその党の政策を決めていけば

それが自ずから 国会の審議の民主的予備審議となって内容が濃くなり、一人一人の党員の意見が尊重されることになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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見せかけの知恵と真の知恵の違い

鍬で畑を耕している時

機械で耕してたくさんの収益をあげたとしても

結局 手作業で耕し 自分の食べ物をえることと 同じ労力が必要なのではないだろうか?

という疑問がわき

どんな知恵で便利になったとしても 自分の命を支える労力は変わりがないのではないか?

 

ここ8ヶ月ダイエット生活に挑んでいるが

美味しいモノを食べて太り ダイエットをして痩せる現代人の宿命はまさに

美味しさと贅沢さ また便利さを追求し 欲望を満足させるために知力労力金力を費やすが

後で肥満でその逆に欲望を抑えることに知力労力金力を費やさざるをえないのでは馬鹿げているのではないか?!

最初から 欲望を追わずに 必要最小限の欲望で満足していれば 肥満や病気で苦労しないで健康を維持できる

 

肉体労働をしないと 身体がなまるので散歩したり 運動をする

もし 適度な肉体労働すれば 散歩も運動も必要がないで 身体が動く

 

知恵でズルをすれば 必ずその分の労力が必要になってくるってことではないか

宝くじが当たり幸せになった人はいるだろうか? むしろ不幸になった人の方が多いのではないだろうか!

宝くじやギャンブルで 金持ちになっても それで以前より不幸になったのでは そんなものには手を出さない方が賢いではないか

煙草や酒などの依存症に陥り苦労するくらいなら 最初から煙草を吸わず 酒も飲まなければ そんな苦労もしないですむし 幸せでいられるではないか

 

夢や欲望を叶えるのが 成功であるが

もしそれが叶ったら どうなるか前人者の姿から予想できたら

夢や欲望をどこで抑えた方が幸せを維持するには賢い選択であり

成功や失敗に翻弄され 苦労することはないだろう。

 

見せかけの知恵と真の知恵とは真逆であることが多いのではないか?

真逆でないとしても少なくても同じではなく 内容が異質であり

次元が違うものだから 比較しようがないのではないか?

見せかけの知恵は欲望を叶えるかどうかの成功失敗があるが

真の知恵は欲望をどこで抑えるかどうかの判断であり

それは失敗成功ではなく 自由選択の問題である。

 

 

 

 

 

 

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経済も国と地球の二つの顔があってよい

国際経済は毎日のドルの価値の上げ下げで右往左往している

世界は実質的にアメリカドルの基軸通貨で動いているからだ。

国が国民を支配してはいるが 国はドルに支配されている

アメリカさえも 一握りのドル金持ちに支配されえいる。

 

世界に戦争や内乱があっても 国連も治めることができないのだから

世界はいわば無法地帯である。

国際法があっても それで治める権限はない。

 

多くの争いや不幸は国や民族宗教の違いから起きているが

その争いを治めることができる意識は同じ地球人であるという人類愛である。

こうした人類愛の機能を国よりも強い経済力で治めることが必要であろう。

 

基軸通貨ドルに変わる人類愛に基づいた国債通貨が今後の世界の争いや不幸を解決する糸口になるだろう。

人はそれぞれの国の顔を持つと同時に みな同じ地球の人類としての顔を持つように

それぞれの国の貨幣価値が毎日上がり下がりするような状態はまさに戦争状態であり けして平和な世界ではない

それぞれの国民がその国の貨幣が混乱したら 人類としても貨幣で暮らしを支えることができるようになればよい。

 

人は左右の両目両耳両手両足があって バランスをとっているように

経済も国の貨幣と人類貨幣の左右あってこそ バランスよく平和を保ちやすくできる。

国は動物の世界の縄張りである。人の個性の多様性があってこそ 人は等しく楽しく生きられるように

縄張りもいわば地域の顔としての特性として尊重してこそ 世界も楽しくなるが

一方行きすぎた愛国心は世界全体を残虐戦争においやることにもなる。

国を超えた愛人類意識も必要である。それは矛盾するようだが どちらが価値が高いというより バランスの問題である。

 

世界経済のバランスをとるにはドルが崩壊しても 別な基軸通貨としての国際通貨を選ぶことができるようにしておけばよい。

新山梨コインのような世界ベイシック・インカムが実現できる貨幣システムをどの国民も選べるようにすれば

ドルの価値の右往左往する必要もないし 自分の命を守る保険として 選べる国際通貨をいくつか造れば安心である。

 

国に政党があるように 世界にいくつかの国際通貨があってこそバランスがとれる。

今はドルの独裁政権のような世界だからだ。

 

 

 

 

 

 

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自他は常に一体なんだなあ

戦場のピアニスト を録画でみた

ドイツ人によるユダヤ人の大量虐殺の中生き延びたピアニストの半生である

同じ時代 日本の戦時中に同じ虐殺がされていた

民族の争いにはこうした残虐な大量虐殺が多くみられる

戦国時代では同じ民族同士でも 家系の争いにも大量虐殺があったし

今の世界でも宗派の間でも イスラム国のように残虐殺人がみられる。

 

こうした歴史をながめると 殺した人は殺され 権力で虐げた者は権力で虐げられる 繰り返しである

一体なぜ こうした残虐な戦争を古今東西で繰り返し行われるのか?

 

それは単純に 「自他一体である」というのが真実なんだと思えるのである

そもそも命は自他の夫婦から産まれたモノであるから 自他が一体でなければ命は存在しない

つまり

他人を殺せば自分も死んでしまうという命の存在定義でもある

そこに善悪なんかは関係なく 他人を殺せば自分も殺されるという単純な命の原則つながりがあるだけである

個人同士であれ 民族や国・宗教間であれ 殺せば殺されるという命の原則があるだけだ。

 

そこに上下関係があったとしても 下の者が上の者に殺されていいわけななし 逆もない

上下関係は社会の意志決定や安定には必要だが 命のやりとりだけは上下関係は無関係であり 平等であるといえる。

どんなスポーツでも勝敗あり 上下関係があっても そこに命のやりとりはないし 命を奪うスポーツはスポーツではなく戦争である。

 

こうした命の存在原則には

死刑制度は悪法であり 命の尊厳と存在意義を無視している。

無実の罪で死刑になるえん罪も絶えないのもそれを証明している。

 

死刑は殺したから殺されるのは当然という命の歴史的原理からきているが

自他一体であるという命の存在意義からは逸脱している

死刑は犯罪を犯した者が再び同じ犯罪を犯さないようにするためのものである。

だが、 殺人者をどんなに死刑にしても 殺人者はけして減ることはないというのも歴史的事実である

殺人犯罪を減らすには死刑制度ではなく

殺人を犯した人が他の殺人を犯さないような力になるか 殺されそうな人を救うかどうかが大事になる

日本の将棋の駒のように 相手も駒をとったら それを味方の駒にできるようなゲームが命のゲームに適応している

つまり 死刑よりも

一人殺したら 一人救わねばならないという法律に替えた方がより自他一体の命の原則にあう

 

いろいろな宗教の最終目的には 神や仏と自分が一体になることであるが

神仏を命の源とすれば 自他が一体となって命が産まれるのだから それは自他一体のことである

神仏との一体や自他一体の姿は悟りのように求めてもけして今生では得られないものではない

すでに 命があるならば そに者はすでに神仏と一体であり、自他一体であり

それは最終目標ではなく 当初の真実なのであり 出発点である。

 

だから

何人も他人を殺せば殺されるか また他人を助けなければならない運命を持つのである。

 

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自分の命を守るにはどんな極悪人でも殺さず、人を救う嘘は大いにつけ

たいそう昔から私は寝て考えるくせがある

寝る前に「問題を頭に入れる」と 翌朝起きると「その解決策が出てくる」!

まるで解決機械のようなものが 睡眠である。

ちなみに 問題が大きすぎて 死にたくなったら

死なずに寝れば解決策がでてくるので 死なない方がよい 死んだら問題をさらに大きくしてしまう。

 

昨夜問題を与えないのに 普段から疑問に思っているせいか答えが出てきた

残虐な事件で 「極悪人が その者をおまえが殺さねばおまえを殺す!」として

次々に被害者が被害者を殺し 悪の連鎖が出てくる。

もしあなたがその被害者であったならば どういう態度に出るだろうか?

 

映画のように

仲間を殺そうとしながら 命じた極悪人を殺すのがスッキリとした答えだが

これは正当防衛の一種にすぎない。

もしそれが失敗したら すぐに殺されるのが落ちである。

 

ではどのように自分の命を守るのか?

 

ガンジーの無抵抗主義には多くの犠牲者が出たが まったく犠牲者がでない方法はないものか?

戦争も極悪政府の殺人命令のようなもので 兵隊は殺される危険が大きいのである。

 

「嘘も方便」という法話がある

映画「雨あがる」で 「何をしたというより 何のためにそれをしたのか それが大事 ぼんくらには解りますまい!」

も同じ意味である。

 

逆らえば殺される命令には 自分の命を守るために大いに嘘をついて従うのが一番である

つまり

中間を殺す命令を快く引き受け 実際はその中間を救ってしまう

命じた極悪人には まんまと逃げられましたとか、 銃が壊れていましたとか嘘をつけばよい。

 

極悪人とはオーム教祖のような いわば被害妄想患者みたいなもので 妄想という嘘で人殺しさせるようなものだ

そうした妄想患者には同じような妄想つまり嘘で応対して 相手をなだめて 自分も相手も極悪人の命さえも守る方法がいいだろう。

 

だが

相手を救う嘘でなく 相手を殺すための嘘だったら 極悪人以上の最悪人であろう。

ともあれ

自分の命を守るには どんな極悪人でも殺さず 人を救う嘘は大いにつけ

である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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