命は一つ

 命は一つにつながっている。この真実はこの世のあらゆる矛盾を解決する糸口になっている。

 例えば、戦争や犯罪で、殺す方と殺される方がいた場合、どちらが善人でどちらが悪人かという判断は必要なくなる。人類でなく、生物の世界では弱肉強食は自然のことである。

 先日の大雪で東京から山梨に車で帰るとき、高速道路が通行止めになり、一般道路で上野原から勝沼までの所要時間はなんと11時間かかった。ほとんど車で眠ることができたような状態であったが、その渋滞に対して誰も文句をいう人は一人もいなかった。それこそ、奇跡のような人間行動であると思えたのである。

 それはこうだ。自然の災害に対しては人類はけして怒らないし、素直に受け入れるが、それが人為的災害であったら、人類は怒り心頭して、殺し合いも辞さないということだ。

 2年前の東北震災の津波による自然災害に対しては素直に受け入れるが、きっかけが事前災害であったとしても、原発事故という人為的ミスはけして許さないということである。

 数十年前に、若者のテレビ討論の際、ある若者が、「どうして殺してはいけないの?」という疑問に、聴衆者は背筋が凍ったことがあった。

 また、ある地域通貨のような集会で、ある青年が政治家を目指す理由としてあげた内容にも私は背筋が凍ったことがあった。それは「自殺の自由を認める法律を作る」ということだったからだ。

 自殺も他殺も、殺すという行為には変わりがない。それが自由であり、善いことであったとしたら、自分もその社会も自滅崩壊することになってくるからだ。

 だが、日本の武士道はたぶんにこの精神が入っており、「いかに殺すか、また、いかに自殺するか」という正義であるかのような精神があると思えるのである。

 人は生きる目的とか意味という理由を求める。もし、誰かに「どうして殺してはいけないのか?」と問われたら、きっと多くの人はこう答えるだろう。「殺されたくないからだ」と。

 しかし、この答えは自殺志願者にとっては、逆説になってしまい、「では、殺されたいならば、殺していいということなんだな!」となり、自爆テロや、自殺志願者が無差別殺人をすることを正当化させてしまうという答えになってしまい、危険な答えになってしまう。

 「悪人は殺していいが、善人は殺してはいけない」という境界線をつけているのが、死刑制度である。しかし、善悪の判断にはたぶんにミスもあり、冤罪もあり、善人を法でころしてしまうという矛盾もおきてしまう。

 古今東西、人類はこの善悪で、また殺人行為で多くの矛盾する問題を起こしてきている。しかし、人為的な殺生ではない、他の生物や自然災害においては、なんら矛盾も問題もかかかえることはないのはどうしてだろうか?

 もしあなたが牛や豚であったら、人間に殺され食べられたら恨むだろうか? 牛や豚だけではなく、魚もまたどんな野菜も穀物であっても、恨むことはないだろう。恨むのは人間だけであると思える。

 それは弱肉強食の生物界ではそれが自然に成り立ちであるから、そのまま受け入れているにすぎない。

 人類の間においても弱肉強食のような世界があるが、それは人為的であるために、自然のようには受け入れられなく、喜怒哀楽が大きく働き、それはけして許される行為ではなくなる。

 しかし、こうした人為的殺生に対する怒りをおさえて平静な心になり、幸福感を取り戻す方法は唯一、自然の命に対する意識と合わせることである。

 それはどんな命も一つにつながっているということである。人類だけでなく、どんな生物とも命が一つとしてつながっているという真実をみることである。

 もし、殺す人と殺される人の命が一つになっているとしたら、食べる方と食べられる方の命が一つでつながっているとしたら、個々の命はちょうど海の波間のように生と死が揺れているだけのように感じられてくる。

 一つの死はまた再生するという姿にすぎなくなる。一つの生は始まりであるが、一つの死もまた始まりである。

 動物においての自我は世界一の独裁者になろうとしている。どんな人間であれ、潜在的にはみな世界一をめざすようにその命がしくまれている。だから人はスポーツの勝ち負けを楽しむのである。

 自我とはいわば世界を映すレンズのようなものであり、自我がなければ世界は存在できない。逆も真なりで、世界も自我がなければ存在しない。この世界というのは人間がみることができる世界のことであり、人類がなくても存在している自然界のことではない。

 人類がみる世界とは地球とか宇宙のような世界観のことである。その世界観は自我なしには存在できない感情思考世界のことである。

   幸福とか豊かさというのは感情思考の世界のことであり、人がそれを求めたとき、自然界を受け入れる姿勢になったときであろう。

 

 

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より自由な社会には二種のお金が必要

 現代を生きるために必要なものは食料の他に電気である。この電気は再生可能な自然エネルギーであることがまた必須になってきている。

 個人における自給自足は食料でも電気でも難しいが、小さな地域社会では可能である。

 自由主義か社会主義かという数十年の世界の闘いで優勢なのは自由主義であるが、それは完璧に勝利したのではない。というのは、完璧な自由とは自分の自由を貫き通すことができるということだから、それは最終的は独裁的になる。完璧な社会主義という場合は、その社会を統括する最高指導者が最終的に独裁的になり、両主義は同じところを目指すことになるからだ。

 簡単にいえば、自分一人で生きられる社会はなく、最高指導者のいない社会は存続できないということである。

 自由主義と社会主義を融合させるには、自由主義の幅を小さな地域社会にすることで可能になる。しかも、その社会は経済的に自給自足が可能でなければ、他に従属するか、他を支配するかになり、真の自由は生まれない。

 しかも、この小さな地域社会において、独裁者を生ませないためには、基本的政策においては住民全体から自由な意見が出され、その多数決で決められることが必要である。今のテレビとネット社会ではそれが可能になっている。

 それが民主主義は政治家を選ぶことから始めるのではなく、民衆が直接政策を投票できる制度を造ることから始める必要があるということだ。

 というのは、選挙するときに、自分が望むような意見の持ち主の立候補者も党もないという経験が常であったからだ。

 自由な社会をさらに実現するためには、この小さな地域社会が他の地域社会との交流をどう発展させるかというのも重要である。科学技術が発展したおかげで、世界は小さくなり、国際的な交流なしには各国の自由は存続できない。

 自給自足が自由の原則ではあるが、より多くの自由を望んだ場合はさらに大きな国との協力関係が必要になる。国際化なしには自由はありえないとも言えるので、小さな地域社会という自由社会主義とは矛盾してしまう。

 この矛盾は自由の内容によると思われる。食料や電気のような経済的な自由は小さな地域社会が必要であるが、文化、政治、教育医療研究などは大きな国際化が必要であるといえるだろう。

 どんな自由資本主義社会でも、最低生活保護政策は必要なものである。この最低生活保障が自給自足と同じ次元の政策であろう。というのは、最低生活保障はその地域の住民の命を守ることで、その社会全体で助け合うもっとも基本的な協力関係であり、いわば、最も重要な社会主義である。住民一人一人が自由であることが自由主義であるから、社会が一人の人間の命を奪うとしたら、そこに自由は消滅してしまうからである。

 つまり、自由主義とは相手の自由を奪うことではなく、相手の自由を認めかつ、自分の自由をも認めなくては成立できないからだ。

 食料も電気も、お金という経済で生産流通している。また、文化・政治・教育医療研究さえも、お金で動いている。経済と政治文化教育とは一つにすると自由さに弊害が生まれる。経済にあったお金と政治文化教育医療にあったお金と区別した方が、より自由な生産と流通かつ文化が生まれると思われる。

 お金も科学技術のようなものである。それがどんな使われ方をするかで、善し悪しが生まれてくる。お金で教育を買おうとすることが犯罪になるようなものである。ならば、人は肉体と心があるように、お金も肉体を支えるお金で、心を支えるお金の二種があってこそ、自由な社会が、小さな地域社会と大きな国際社会で実現できるように思えるのである。

 

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多数決の民主主義が正しいとは限らない

 山本五十六というテレビのロードショウを観たが、未来に向けての正しい判断をしていた山本五十六という個人の意見は上の命令と、国民の声とマスコミによって、間違った戦争へといかざるをえなく、またその職務から数百万人の命と自分を犠牲にしてしまったというものだった。

 間違った戦争の反省がまだまだ足りないような気がする。それは多数決が最優先される民主主義が常に正しいとは限らないことを教えてくれる。

 人の意見は事実からいろいろと変わってくるものだ。その事実がもし嘘であったり、その事実が全体で組み合わさった事実ではなく、ほんの一部の抜粋された事実であった場合、人は誰しも間違った意見へと導かれてしまう。

 そこで、もっとも大事だと思われるのは、一人一人が自分で確認できる事実を組み合わせて、自分の意見を持つということであろう。

 次に大事なことは、自分の意見のとおりに行動することではないだろうか? 山本五十六は上の命令には従ったが、部下は山本五十六の命令には従わなかったということで、自分の意志と行動とは逆の結果になってしまった。

 その結果からの反省をするなら、連合艦隊の指揮する任務を断った方がより正しい判断だったかもしれない。しかし、断ったとしても、戦争は避けられなかっただろうし、より被害が少なかったかどうかはわからないが、少なくとも、彼自身はより長く生き延びることができたかもしれないだろう。

 だが、より長く生き延びることが常に正しい判断かどうかはそれも疑わしいことだ。そう考えると、正しい判断は何かなんてことは誰もいえないこととしかいいようがない。

 しかし、人は正しい判断をしようと常にもがいている、それが他人と多く会談して、自らの判断をすることが大事であるのだろう。

 そう考えると、多数決である民主主義よりも、多数の意見と会談して、自分の意見と行動を決め、その結果が、多数意見とは違っても、自分が決断した意見と行動をすることが大事であるといえる。

 多数決に従うのではなく、多数の意見を吟味して自分の意見に従うのがこれからの生き方ではないだろうか。

 それをあえていうなら、謙虚な自由主義ということになるだろう。

 

 

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経済優先から環境優先へ

 耕耘機で、米の畑作用に耕した。あまりに石ころが多いので、耕耘機が壊れる寸前のところまでいった。米は余っているくらいで、しかも、条約で輸入しているので、栽培する必要はないのだが、自給自足を目指す者にとって、毎日の食事のメインが米である以上、それを自分で栽培したいと思うので、挑戦している。

 水田だとうまくいくようだが、畑作で米の栽培は難しいようだ。福岡式自然農が米麦の二毛作だったので、そこから入ったが、麦は成功したものの、米は二度も全滅して、今度は三度目だ。

 伝統的栽培を勉強せずに、まったくゼロから挑戦したいので、三度目は冬に種籾をまいて、どうなるかを試す。

 私の理想は何もしないで、毎年穀物や野菜が収穫できることである。それは山で柿がとれたり、山菜やきのこがとれるようなものである。

 農業と漁業は似ている。魚はたくさん採らなければ、毎年魚は充分捕れる。穀物や野菜だって、魚と同じようにして、来年もそのまま収穫できるくらいに、間引くくらいに少しだけ収穫しておけば、可能ではないかと思うのである。

 毎年何もしなければ、同じような雑草が春夏秋冬で生えては枯れている。しかも、草刈りをしても、やはり生えては枯れる。そんな雑草と穀物野菜とどう違うのだろうか?

 漁業や農業において、人は売ってお金にすることばかり求めているから、苦労多くして、不安定な収穫になってしまうのではないだろうか。

 確かに、お金の発明は経済的に生活を豊かにしてきたが、逆に心を貧しくしてきたのではないだろうか。国の経済戦争は武力闘争にも発展する。そして、何よりも、貧富の差を大きくしてしまう。それは強い者が弱い者を虐げるような社会になってしまう。

 経済がある程度発展したら、環境を重視せざるをえなくなる。そうしないと、全滅してしまうからである。

 今のお金のシステムでは自由市場が基本であり、より多く金持ちになった者がその市場を制することができる。個人でお金は無制限に持てるので、「お金はあればあるほど良い」という考え方が主流になってしまう。

 これは魚や穀物野菜を採れれば採れるだけ採れれば良いということであり、それは来年には持続できない、一時の経済的観念である。

 人間が住みやすく、未来にわたって安心して暮らせるようにするには、食料や資源を常に持続可能な循環にする環境が必要である。そのためには、必要以上の食料も資源もお金も得ようとはしないことが大事になる。

 今の経済はギャンブルと同じになってしまうのは、必要以上のお金を発行するから、生活から離れて、勝ち負けの楽しみだけで、お金を儲けようとする。それが食料や資源は本来の目的ではなく、ギャンブルを楽しむのために、コインになってしまっている。

 経済が損得で動くが、環境は損得は関係なく、命の循環がされている。原発はまったく環境を配慮しないで、経済だけで動いている典型的なものだ。未来の人類の命を捨ててまで、今の電気を享受するのは馬鹿げている。

 数十年前は核戦争で人類は破滅すると言われてきたが、今は原発で人類は破滅するといえるだろう。

 これは経済を最優先すると、人類は破滅し、環境を最優先すると、人類は永存するともいえることだ。

 

 

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平和と感謝の心を輸出する日本へ

 世界の経済戦争で世界一をめざすような時代は終わった。これからは、日本の心を輸出する政策に転換する時代になってきている。

 中国にGDPで追い越され、韓国で家電製品が追い越され、そのため、安売り合戦をして、さらに優位に立とうとする経済戦争はまるで軍拡競争みたいなものになっている。

 それが、あらゆることに対して、経済優先の政策になり、それが内外のおける摩擦を多くしている。

 それは貧しき心を世界に輸出しているようなものである。 今、日本が輸出すべきなのは平和と感謝の心であろう。

 中国が尖閣諸島を武力でとりにきたら、どう答えるか、韓国が竹島の領土を主張したら、どう答えるか。
 福島の原発事故の始末で、どういう政策を世界に示すか? TPPのような経済問題にどう答えるか?
 世界の紛争に、世界の悲惨さにどう答えるか。世界の人々が感動するような言葉と行動をどう示すかである。

 モノから心の時代になった今、日本の心を輸出する政策に転換していくことが大事であろう。

 国の損得で行動するのではなく、徳で行動する時代であろう。

 

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