投票制度改革からチャレンジ

夢には二種あって。自分の夢と世界の夢である。若い時は自分の夢にチャレンジすることが望ましいが、老いた時は老い先が短く、その先の夢は死後になってしまう。死後に叶えられるのは世界の夢である。

自分が為したいことで、自分に関することは後回しになり、それは雑務になる。世界に関することはいわば急務のような生きている時にしかやれない事である。

細川&小泉氏のように、私も残った人生を脱原発にかけたい気持ちで一杯である。原発事故を二度と起こさないこと、もうこれ以上の放射性ゴミを増やさないことが後世の人の命を守るため、自分が生きているときにできることである。原発を再稼働させないで、国を脱原発して自然エネルギーへの転換をさせることである。それさえできれば、後世の人が10万年も危険な放射性ゴミを無害化また安全保管できるように引き継がれるであろう。

ただ都知事選で細川氏を応援してそれが破れた時に、巨大な壁があって、それが政治の根本である選挙の投票制度にあると思えたのである。細川氏の街頭演説に集まる聴衆は数千に対して、都知事になった桝添は閑古鳥が鳴く聴衆だったのにもかかわらず、投票数は半分にも及ばなかったことはどうみてもおかしい。しかも、未来の子供たちを守るための大事な選挙だというのに、その投票率が46%という低さであった。偏向したマスコミ報道と国民の危機感のなさにも問題があったが、投票制度そのものを変革することがまず必要だと判断する。

世界を変えるにはまず政治を変えねばならない。政治を変えるにはまず投票制度を変えねばならない。

世界を動かすのは各国政府と国連である。世界から核と原発を無くすには政府を変えることであり、それにはまず投票制度を変える必要があるということだ。もし、正常な投票が行われているならば、原発デモなんか必要ないはずである。アルカイダが投票すれば殺すという恐喝なんかしないだろうし、反政府デモで死者がたくさんでて、ウクライナ政府が変わるようなこともないだろう。

ウクライナデモ

たくさんの世論調査があるが、それがそのまま国政に反映されることはなく、むしろ反対に動くことが多いのは投票制度に問題があるといえるだろう。さまざまな法案があるが、それは多数与党で決められたものだけが通るということはおかしいであろう。今各家庭にテレビや電話やパソコンがある時代に、それぞれの法案を世論調査するごとく、国民投票だって、手軽にできるはずであるのに、どうしてそうしないのだろうか。

そもそも立法・行政・司法の三権分立がまともに機能しているだろうか?また、政治をこうした三権で分類していいのだろうか?裁判官を投票する際に、その氏名を書くのではなく、白紙か、バッテンをつけるかというのはおかしくないだろうか?もし、司法と立法が同権であれば、議員の投票も白紙かバッテンでいいとようにならねばおかしいではないか。

それに行政も同権であれば、どうして公務員全員を投票しないのか? 公務員になりたい人はみな国民の税金で食べていけるのだから、国民の審判にまず受ける必要があるのではないか。それが行われないから、酒飲み運転の公務員が出てくるのではないか。

投票とは自分の命と生活をその人に一任することである。それは自分の命の重みと同じほどの重みがあるのに、どうして、偽札が難しい精巧な紙幣のようでなく、いくらでもコピーしてもわからない紙切れなのか、そして、どうして手書きなのか? 手書きするために、一枚でも無効票が出ることは不正選挙であるといえないか?

命を守る道路交通法に違反すると、罰金または牢獄されるが、もっと大事な命を守る投票に行かないと、罰金また牢獄されないのはどうしてか? もし、道路交通法違反のように、投票に行かなかった場合は駐車違反並の7000円の罰金をかせれば、まず投票率は100%であっただろう。投票者がいないとしたら、棄権ということなら、投票用紙に棄権と記入することだってできるはずだ。

細川都知事選がもし投票率100%だったら、都民は街頭演説にネットもかねて積極的に聴きにいっただろう。それで、圧倒的に閑古鳥の桝添には勝てたはずである。

貨幣改革を減価する自然経済学から発案したように、政治改革を国民の意向をそのままくみ上げるような投票制度から発案したいと思う。

 

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To do first is to be,To do last is to be.

To be is to do.という言葉を知ったのは

”64歳でキューバからフロリダまで177キロを泳ぎ切ったダイアナ・ナイアドがTEDの: 夢は決してあきらめるな”でした。

彼女が泳ぎ切った時に3つの成功のコツを話した。
その前置きが、
We did, not I did.” 私の成功ではなく、我々の成功でした”と、to do を成功の意味で使ったのです。

1 Never give up. 夢はけして諦めるな
2 夢を追いかけるのに 何歳になっても遅くはない
3 一日一日を夢の実現に向かって勇敢に進んでいこう

その1 の夢をけして諦めるな!で語られた言葉が
to be is to do. 存在は行動なり。
ダイアナはソクラテスの言葉?だと言ったので、調べてみましたら、
“To be is to do” (Kant)
“To do is to be” (Sartre)
“Do be do be do” (Sinatra)・・はつい笑ってしまいました。哲学は歌や漫才にするといつも笑いになるかも。

マルセ太郎にとって、to be は自己存在、オンリーワンの自信であり、

ダイアナ・ナイアドにとって、to do は夢の実現に向かうこと、成功である。

私のこのブログは”生きているということ” であり、ハムレットと同じ、まさに”To be” ”生きるべきか?大阪弁の”やったろうか?”なのだ。

関西人のように、to be と to do は区別できない同じ意味で使える。あえて、区別するなら、to be は静的禅であり、to doは動的禅であり、目的の悟りは一つということになる。

”今生きているということ それは・・” は谷川俊太郎の有名な詩である。その内容は 事物をそのまま受け入れるような ” To be “である。そして、老子思想の”道”に通じることであり、”あるがまま” ”なんくるないさ” ”自分らしく””自然に” の心を表している。それはダイアナ・ナイアドが泳ぐとき、何度も歌ったジョンレノンのイマジンにおける Living for today  今生きているということの英訳そのままでもある。

” To be “は天国も地獄もなく、宗教や国の違いもない自然の状態をそのまま受け入れることであるが、 To do “はまさに人為的なものであり、そこに夢と現実の矛盾、成功と失敗、生老病死、天国と地獄、戦争と平和と喜怒哀楽様々な姿が映し出される。けして、 To be is to do. To do is to be なんてありえないものと思える。むしろ、自然とは無人為であり、 ”To be is not to do.” ”To be is  to do nothing” (何もしないことで自然にまかせること。無為自然)であることの方が正しいのではないか?

天国も地獄も、神も仏も餓鬼畜生も、みな人間が作り出したものである。国の政治や国連そして貨幣も原爆原発も、みな人間が作り出したものである。

ダイアナ・ナイアドには失礼かもしれないが、キューバからフロリダを泳いで渡ったところで、人類にとっては成功かもしれないが、地球にとってどれほどの成功だといえるだろうか? クジラやイルカでもできることではないか。

しかし、ダイアナ・ナイアドのなした成功は人類にとってまぎれもなく価値があり、感動と勇気を与えてくれたことである。もちろん、クジラは何も賞賛はしてくれないけれどね。

青年のころ、世界を知るにはまず自分を知れ! という言葉を信じた。自分とは何か?何か?何か?・・と 般若心経を唱えるように、自分は身体でもなく、感覚でもなく、心でもなく、また意識でもなく・・・自分とは何か? 否定できない自分に行きつくことができるのが なんていうことはない。仏教の元になったヒンズー教の根本的な教え「梵我一如(ぼんがいちにょ)」であり、梵は宇宙・神・仏であり、我は本当の自分のことであるから、「本当の自分は神仏なり」ということに落ち着き、それが解脱であり、悟りになる。

これはキリスト教における最初の信心「神を信ずれば救われる」と同じで、ヒンズー教仏教の最初の信心「仏我一如」(仏を求め極めれば悟り救われる)に最後も行き着くことになるだけで、最初に設定したところに最後も行き着く、それは幸せの青い鳥を求めて旅立ったら、その青い鳥は出発地の家にいたということでもある。

老年になって、自分をある程度知ったところで、自分は確かに変わったかもしれないが、世界はなにも変わらないことに気づいた。自分の悟りも世間にとっては自己満足とさほど代わりがない。私が東京でのリフォームも、大雪で壊れたビニールハウスの撤去も、この自己満足の仕事にすぎない。それをしたからといって、世界に何も働きかけるものではなし、人のためになることでもない。まったくの自分だけの道楽にすぎない。

人にまた後世の人に役立つようなことをするには、なにかしらの小さな親切をすることであり、特に後世の人の命を左右するような政治に対しての自分ができる行為をすることではないだろうか。

宗教的なことを求めた昔の自分から、生活に密着した貨幣や政治について学んでいこうとする自分がいる。原発と被爆を学んで、即脱原発の必要性を知って、それを実現すべく加勢して失敗したとしても、そこに価値や生き甲斐があるように思えるのである。

つまり、” To do “は”To do first&last” が肝心であり、その結果成功しようが失敗しようが 問題ではない。信じたこと、夢見たことに向かって挑戦することがすべてである。

なお、ダイアナ・ナイアドが3の日々夢の挑戦を!という説明をするときに、「森の生活―ウォールデン」を書いたヘンリー デビッド ソローの言葉を引用したが、彼女の言った意味とは少々異なっている。

自分の心に描く夢の現実に向かって努力する時、ふだんなら思いもよらぬ、成功が得られる。
空中に楼閣を建てても無駄骨には終わらない。楼閣は空中に建てるものだ。
さあ、その下に土台を建てよう

明日はどうなるか 誰も予想もつかないことが起こるものだ。

最近世界のあちらこちらで、想定外 まさか のことが毎日のように起きているではないか。

それが悲しむべき災害であったり、嬉しきことの奇跡であったりするが、みな思いもよらぬ出来事である。

そうした出来事は最初の第一歩にあり、それが行為の土台であり、” To be ” なのである。

To do first is to be という夢への挑戦であり、

To do last is to be ・・・なるようになるさ なんくるないさあ

である。”To do first&last is to be always”

夢の結果がどうであれ、それに挑むことが自然なんだ。

それが人間であり、他の動物だってそうなんだ。

たとえ明日世界が滅亡しようとも、私は今日、リンゴの木を植える(マルティン・ルター)の格言のように、

たとえ明日世界が滅びようと、自分が信じた夢に向かって挑もうではないか!

To do first is to be,To do last is to be.

夢に向かって挑めばなんとかなるさあ!

 

 

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Be動詞への自信を持て_マルセ太郎

To be, or not to be: That is the question.生きるべきか?死ぬべきか?それが問題だ!

を説明する上でどうしても欠かせないのが、マルセ太郎氏の「Be動詞への自信を持て」という講演です。世界で一つだけの花という歌にもあるように、ナンバーワンにならなくていいい、オンリーワンになろう!五輪メダル獲得競争のような他人との比較からくる優劣される自分の存在ではなく、金子みすずのように「みんな違ってみんないい」とする自分なりの生き方を自己存在であると、ユーモアと簡潔な語り口ですーと心に入る。

Be動詞への自信を持て 中津川市 阿木中学校にて

マルセ太郎(週間「金曜日」1996年7月19日)

この文章は「マルセ太郎中毒の会」で発表されています

be動詞への自信を持て

僕は1933年生まれですから、中学生になったのは敗戦の翌年でした。生まれ育ったのは大阪です。戦争による焼け跡の中、食べ物に不自由していた頃でしたが、それでも中学生になった喜びがありました。電車で通学するため、定期券を持つのがえらく嬉しかったのを覚えています。

科目別に先生が変わることや、小学校ではクラスを、一組、二組と言っていたのが、A組、B組という、つまらないことまで、何か未知の世界が世界が広がっていくように思えたものです。中でも英語が習えることに、わくわくする期待感がありました。しかしこの期待感はすぐに挫折しました。やはり難しかったのです。

 

be動詞への自信を持て2僕らは単純に、英語の単語さえ覚えれば、それをそのまま日本語とおきかえて、英語ができるものと思いこんでいたのです。君たちもそうでしたか。

ところが知っての通り、そうはいきません。主語が変わると、アムとか、アーとか、イズという、つまり「Be動詞」が変化することや、他にもややこしいことが多くでてきます。どうして、アムならアムだけで統一しないのか。僕たちを”勉強”させるため、わざと面倒にしているのではないかと思ったほどです。

Be動詞というのは何なのでしょう。僕らは英文のamの下に、「デス」と仮名をふって日本語に訳していました。今でも「デス」と教えられているのですか。大人になってから考えました。あれを「デス」と教えてはいけないのです。大切なことは、Be動詞を、日本語にはないのだということを、まず教えるべきです。

ではBe動詞とは何か。「存在」なのです。アイアム。私は存在している、ということです。

有名なシェイクスピアの劇、「ハムレット」に出てくる台詞があります。

“To be or not to be” 生きるべきか、死ぬべきか。

“to be”で、生きることを意味しています。つまり存在することが生きることなのです。

話しを急転回します。

よくみなさんは、自信をもて、と教えられていませんか。ことにスポーツの世界では、指導者たちが、自信ということを強調します。先生も親も、上に立つ人は、何かというと自信をもてとあおります。もしかしてみなさんも、自信をもつことが正しいものと、受け入れているのではありませんか。

自信て何でしょう。僕は嫌いです。むしろ害悪だとさえ思っています。なぜなら、それは他と比較する上で成り立っているからです。彼には負けない自信がある。この中では一番になる自信があるとか、すべて競争の論理で成り立っています。こういう自信は、他を差別する優越感にひたり、また逆に、理由のない劣等感に落ちこんだりするのが常です。

それでは自信は必要ないのか。そんなことはありません。生きるため大いに必要なことです。そこで言いたいことは、「Be動詞」への自信をもつということです。

アイアム。アムヘの自信です。私は存在しているのだ、ということの自信です。

ユーアー。あなたは存在している。

ヒーイズ。彼は存在している。ここに優劣の比較はありません。

負けない自信なんて、くそ食らえです。

フランス映画『仕立屋の恋』の中で、アパート中の住人から嫌われている主人公に、刑事が訊きます。

「お前はなんだって、みんなから嫌われているんだ」主人公は答えます。

「わたしも、あの人たちが嫌いです。」

これがBe動詞への自信です。

Be like You?!

To be or not to be?
I am
You are
She is
He is
It is
We are
They are
We all live to be together!

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To be, or not to be : that is the question.

ハムレット日本上陸

明治7年ハムレットが日本に初めて紹介された時はワーグマン発行のこの諷刺マンガ誌であった。

“To be, or not to be : that is the question.”

アリマス、アリマセン、アレ ワ ナンデスカ: モシ、モット ダイジョウブ アタマ ナカ、イタイ アリマス」、そして最後の締めは「アナタ サヨナラ、 ソシテ テ ポンポン」といったなんとも珍妙な翻訳であった。

矢田部良吉・・・・ながらふべきか、しかしまた、ながらふべきにあらざるか これが試案のしどころぞ

坪内逍遥・・・・・世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ

久米正雄・・・・・生か死か、それが問題だ

福田恆存・・・・・生か、死か、それが疑問だ

河合祥一郎・・・生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ

小田島雄志・・・このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ

松岡和子・・・・生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ

現在もっとも名訳とされているのが・・

河合祥一郎訳・・生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ 

であるが、これをさらに大阪弁で訳したのには舌を巻いた

ha2ga2o8 やったろか~↗、あかんか~↘、ほな~、どないしょ~↗

どうもこの関西弁訳をしたのはソクラテスの弁明 を関西弁訳した 北口裕康 ではないかと想像するが? はて?

とまあ・・to be is to do を探っていく前置きto be, or not to be がこんなに長くなってしまった。

 

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浅田真央が指し示した世界とは・・

細川&小泉の即脱原発し自然と共に生きる日本から世界を変える兆しは、電子マネーとベーシックマネーによる分かち合う貨幣世界に、そして五輪は金メダル獲得競争する国の虚栄心の政治の場から、浅田真央が「バンクーバーもソチも最高の場だった」と答えたように最高のスポーツマンシップの場に変革させていくだろう!

細川都知事選は3位、浅田真央はソチ五輪は6位だった

しかし、選挙史上 五輪史上 それまでの都知事の椅子や金メダルの獲得競争する世界から、政治のリーダーシップは、国民の希望の行き先を示すことであり、五輪選手のスポーツマンシップは金メダルの取り合いではなく それまでの努力の発表の最高の場であることという世界変革の1ページだった。

中国韓国による過去の日本の侵略戦争犯罪を執拗に憎む反日政策は、領土問題にまで発展し、それが再び戦争を起こす気配がある。

しかし 小泉氏が応援演説で、中国韓国の精神に深く根付いた孔子の論語の「過ちを改めざる、それ誤ちである」を引用して、「過ちを改めるにはばかることなかれ」と、自分が首相の時 原発推進であった過ちを反省して、脱原発に老いてもなお改める行動にでた。

この反省は過去の戦争を推進することを改め、平和を進める行動に出ることに通じる。そのために、日本の格言にあるように、

人を憎まず、その罪を憎め!

国民を憎まず、その罪を憎め! でもある。

それは 他国民を憎まず、その戦争行為を憎め! ということでもある。

この反省こそ 戦争放棄を宣言した日本が誇る平和憲法の精神であり、日本が世界に示すことができるリーダーシップであろう!

リーマンショックから世界は金融恐慌に陥った。それは基軸通貨である米ドルの紙くず化に発展しかねない状勢である。その中央銀行制度に革命を挑んだのは電子マネーであるビットコインである。しかし、法に守られない通貨であり、株式と同じマネーゲームであることで、犯罪に利用されやすく、低所得者にとって、百害あって一利なしである。

ビットコインのような電子マネーをベーシックマネーのような分かち合う貨幣システムに法制化する兆しの一歩前の闘争のような歴史的な出来事である。

今までの貨幣は五輪のように、金メダル獲得競争であり、いわば金儲けオリンピックであった。しかし、浅田真央がこれからのオリンピックの明日を 一人一人の五輪選手が目指すものが金メダル以上のスポーツマンシップであると示したように、貨幣は世界中の人間が地球に生きる糧であり、努力を分かち合う場であると認められていくだろう!

 

 

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