必要は自分の健康と社会の健全化の源

大雪でビニールハウスが壊れて、元も畑にもどしてみると、その方が美しく、手間もかからず、作物も多く育つように思えた。

原発だってそうだろう。原発を作らなければ、事故は起こらず、放射性廃棄物の管理も捨て場所を探すことも、その危険性もなかった。福島の先祖代々の土地を捨てることもなかった。金も命も大地もみな捨てるような人類の自殺行為にすぎない。

煙草だって、もし最初から煙草を吸うことをしなければ、煙草をやめたくれもやめられない苦しみにあうこともない。金と心配と健康を捨てるようなわざわざ病気になるようなものだ。

金儲けだって、食べ物だって、自分が必要なだけ得て、それ以上は持たないようにすれば、無理して働くことも、それでよけいな心配も、苦しみも、病気にもならなかっただろう。

自分しかできないことをするのが、自分らしく過ごすことであり、一番気楽であり、人に役立つことであろう。他人にとって代わることができないのが、自分の命であり、健康である。ダイエットもまた、他人が代わってできるものではないので、自分しかできないことだ。

そもそも自分というのは肉体とその肉体を元にした心のことである。だから、自分しかできないことというのは肉体的なことであり、社会や人類のためというようなものではない。脱原発は日本や世界のためで、自分しかできないことではない。今の自分が脱原発でできるとしたら、投票以外に ダイエットではないだろうか。必要以上の食事や運動はしないことが自分の健康を保てるように、社会も、必要以上の電気も作ることもしなくなるだろう。

今までずいぶん宗教的なことを信じてきて、それに悩まされ続けた。もし、そんな宗教を信じなければ、そんな苦しみに遭うこともなかった。宗教は麻薬といわれるように、神仏という精神的存在への依存症になる。神仏なくして暮らせない生活になってしまう。

必要以上は何もしないことが、一番自然な行為であり、健全で安全な暮らしができそうである。

今の田舎に引っ越してきて、近所の8人の隣人組に入って3年たち、何かと河川清掃とか呼ばれ、私は東京に仕事が多く、また、子供の世話でなかなか行けないし、朝が早いので寝坊してしまったり、その期日をすぐに忘れてしまうことで、参加ができず、迷惑をかけてしまうことで悩みが多くなっていた。もっとも困ることは組長順番性で強制的にされるので、参加もできない自分にとっては悩みの種だった。

そもそも、河川清掃する河川は私の家のそばにはないし、葬式の手伝いといっても、知らない老人のためにする。自分には全く無縁なことである。唯一毎月に組長から配られる市の広報誌や回覧板はなにも組長がしなくても、市が郵送すればすむことだし、それに、ネットでいつでもその内容は知ることはできる。必要のない瓦版や広報誌の配布は組長の手間を増やすだけのことである。

年に一回新年会があるが、それが唯一近所のつきあいの楽しみではあるが、それだって、なにも組に入らなくても、個人的に好きな隣人とつきあえばもっと楽しいし、儀礼的なつきないでなく、友好的なつきあいができる。結局、その新年会でつまらぬけんかになり、私は退会できるようになった。

必要以上のつきあいをしないことも、悩まされることもない自分で、社会の健全化であろう。

必要は発明の母というが、必要は自分の健康と社会の健全化の源ともいえるだろう。

 

 

 

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ちょっと我慢するのが丁度いい

今年の願いが脱原発だったが、即脱原発の細川都知事選を自分なりに最大限応援したが破れたことの無力感は大きい。また、脱原発運動を妨げる要因が同じ脱原発運動家にもあったことで、それが二分された後遺症も大きい。

脱原発は自分がどう頑張っても実現できるものではないことを痛感し、今年の目標を変更し、「自分しかできないこと」の中から選ぶことにした。しかも、それが努力すれば可能である内容に絞ることにした。

それが何度も失敗したダイエットを成功させることが、今までやってきたこと、今やっていることの延長上には具体的にピッタリと符合する。

自然循環を目指してきて、自然に食べ物が毎年できるようにする挑戦に、食べ物を必要以上に食べないことで健康を保つことも同時に必要であるからだ。

人間はより多くの豊かさを求めて、例えば魚を捕れるだけ取って、お金を得ようとすることは魚を全滅させ、そして自分たち人間の食料も枯渇してしまうことがある。それは魚の再生を妨げることがないように、常に人類が必要な魚の一定量を確保するには、収穫量を制限しなくてはならない。

原発のウランも再生はできないし、核ゴミも安全化もできないので、それは人類の全滅させるのは明らかだ。ダイエットもまた、食べ過ぎで病気になるし、必要だけの食べ物で満足することが、健康でもあり、社会的にも、個々人の食べ物の豊かさよりも、全体に食べ物を分け与えていく楽しさの方がより平和的である。

飢餓撲滅はとてもできないが、ダイエットならば自分でもできるし、自分しかできないことでもある。それは自分の健康にとっても、社会の平和と健全化や楽しさにとっても、有効な力になれる。

経済企画庁前で、脱原発ハンガーストライキがあり、それを真似て私も10日ばかりハンストをしたが、リバウンドして、元の黙阿弥になり、脱原発も後退し、推進に政府は動き出した。

小食よりも断食の方が実は簡単で楽である。それは禁煙でもそうだ。断食で問題なのは断食後の小食をキープすることが難しいことである。それは楽な断食よりも、最初から難しい小食に挑戦した方がリバウンドしない小食を快感にする習慣ができることを意味している。

断食は運動しないことが多く、筋肉までも減らしてしまうため、断食後筋肉を使い出すとさらに食欲が強くなるので、小食よりももっと辛いストレスがたまることになり、実際、私はジンマシンに苛まれ、それが治るまで一年近く必要だった。過度のストレスは食べ過ぎのように病気の主原因になる。

適度な運動が気持ちがいいように、適度なストレスは健康にはいいようだ。

ダイエットは自分への小さな親切運動ともいえるだろう。「ちょっとの我慢をして、自分にも、社会にも貢献しよう」というモットーが一番快適なダイエット方のように思える。

無理なダイエットというのは過度の努力であり、自然なダイエットとは適度な努力ということであり、それが持続可能な自分の健康と社会貢献であろう。

昔、丁度よいという法話に感銘を受けた。それをもっと実践しやすい言葉にするなら、「ちょっと我慢するのが丁度いい」であろう。

 

 

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残りの命をどう使うか?

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「残りの命をどう使うか?」という問題は何も老人に限って考えることでもない。病気の人はもちろん、若くて健康な人だっていつかは死ぬことは確実なので、「残りの命をどう使うか?」を考えてもおかしくない。

残りの命を使うのは「自分」なので、自分のできることが制約になる。次の制約は命のタイムリミットである。三番目の制約が社会的条件であろう。

社会を脱原発に進めたいという希望があっても、それを実現できるのは政治家であり、政治家を動かすことができる者である。老人となった自分ができることは政治家を選択し、投票することだけである。また、脱原発デモに参加したり、再生エネルギーや省エネを家庭で進めることであろう。

つまり、そう大して自分ができることは少ないのだ。

そこで、「残りの命をどう使うか?」で最も大事なことは、「自分しかできないこと!」を選択してやることだ。それは「自分が今までやってきたこと!の成果や反省をどう生かして残すか?」ということだ。

残念ながら、脱原発については3.11以前にはあまり何もしていなかった。そのため、自分しかできないことはわずかだ。でも、再生エネルギーのような自然循環については理論的にずっとやってきた。そこで生かせることは脱原発運動よりも大きいはずである。

「今やっていること!」にも、自然農法の研究みたいなことなので、エネルギーというより、食べ物の自然循環を目指している。

となれば、「自分しかできないこと」は、「自分がやってきたこと」「自分が今やっていること」の延長線にある「残りの命で何をすべきか?」があるってことだ。

 

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ヤマナシコインYC

ー前書きー

ビットコインの弱点がサイバー攻撃にあった。そのため取引所が破産する状況である

仮想通貨三位のオーロラコインが3月25日にアイスランド国民全員33万人に空中投下するに当たって、代替え通貨としての発展を期待して、さらに都道府県通貨が代替え円になれるような案を出してみた。

通貨は国体の血液で国民全員に巡って始めて健全となる。
通貨は国民全体に均等に分配(ベイシックインカム)し、それで商品やサービスの交換される。
そして、その価格は需要と供給によって自由競札される。そして、より強い者が勝ち、経済格差がふくらむ。しかし、その自由市場を支えているのは、麻雀のように、まずリセットして参加者全員に平等の貨幣を配ってから始まる。ゲーム終了の時はオリンピックのように勝敗ランクがされる。

通貨もまたベイシックインカムとして自由市場に均等に配布されて始まる。月始めに均等に配布され、それが自由取引によって月の終わりにランク(格差)が生まれる。その繰り返しによって、人々はスポーツのようにマネーゲームを楽しむことができ、景気も技術も活気づく。

通貨の発行は国民の総生産(商品やサービス量)にあっただけの発行額が安定的な価格を維持することができる。そして、一定した発行額を循環させるためには、税による回収と一体でなければ循環しない。

また、通貨の発行回収だけでなく、その管理もまた必要である。

各国通貨はいわば世界通貨の地域通貨のようなものであるから、もし、日本円に代わる通貨改革をするためには、各都道府県における条令で発行管理回収できる県通貨を電子マネーで発行すればよい。

貨幣の原資が何かによって、それがどういう結末になるかも決まってくる。中央銀行もビットコインも、最初の原資(発行高)はただのような紙であり、電子であり、数字であるが、今また将来必要になるであろう商品やサービス予測に対応した数字でもある。

そして、再度通貨発行の原資は中央銀行では国債を買い取ることであり、ビットコインの原資は各国通貨為替(各国株)である。

それを踏まえて、オーロラコインに代わる県電子通貨案を出してみる。

ーヤマナシコイン (YC)ー

私が住む山梨県民は現在86万人である。アイスランド国民の2.6倍で、まず日本円に代わる地域通貨としてはちょうどいい規模の通貨実験ができる大きさである。

山梨県通貨を電子通貨のように、ヤマナシコインとして、それをYCと略しておく。

1,最初の発行総額は毎月県民の最低生活費の配給額とそれを発給管理回収する流通手数料の一年分とする。

県民一人月最低生活費10万円とその発給管理回収費4万円として、86万人分を 1204億円=1204YC毎月発行し、その年総額1兆4448億円=1兆4448億YCとする。

2.毎月始め配給とし、毎年回収(米の生産に準ずる)。
年回収方法は貯蓄税年率100%、月率100/12%(8.3%)とし、地元の山梨中央銀行のオンラインで、配給回収を行う。
この配給と貯蓄税は山梨県住民のみ適応され、山梨県住民以外の日本国民また諸外国人には適応されない。

翌年の配給額はヤマナシコインの円為替の価格で、10万円相当のヤマナシコインが配給される。税率は年周期で変わらない。

3,ヤマナシコインはビットコインと同じく、国際通貨ドル円為替に準ずる為替に対応し、日本円との売買変動相場で決められる。そのレートで、諸通貨と交換できる。その為替手数料は1%であり、その取引売買は山梨中央銀行オンラインで、電信取引される。

そのヤマナシコインの入金出金は山梨中銀ネットバイキングまたキャッシュカードでできる。
山梨中央銀行はビザと、手数料0.1%で提携し、そのクレジットカードで世界中の商品が買え、また現金化また、ヤマナシコインを買うこともできるようにする

4.もし、山梨県民が貯蓄税の自動徴収を嫌って、ほとんど円や外貨と交換した場合はどうなるか?

翌年以降は納税分とベイシックインカム分が等しくなるように設定してあるが、もし、貯蓄税がベイシックインカム分よりも少なかった場合は、その分はヤマナシコインの売買手数料1%のうちから、0.5%分の金融取引税を山梨中央銀行から徴収するので、それで補充することが可能である

基本的に、貯蓄税と金融取引税はセットであり、貯蓄税は日割り計算で銀行預金から自動引き落としされる。年100%の貯蓄税は、日0.27%であり、10万円のヤマナシコインの貯蓄税は日270円になる。貯蓄税を払うのを嫌ってすぐにヤマナシコイン10万円を売れば、0.5%の金融取引税500円徴収される。

通貨の特性には、自由市場のゲーム性と富の平等分配の両方あり、それをうまく楽しく循環させることが必要であろう。

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原発さえなければ・・洋上再生可能エネルギー基地へ

洋上再生可能エネルギー基地

レンズ風車・洋上ファーム:大屋裕二教授 投稿者 Kotaro_Hatsuzawa

風レンズの原理は怒りから出来たあのプロペラのない扇風機で発電するようなものである

プロペラのない扇風機

小さな電力で気流を起こし、大きな風を引き起こす原理を逆にすれば、大きな風力で小さな電力しか起きない。しかし、小さな風を大きな風に起こしたその風で発電すれば大きな電力を生み出す。

この洋上再生可能エネルギー基地はさらに進化して、送電線は使わず、発電した電力で海水を電気分解して”水素”をつくり、それを船で陸上に運ぶ。後は水素発電や燃料電池に使う。風車、浮体などに使用する新素材SCFの耐用年数はなんと100年以上…! これにより大幅なコストダウンが可能となる。

この開発ができたのはちょうど福島原発事故が起きた2011.03.11の時もであった。ダイソンが発案したプロペラのない扇風機はニーズの怒りからだった。

「原発さえなければ・・・」と命を絶った牧場主の怒りが、こうした洋上再生可能エネルギー基地で、原発がいらない日本を築き上げるように思えるのである。

 

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