労働とお金

▼35歳~44歳の独身実家族は295万人

 今朝、「独身実家族・・実家を食いつぶす子供たち」というテーマでノンストップが放映していた。「働いてお金を得る」という正論の竹山と、「余っている親の金をもらって生きたっていいじゃないの」という西川史子の金持ち論の言い合いがおもしろい。だが二人とも労働とは金を稼ぐことでは共通していた。

▼金は金で稼ぎ、労働は労働で命を稼げ

 竹山は「働いてお金を稼ぎなさい」であり、西川は「お金があれば働かなくてもいい」というように極論できる。しかし、私は言いたい。

 金は金で稼げ、労働で稼ぐな。
 労働で稼ぐのは金ではなく、命である。

 世界は今や金儲けしないボランティア活動で多く支えられていると同時に、金儲けする多くの企業でも支えられている。それは労働することは金を得ることだけではないという事実である。

 よく、国民の最低生活保障であるベーシックインカムが実現したら、多くの人は働かないニートになってしまうのではないかと心配する。だが、人はどんなに金があっても、何かしらの働きをしないと、満足できないものである。

▼ニートから独身実家族

 40年前にはフリーターがはやり、20年前はニートがはやり、今は独身実家族がはやってきた。年齢はあがるばかりである。こうして傾向は金儲けのために働きたくない人々が増えてきたのではないだろうか。金儲けすることは闘いであり、我慢でもある。それは戦争があたりまえに時代であったなら、生まれなかっただろう。平和と豊かさの時代から生まれた労働観であろう。

▼お金とは分配すること

 お金が何であろかを知らないで、お金をただ儲けて、豊かになろうという風潮が大勢である。しかし、それはゲームでただ多くの点数を他人よりもとろうと競っている姿と同じである。お金やゲームを造った目的は何だろうか? 参加者にとって、金やゲームが何かなんてどうでもいいことだからである。ただ、金や点数が他人よりも多く入ればうれしいというだけである。

 お金はもともと物々交換をしやすくしたシステムであり、それは今ある国中の商品を国民すべてに分配するともいえる。そして、その分配方が、ゲームの点数でいくのか、労働の内容でいくのか、資産の割合でいくのか、国民の必要度でいくのか ということである。

▼働くとは助け合って生きるということ

 お金のない時代、人は狩猟や農耕で食べ物をえることが労働であった。ところが、お金のシステムができてからは、お金を稼ぐことが労働になった。多くの国民がお金がないと生きていけないと勘違いしているが、お金がない時代でも、部落でも生きてはいけたのだから、それは間違いである。「お金がないと暮らせない」というのはいわば煙草の依存症と同じで、「煙草がないと生きていけない」と思いこんでいるようなものである。お金も煙草がなくても生きていけるのが本当だからだ。金儲け社会は「お金がないと暮らせない」と洗脳しているにすぎない。

 働くことは食べ物を探して食べることである。原始部落では収穫した食べ物は部落人全員で分配することで、助け合ってきた。その食べ物の分配方法が本来のお金のシステムになるべきだった。今では、食べ物を収穫したモノだけが食べることができるような「労働=お金」になってしまい、お金は分配することを忘れてしまっている。

 本来、食べ物を探すのも、それを手伝いのも、それを食べることさえも、みな労働であるといえるのである。食べることも労働なのである。消費者がいない生産は何の意味もない。病人のいない病院など役立たずである。労働とは助け合って生きることだからである。
 
▼依存と助け合いは違う

 依存はそれがないと生きていけない。
 助け合いはそれがなくとも生きていける。

ということである。依存は支配と隷従を生み、助け合いは自立と平等を生み出す。
労働もお金も、依存ではなく、助け合いによる自立と平等が基本になるだろう。

 独身実家族だったら、親からお金をもらってもいいだろうが、親を手助けしないのは論外だ。それができないなら、追い出して自立からやり直しさせるしかないだろう。

  

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死出の旅に必要なモノ

 どんな人もいずれ死出の旅をすることになる。これだけは100発100中の当選確率100%である。だが、ほとんどその準備をしないで旅立つ人が多い。準備をしておけば安心して旅立てるはずだ。

▼死出の旅支度

 還暦が過ぎると、大体やりたいことをやってきて、ちょうど高校生のように、これから自分が何をしたいのかがわからなくなる。違いは、高校生は挑戦する時間がたっぷりあるが、老人にはあまり時間がないことだ。

 そのため、死出の旅支度を残された時間に費やすのが仕事みたいになる。

▼死出の旅には見える何をも必要ない

 「人生は旅である」ともいう。人生の旅の出発も、到着も、そこは生まれる前の世界であり、死んでいく世界でもある。その世界にはほとんど見えるような荷物がない。しかし、生きている間にはたくさんの荷物を抱えている。それらを全部死出の旅には持っていけないので整理する必要がある。

▼死出の旅の荷物は心だけである

 自分の倉庫には捨てられないものがたくさんしまってある。特に、思い出の写真やものである。そんな思い出は残された家族にとってはほとんど必要のないもので、いずれ処分されてしまうようなものばかりである。

 私の父母で残しているのはその遺骨と写真と先祖の名前くらいのものである。それらも世代がかわるごとに必要がなくなるものである。

 どんな思い出がつまったモノであっても、それはいずれ無用なものになる。つまり、死出の旅にはどんな思い出品も持つ必要がない。

 だが、見えない思い出は持っていける。それは心である。人は肉体の他に心を持っているからであり、肉体は旅立っても、心は常に生きているかのように、残された人の心に残る。その心は世代に伝わって残されていく。いわば、死出の旅の荷物は心だけである。

▼忘れてはいけないコト

 倉庫にしまってある思い出の品物を整理するにあたって、そこに基準を設けてみたい。
それはけして忘れてはいけないことだけを残すのである。

 あの原爆の日をけして忘れてはならないことのように、自分の思い出もまたけしてわすれてはいけないことだけを残す。それは死んでも忘れてはいけないコトという意味でもあるし、それは残された人に一番伝えたいコトでもあるからだ。

 それ以外は、忘れてもいいこと、忘れねばならないことで、捨て去っていいことなのだ。そうして死出の旅支度をしたいものである。

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クリック詐欺に合った

 地方銀行の明細をダウンロードしようとして、クリックしたら、とんでもないことに勝手にいろいろなソフトがダウンロードされてしまった。それを途中でキャンセルができなくなってしまう。とにかく、それをすぐにパソコンから削除したが、やたらとその広告がどこにもでてくるようになった。

 その広告を削除しようとしても、どうにもできなかった。
その症状は
1,大量エラーを見せつけ不安を煽って購入誘導するWindowsソフト
2.勝手にスキャンが始まり大量のエラー警告でビックリ仰天!
その退治方法は次のホームページに書いてあった。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Yoyo/6130/notes/fraud-software.htm

しかし、それでもできなかった。
そこで、気が付いたのが、google chromeを使っているのに、勝手にdelta seach になっていた。それを削除するのがなかなかできない。その方法を見つけたのは下記のホームページである。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Yoyo/6130/notes/delta-toolbar-search.htm

特に、google chromeがdelta seachになっていても、その右上の三のgoogle chromeの設定をクリックして、設定を開き、とにかくdelta seachというもの(起動時・検索など)はすべて削除してしまう。そして、起動時は自分の好きなホームページに設定しておけば、うるさい広告も、delta seachも消える。

インターネットエクスブローラの検索も、規定としてdelta seachになっているので、それも削除。もちろん、新規ソフトのdelta seachも削除する。

これらはほとんどウイルスだが、専用の削除ソフトでも退治できない。今回、銀行だから安心して、ダウンロードしようとしたのが失敗だった。

私は三度こうした詐欺ソフトにひっかかっている。1つはiPadの音楽をmp3に変換しようとしたとき、2つはいつも使っているnextFTPをダウンロードしようとしたとき 3つめは今回で、地方銀行の預金明細をダウンロードしようとしたときである。

みな無料ソフトをねらって、その無料ソフトのダウンロードだと思いこまされて、ついクリックしてしまうものだ。だから、クリック詐欺といってもいいものだ。

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稲と雑草の物語り

 畑作の稲の雑草を何度もとっていると、水稲は雑草に負け、陸稲は雑草に勝つ。当初は根ごととっていたが追いつかず、上の草だけもぎ取ると、陸稲の稲はスクスク育ち、その雑草は黒斑点病にかかってしまった。

水稲陸稲病気7月初
▼水稲の畑作は可能か

まず、水稲を畑作できるかどうかの実験であるが、芽が出て1ヶ月くらいで10センチくらいになるが、それ以上のびることがなく、後から出てきた雑草に追い越され、なんども雑草をとるが、追いつかず、水稲は雑草に下に消えてしまう。

それでやもをえず耕耘しなおして大豆の種を蒔いた。でも、また生きながらえている水稲がどこまで頑張れるかを試すため、水稲よりも高くのびた雑草の葉の部分だけ、刈り取ってみた。雑草の根は水稲の根にからみついていて、雑草を根ごととると、少ない稲も根ごととって死滅してしまうからである。

▼雑草だけが病気に

次に陸稲であるが、水稲は雑草よりも10分の1くらいに少ないが、陸稲は雑草よりも多く育てることができた。しかも、水稲が雑草に 負けたとは反対に、陸稲は雑草に勝ち、しかも、残った雑草が黒斑点病にほとんどかかり枯れ始めたのである。

稲は病気に弱くても、雑草は病気には強いと思っていたが、それが逆の現象にびっくりした。その原因は想像するにストレスではないだろうか。陸稲の数に圧倒され、人間になんども引き抜かれたためのストレスのように思える。

▼雑草はみな緑肥になる

稲の雑草をいろいろな方法で採っていて気が付いたことがある。
当初、雑草を根ごと採っていたが、採っても採っても後から新しい芽を出してくる。また、稲の根にからみつく雑草の大きい根をもぎとる ことは稲も殺すことになる。

というのは、一緒に抜いた根を分別して、稲だけを再び植えると育たないのである。陸稲も水稲も、畑の苗植えはうまくいかず、成長せずに、根本からだんだん枯れてしまうからだ。

そこで、雑草を根ごと採るのではなく、その茎と葉をもぎとる方法に切り替えた。そのもぎ取った茎と葉はその場に捨てると、枯れて緑肥になり、稲の肥料になることを発見した。つまり、稲の雑草は根を残して刈って、その場で枯らすとみな肥料になるので、あえて肥料を与える必要がないということだ。

▼雑草は病気も引き受けるのか?

陸稲の雑草をもぎとった残りの雑草のほとんどが病気にかかり、枯れ始めた姿にはびっくり仰天している。
雑草は人によってすべて摘み取られて作物の肥料になるだけでなく、自ら病気になって枯れ、作物を病気から守るような姿にさえみえる。

それが本当とはとても思えないが、もし本当だとしたら、雑草が作物と人間に対する無償の愛のような姿を感じる。

とはいえ、水稲と雑草の関係でいえば、その逆であるから、雑草も人と同じく無償の愛を与える相手を選ぶのかもしれない。

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生きる苦楽にどう立ち向かうか

 勝負の世界・弱肉強食の世界、その姿をどちらかの立場で応援した場合、勝てば有頂天で喜び、負ければ愕然として苦しくなる。生きる目的を持てばこの苦楽は必ず付いてくる。 この苦楽を超えて静かに勝敗を楽しむには双方を応援し、双方がいかに戦うかを味わうことだ。それは戦う本人にもいえるだろう。

 サッカーの国際試合を観ていると、やはり自国の日本をどうしても応援してしまい、勝と楽しいが、負けると悔しくてたまらない。負ける試合は後味が悪いので、みたくなくなる。

 あの中国での試合でも中国側の試合する前からの日本へのブーイングはとても見苦しいものがある。その立場が逆であったら、自国のスポーツのマナーに欠ける恥かしく思う。

 それがスポーツではなく、戦争であっても、敵国への敬意がないと見苦しいものがある。 スポーツに反則が許されないように、戦争でも相手の命を奪う行為は反則として、国際世界のマナーとしたいものである。

 動物のオスが縄張り争いをするが、その時でも相手を殺すまでの勝負をしない。相手が降参した時点で勝敗が決まる。同種同士の闘いは殺し合いをしないのが自然法であろう。

 生物の世界では生きていくためには異種の生物を食べ、また食べられている。その生物界の王者として人類が成った。王者の責任は地球上のすべての生物を管理する役目を負う。異種の生物同士が食べ食べられるように、その数を調整管理することで、人類は王者としてこの地球上で長く生きられる。

 もし、ある種の生物が多く絶滅するような場合、人類の地球の王者としての地位はなくなり、自らを絶滅させてしまうだろう。熱帯雨林がなくなり、砂漠化、温暖化、また放射能汚染を広げれば、人類の食べ物も命もなくなってしまう状態になる。

 一つの弱い絶滅種の運命は未来の人類の未来なのである。なぜなら、生物はみな食べ食べられて、一つの生命体としてつながっているからである。

 この勝負と弱肉強食の生物界において、人類がどう各生物と向かいあうかは、人間同士の闘いの場において、どういう意識を持つかで決まってくる。

 それは勝敗に固執して、その苦楽に一喜一憂しないことである。闘う両者の生き様を観戦することであり、たとえ、負けてもその闘い方が感動したら、その人を応援し、たとえ、勝っても、その闘い方が醜かったら、その人を応援しない。それが国際試合であっても、国で応援することはしないような観戦がこれからの国際人として、また人類が他の生物に対しての責任であろう。

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