ダイエットストライキの勧め

ダイエットが今の現代文明の病を克服する基本になると思える。
3年前、脱原発を訴え 若者4人が経企庁前でハンストを10日間した。それは単に脱原発デモを10日間するよりは効果があったように思える。

私も彼らに合わせて10日間断食したが、その目的は脱原発というより、ダイエットが目的だった。しかし、その後一月余りでリバウンドして元の体重までもどってしまった。若者がハンストし、またその後継続した脱原発デモが行われていても、リバウンドと同じで、原発を主電源にするというような逆効果になってきている。

ハンガーストライキの元祖はガンジーだと思う。ガンジーは非暴力不服従で独立運動をしたが、その運動に参加した民衆の多くに死者が出た。ガンジーがハンストをしたのは、独立の際、ヒンズー教とイスラム教の宗教的対立による暴力を止める手段だった。その結果暴力は収まって、外に出たときに、自分が殺されてしまった。そして、インドはガンジーが望まないイスラム教のパキスタンとヒンズーのインドに分裂して独立した。

ハンストは人々の心を動かすが、100%暴力には抵抗できないところがある。ハンストの究極的な目的は「目的が叶うまで絶食することだ。いわば、自分の死をもって抗議をするようなものだ。命がけの御願いということで、相手は心を動かす力が大きい。しかし、その目的がその人の命以上の大きなことであると思われたら、効果は期待できない。

実はハンストは自分に対する暴力であるともいえる。相手に対しての非暴力不服従を貫くならば、それは自分に対しても、同じ非暴力不服従を貫かないとそれは成立できない。それを成立させる手段は、もし相手が暴力で従わせようとしたら、逃げることだ。逃げられなかったら、その場では従うが、逃げられたら、逃げることだ。例えば、徴収礼状の赤紙が来たら燃やしてしまう。それで獄中で死刑になるようだったら、海外に逃亡する方が賢明である。

今の平和国家日本では徴収制度はないから、相手にも自分にも非暴力かつ不服従する方法はハンストではなく、ダイエットである。脱原発デモをもっと若者や一般に参加してもらうためには、楽しいデモであり、また より健康促進的なデモが いい。相手に脅威をもたせるより、相手に好感と心を開かせる笑顔をもたらす方が、お互いに話せば解る雰囲気にもっていくことにだろう。

これをハンガーストライキに対して、ダイエットストライキと称し、略して ダイエストと言ったら、どうだろう。

こうしたダイエストは国家間の争いごとにも、充分応用できるもので、戦争反対には効果的だ。もし、目的が達成できなくても、ダイエストに参加した者がダイエットでき、健康になればそれだけで、自分にも国にも貢献したことになるからだ。

 

カテゴリー: 徒然草, 社会問題 | ダイエットストライキの勧め はコメントを受け付けていません

仕事と家庭

二輪草

仕事がどうもはかどらない。そこで、長く過ごす家庭の部屋のカーテンを買い、部屋を片づけた。ほとんど使わないものは押入に入れ、よく使うものだけもした。部屋が明るく広くなって 気持ちがいい。

こう快適な生活ができれば、仕事もぐ~んとスムーズにできそうだ。

ダイエットは 本当に必要な食事と運動 そして情報だけでなく、自分の持ち物や自分の周りにあるものをも必要あるものだけに発展してきた。これは意外である。

昔の修行の始めは 掃除をすることからだったが、今はダイエットをすることからのようである。

 

カテゴリー: 徒然草 | 仕事と家庭 はコメントを受け付けていません

信仰とは

神仏を46年信じて、捨てた。そして 神仏とは自分が求める最高の自分の姿であると帰結した。

その結論を展開して 実証したくなった。

帰結した神仏のへの信仰はいわば自信を持つということである。但し、その自信というのは 世の中を変えることができるという自信ではなく、自分を変えることができるという自信だけである。

本当の神仏は自分の心の中にいるものであり、自分が望む姿も自分の心の中にある。そのため、他人を変えることも、社会を変えることはできない。他人や社会を変えるとしたら、その環境や政治経済を変えることであろう。

まず最初の神仏実験は1年後にダイエットできた自分の姿を実現できるかどうかである。もちろん、リバウンドしない一生涯健康な体になるということだ

自信をつける方法は仏教的な瞑想とキリスト教的な祈りをすることだ。常にダイエットできた自分をイメージして、そうなれるように祈り集中することが 信仰の技術を真似ることである。

いわば自分で自分を洗脳するようなもので、自分の弱い意志を神仏への祈りと瞑想で強い意志へと変貌させることである。

さて どうなるか? 実験ノートをつけながらやってみることにする。

 

カテゴリー: 徒然草 | 信仰とは はコメントを受け付けていません

努力の花を咲かせよう

脱原発を今年の目標にしたが、脱原発と知事を目指した細川氏が結果的に大差で破れたことで、自分の無力さを思い知らされた。そして、脱原発自体を目標にする自分が間違っていたのではないか?! 自分ができることから、あまりにも遠い政治的な内容だったのではないか!

自分が脱原発でできることは、唯一選挙で脱原発を目指す議員と、脱原発を実現できる一番強い政党に投票することであり、個人的には電気を節約し、自然エネルギーだけで電気をまかなえるように開発することであろう。

そして、自分しかできないことをここに当てはめると、投票と電気節約だけになる。しかも、投票は自分の主張、電気節約はダイエット生活にも発展してくる。それらは脱原発にははるかに遠い内容だが、縁でつながっている。

急がば回れ であり、目標が大きすぎた場合、自分ができることを選び、しかも自分しかできないことを発展させ、そこに全勢力を集中させることである。すると、努力すれば確実に成果が得られる。無力感などはどこふく風だろう。

今やっているリフォームや畑仕事にしても、ダイエットの運動としてやれば、その結果が自分の体に起こることである。しかも、リフォームも畑仕事も、本当に必要なことだけをするように絞れる。畑にビニールハウスは必要なかったように、リフォームだって最低限に必要な設備だけにすれば、よけいな手間も、問題も起こらない。

ダイエットとは質素な生活を心がけることで健康と長寿になることである。ダイエットはただ痩せればいいというのではなく、本当に必要な食事と運動だけに絞り込むことで、日々の快適さを実現することである。

今までため込んでいた余分な脂肪や余分なモノを処分し、今後持たないようにすること、そして、快適な運動や仕事を生活のリズムにいれこんでいくこと、それを実現するにはかなりの努力がいるが、それが実現できて、習慣化すれば 常に快適に生活できる状態になると思える。

質素な生活にあった畑と家造りがそれとともに形作られるようにも思える。それを今年の目標としてみよう。

理論的には矛盾するかもしれないが、自分しかできないことをしていくと、無私の精神になってくる。

もし、自分という意識 私という概念 を無くしてしまえば、そこに死はありえない。死が無かったら生もありえないというのが論理ではあるが、実際は個人の死はあっても、人類全体の死までは数万年あるだろうから、自分という意識を無くすと、人類の生存という意識だけになってくる。もっとも、人類という意識さえなくせば、生物全体また地球が消滅する数十億年の命だけの意識にもなるということだ。

自分しかできないことをみれば、人類全体にとっての自分の役割みたいなものであり、ほんの小さな一瞬の輝きみたいなものだろう。でも、それが人類の存続にはかかせないものであったことは、どんな人の一生でもいえることである。それが人類の記憶にも残らないにしても、必要あって生まれ、必要あって死んでいって、人類を支えていることは確かなのだ。

努力というのは運動のようなものだ。少々の運動は快適なように、少々の努力は快適なようなものであろう。名も知らない花が咲くように、個人の努力の花も咲くだろう。その花が散っても、咲いたという事実は消えることはない。

 

 

カテゴリー: 徒然草, 自然に生きる | 努力の花を咲かせよう はコメントを受け付けていません

必要以上にやりすぎることが多い

どうも自分の行動を観察すると必要以上にやりすぎたり、必要以下だったりしている。

本当に必要なものだけをするのは結構努力がいる。ただ、それを習慣化させれば快適になるようだ。

今畑に陸稲を蒔いたが、2日水に浸け、土の下に蒔いたものだけが芽を出している。

雑草は何もしなくても毎年 芽を出すが、それと同じく稲も出来ないかと試している。それにはかなりの努力が必要だが、雑草と同じ環境になったら、きっと何もしなくても毎年実を結ぶと信じる。

桜だって、そうだし、稲だって 人間の力なくして生育できないというのは可笑しい。

image

カテゴリー: 徒然草 | 必要以上にやりすぎることが多い はコメントを受け付けていません