ダイエット道は少欲不足の健康道

ダイエット生活に挑戦していると

「少欲知足」として 少食で満足することが一番のコツだと体験する。

この「少欲知足」は老子やシャカの言葉が原典のようだ

老子道徳経第33章『知人者智 自知者明 勝人有力 自勝者強 知足者富 』

他人を理解できる者を「智」といい、自己を知るものを「明」という。聡明である。
他人に勝つ者を「力」があるといい、自分を克服出来る者を「強」という。真の強者である。
満足を知る者は富む

(続きは)

努力する者を「志」があるという。よりどころを失わない者が永続し、死んでも「道」の精神を保っている人は亡びず、これを真の長寿者という。

釈尊の最期の説法とされる遺教経(ゆいきょうぎょう)

もし諸(もろもろ)の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は、すなわちこれ富楽安穏のところなり。(中略)

不知足の者は富めりといえどもしかも貧し。知足の人は貧しといえどもしかも富めり。

不知足の者は、常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者の憐憫(れんみん)するところとなる。

<意味>さまざまな生活の苦しみから逃れようと思うならば、足ることを知らなければならない。どんなにモノがなくても、結構ですと感謝することが人生の大事なことである。足ることを知り、感謝して喜んで暮らすことができる人が一番富める人である。(中略)

足ることを知らない人は、どんなにお金があっても満足できないので貧しい人である。足ることを知る人は、お金が十分なくても富める人である。

足ることを知らない人は、五欲(食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲)という欲望の奴隷で、その欲望にひきずられて、「まだ足りない」と不満をこぼすので、足ることを知っている者から気の毒な人、憐(あわ)れな人だと思われる。

「少欲知足」というより 「富者知足」の意味だが これをさらに深く追及した人は 唐の時代の代表的な仏教僧である玄奘(げんじょう)である。

「知足」をさらに踏み込んで 「喜足(足るを喜ぶ)」と訳した

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わびさび の美しさを表した竜安寺の石庭は 「知足喜足」の代表格であろう。その写景が四季折々の桜や紅葉は世の移り変わる栄華の姿と対照的である。

「少欲知足」の原典はむしろ英語の諺に近く

The greatest wealth is contentment with a little.

(最も大きな富は少しの物で満足することである)

さらに深めた諺

Man’s happiness lies not so much in wealth as in health

(人の幸せは富よりも健康にある)

ダイエットの目標は健康であり、

健康は、どんな富・どんなに美味しいモノ・どんなに魅惑的なモノよりも価値があり幸せにするモノである

2011年3月11日に起きた東北大震災と原発事故で

それまでの 際限なき成長と進歩をする19世紀以降の世界的流れの大反省が叫ばれている。

GDP国内総生産指標より 幸福度指標を元にした国造りが必要となってきている。

世界一の企業を造った富者スティーブ・ジョブズは

彼の残した言葉「Stay hungry, stay foolish(ハングリーであれ、愚かであれ)」は心に響く
一見このStay hungry, stay foolishの意味は 貪欲であれ 馬鹿であれ になり、
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、
満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。
そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」
— 『功利主義』第二章
簡略されて
「満足した豚より 不満足なソクラテスの方が良い」と知られる
それから展開すると
現在の資本自由主義における成功者スティーブ・ジョブズの言葉
Stay hungry, stay foolishは「不満足な豚になれ」「際限もなく良きものを求めて けして止まることなかれ」
「ちょっとした成功に奢ることなく さらにチャレンジしてもっと大きな目標と成功に向かって生きよ」
というような無限の成長を鼓舞したようにみえる。
だが
Stay hungry, stay foolishの原典はスティーブ・ジョブズが言うように「Whole Earth Catalog(全地球カタロク)」という本の最終号の裏表紙にある言葉であり
高度資本主義社会に背を向けて自給自足を志向する人たちのヒッピー向けの雑誌であり、ヒッピーが目指した「意識の拡大」や「新しいコミューン(=カウンターカルチャーにおいて都市から離脱し自然の中に作った共同生活の場のこと)の開始・維持」に繋がるような情報や商品が多数掲載されたものである。
つまり
Stay hungry, stay foolishは「少欲知足」の意味だったのである。
Stay hungry は「少欲」で 腹いっぱいではなく 腹八分目で満足せよ
stay foolish は「不悟」で、相田みつを の「一生燃焼 一生感動 一生不悟」であり、それが「愚禿であれ」
一生不悟image
スティーブ・ジョブズもまたジョン・スチュアート・ミルが言うように
「満足した豚より 不満足なソクラテスの方が良い」という意味でStay hungry, stay foolishを学生に説いたのだろう。

不悟 という言葉はどうやら道元が書いた正法眼蔵からきたようで

大悟現成たいごげんじょう、不悟至道ふごしどう、
省悟弄悟しょうごろうご、 失悟放行しつごほうぎょう

現代訳

(仏祖の大道は綿々として間断もなく伝えられ、そのすぐれた業績は坦々たんたんとして到るところに顕れている。)

ある時には、大いなる悟りを顕現し、ある時には、悟らずして 道に至り、

ある時には、悟りを省みてこれを拈弄ねんろうし、またある時には、悟りを放却して自在の境地をあそぶ、

(それが仏祖たちの常日頃のならいである。)

悟りに執着しないで自由に悟りや愚かさを楽しめというような内容ではあるが、この一部の「不悟至道(ふごしどう)」が相田みつをの一生不悟による燃焼道であろう。

さらに不悟は不知ともいえるものであり、不知の知として知られる老子が原典にありそうだ。

老子 第七十一章

「知りて知らずとするは上、知らずして知るとするは病なり (第71章)

原文
知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病、以其病病、是以不病。

書き下し文
知りて知らずとするは上、知らずして知るとするは病(へい)なり。それ唯(た)だ病を病とす、ここを以(も)って病(へい)あらず。聖人は病あらず、その病を病とするを以って、ここを以って病あらず。

ごんの意訳だと・・・

死っていて知らないという嘘はまだ許せてかわいい嘘だが、知らないのにさも知っているかのように言う嘘は許せない嘘つきというより 病気である。

本当に健全な人は知っていることを知っていると、知らないことを知らないと正直であり、かつ、嘘つきの本性を見抜くことができるものである。

ダイエットでは自分をだます嘘を自分につくことが多い

腹八分目ではまだハングリーではあるが 十分満足したと思い込ませる。これは知らざるを知っているという病のリバウンドする病になる。

腹八分目でハングリーで まだ不満足であるのに、空元気にもう腹いっぱいという嘘はかわいく人間的である。

賢人は腹八分目はまだハングリーだが、それが健康には最適だと知っている。

つまり

「多欲不知足」は病気 「少欲知足喜足」は文化的人間的だ

聖人は 健康は「少欲不足」であることを知って行うのだろう。

 

 

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人は死して社会に生きる

「減価する」また「腐る」貨幣は腐った貨幣分を社会は新たに発行できるシステムである。

これは生命が生死を繰り返して 存続していく姿を模倣した貨幣システムである。

 

一般的に種の保存は男女が結合し 依存が生まれるということで存続するが

夫婦は社会の最小単位ともいえるものであるが

例え生涯独身を過ごしたとしても その人の魂は後世の人に伝えられるのであるから

個人の死は後世の社会(大きくは人類)に生としてバトンされるともいえる。

 

国や社会は自然を模した人の集合体である。

人は自然の中から生まれ 自然に帰っていくように

人は社会から生まれ、社会に帰っていくともいえる。

 

身体は死んでも魂は生き続けるという。

魂とは心のことであり、心は他者の相手があって始めて生じるものであるから 社会(大きくは世界や自然)の根元また絆でもある。

 

もし死んだら何も無くなると観じるかもしれないが

その人がどんな気持ちで亡くなったかは生き残っている人の誰かに伝わるのだから

身体は死んでも その人の心は社会を形成する細胞の一つとなって生き続けるだけでなく 社会を支えているといえる。

 

人は死して社会に生きるのである!

 

 

 

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自然への共感が奇跡を感じ起こす

ダイエットの目標意識を体重設定値から

毎日の三種の習慣神器である早寝早起き・散歩・小食に大変革することにした。

 

ここ2ヶ月余り断食まがいと欲望まかせの繰り返しで

減量とリバウンドの結果一歩後退してしまい、そんな無駄な苦労の反省したからだ。

 

体重目標値の成功はいわばボーリングのストライクを狙うようなもので

手前の三角点である明日の体重目標値に意識集中させることで

自然にストライクである健康体重目標値に達成できるようにするものだ。

つまり 一年で20キロ減量ではなく 一日で100グラム減量という目標が正しく

断食や激しい運動のような大きな努力ではなく 毎日ちょっと我慢する努力に切り替えることにした。

 

一日一生というように

一日の目標である100g減量と一生の目標である健康な食運動生活習慣が大事であって

一時の体重減量20キロの成功が大事なのではない

断食してすぐに体重20キロ減にしても すぐにリバウンドして以前よりも体重が増加して

ストレスがたまり、自信を失うのは悪循環する無駄な努力ばかりか さらに不健康になる行為だ

目標は最終と最初が大事で 中途目標は他人まかせ自然まかせでいい。

 

今朝久しぶりに散歩して

奇跡は共感!・・かあ?

奇跡は自分では自然だが、他人には奇跡に映る その逆も真なりだ

それはいわば自他の共感があってはじめて 自分も他人もそれが奇跡であると判断できるからだ、

自然と神のイメージがどうも一致しなかったが

それが自他の共感で、ありのままの自然と神の奇跡とが一致することになる。

 

早寝早起き・散歩・小食は野生の生物では自然な習性だが

肥満な自分には奇跡的な習慣である。

つまりそれは

自然への共感が奇跡を感じ起こす! ということだ!

 

 

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叶う夢は努力、叶わない夢は自然

今一番の夢は?

と自問すると・・・

「蒔いた麦の芽が出ること」

と返ってくる。

 

この返答にびっくりした。

もっと本当に求めることや夢はたくさんあるのだが・・・一番の夢が どうして 麦の芽なのか????

それをさらに自問すると・・・・

「他の夢は自分でなんとか努力すればかなうが・・・・、

麦の芽が出る夢は自分が努力してもかなうものではない 麦自身の力で叶うものであるから」

と答える。

 

それは不思議な返答だ?!

「自分自身の夢は自分の中から生まれてくるものではないのか?」

「いや! 自分自身の夢は他の存在から生まれてくる。

他の存在からではなく、自分の心の中から出てくる夢は努力すれば叶う夢で それは努力とも言えるものだ」

「叶う夢は夢ではなく 叶わない夢が夢かあ!」

「そもそも自分とは何か?

自分を自分自身で判断できないではないか!

自分の姿は鏡を見ないと見えないように! 自分の夢は他が判断し決める!」

「自分の死もそう言えるかもしれない」

「自分の死は自分自身では判断し 確かめることはできない

自分の死を判断し 決めるのは他人であり 他者である。・・・自分の夢だって そう言えるはずだ」

「自分自身の夢を他者が決めるならば それは何だと言えるのか?」

「それは自然・・・自ずから出てきた欲求つまり夢の姿といえる」

「その自ずからという自然は 麦の存在であり 麦の生命の姿ということか」

「人が物事を為すことは努力することだ。その努力の後に夢が生まれる・・・

畑を耕し 今年収穫した麦種を蒔くとは努力であり、その蒔いた麦が育ち芽を出すのは麦の命の存在であり、その姿が自分自身の夢になる」

「叶う夢は努力で 叶わない夢は自然ということかあ!・・・・・!」

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欲望と信念はその存在から産まれる

ダイエットに挑戦して7ヶ月

目標の20キロ減にもう一歩のところで 二度も2キロ以上リバウンド

自分の薄弱な意志に愛想が尽きて 一体どうして食べ物の誘惑に弱いのだろうか?と考えた。

 

自分の欲望の正体が本当の自分ではない!と気づいた。

それを食べたいという欲望が起きるとき そこに食べたいものが豊富にある時だ

もしそこの食べたいものがなかったら そんな欲望は起きない。

 

「なぜ山に登るのですか?」という質問に有名な返答がある

「そこに山が在るから!」

これはまさに「その山に登りたい」という欲望の本質が「その山の存在」から産まれるということを示している。

 

私は三度も ある宗教的な教義への盲信で 大きく人生の失敗した経歴があるが

これらの教義は信徒以外においては 教祖の洗脳にあたるもので真実ではなく迷信だった。

そうした盲信した宗教からなんとか苦労して脱却して思うのだが

「いったいどうして そんな迷信を信じてしまったのか?」

私自身それが教祖の洗脳であるとは当時気が付かず 自分から進んで信じていったと思っていた。

迷信が本当の真実だということを信じたのは その教義に惚れ込んでしまい 天国に入る夢をみたからであった。

 

盲信する以前から「宗教はアヘンである」ということは知っていたが

それでも「それは宗教ではない」ということから「盲信」し、知らず知らずその「心的依存症」になってしまった。

教義を実践してもその通りにはけしてならなかったり、教祖がスキャンダルなことをして 始めて目が覚めることができた。

 

もしそうした教祖や教義が存在しなかったら そんな盲信もしなかっただろう。

盲信も依存症も同じ本質であり

それは他から来る刺激から条件反射のような同じ欲望が起きるものであって

けして その欲望は自分自身の中から出てきたものではないことだ。

つまり

ダイエットしようとする本当の自分自身の欲求と美味しい食べ物が目の前にあって生じる自分の欲求が正反対になり

その矛盾という葛藤に苦しめられるのはそのためだ。

 

存症になりやすい 酒煙草ギャンブル宗教肥満は本質的に類似しているので

その依存症から脱出する方法も類似してくるのである。

 

その存在が誘発して欲望が産まれるという真実は

依存症になることも その依存症からの脱却にも応用できるものである。

私が宗教から脱却できたのは教義を信じるのではなく 事実を信じたからである。

裁判でも 「論より証拠」で決着がつくように どんな迷いも争い毎も 「事実に勝るものはない」

宗教は事実ではない存在を信じるために起きた現象である。

その神仏が存在しないのに存在していると思いこんだために起きた欲望が信仰である。

その存在がその欲望を生むという現象は 偽りの存在でもその欲望を生み出す。

その場合、

本当の自分の欲望はその事実から産まれ、偽の自分の欲望は偽の事実から産まれる!

これはダイエットで

目の前の美味しいモノを食べたいという欲求は それが偽の美味しいモノから産まれたものであり、

美味しいモノは実は後で胃酸過多になったり 脂肪として蓄積されメタボに変化するものであるのが事実であり

けして本当にそれが常に美味しいモノではないものである。

 

依存症になりやすいものは最初だけが天国だが あとで地獄になるものがほとんどである。

こうした依存症もまた事実であるなら その現象を利用して 本当に自分が欲するものを実現する技術も生み出すこともできる。

信じるなら 事実だけに絞り 事実以外は信じないことである。

また欲望や夢の内容も事実や自然にあったものを選んで実現しようとすることである。

 

ピンチはチャンスになるように

盲信してしまった技術は真実を実現する技術にも応用できるもので

祈りの生活が自分の人生を一変できるように

事実に即した夢への祈りの生活もまた実現する大きな力と支えになってくるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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