円高?輸出入も物々交換と思えばいいではないか

 今急激な円高で騒いでいる。

 円高の問題というより、実質的にはドル安が問題だと思えるのだが。

 この円高ドル安の問題は輸出輸入の問題になる。石油タンカーで石油を輸入する際、行きは空のタンクで、帰りは満タンにして航行するのはもったいないから、行きのタンカーも他の商品で満タンにして航行すれば、経費の無駄がない。

 この行き帰りの船荷を一杯にして運行するように、輸出入をすれば、円高問題も解決するように思える。

 円高で損失するのは輸出業者であり、得をするのは輸入業者である。

 そこで、その国の輸出輸入業者が企業合併や資本提携すればいいのである。輸出と輸入の金額が同じくらいの企業合併がいいだろう。

 お金で輸出収入をとらえてしまうから、問題が起こるが、商品の交換というお金本来の物々交換という視点にたてば、お互いに便利で友好的な国際関係ができるだろう。

 輸出輸入も物々交換と思えばいいではないか。

 例えば、

 アメリカへ車の輸出企業とアメリカから穀物輸入企業が合併すれば、円高ドル安や円安ドル高になっても、なんら心配はなくなる。為替相場で損得をいちいちきにしなくていいからだ。

 これは、損得を白黒の石で賭け事をするときに、白黒のどちらにも同じ金額で勝負するようなものであり、勝っても負けても損得しないことになる。

 今日本は輸出が輸入に比べていくらか多いから円高が問題になるが、同じ程度だったら、そう問題は起きないはずである。

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エコポイントと新貨幣と税制

 今日、テレビを4月に買ったエコポイントのギフト券が届いた。

JCBのギフト券と、QUOカードである。JCBのクレジットカードが使えるところでは国内のどこでも使える。QUOカードは主に携帯カードが使えるコンビニなどがどこでも使える。

 このエコポイントギフト券は新貨幣として発行するようなものである。

 新貨幣としては、現金のような貸し借りの債券としては使えず、単に生活必需品だけが買えるような新貨幣である。それで株やFXは買えないので、実質経済に使える貨幣と同じである。

 このエコポイントギフト券はお店の売り上げとして集まり、お店の人は役所で現金と交換できることになる。

 もし、このときに、特別消費税として、例えば10%の現金引き換え料金をとれば、お店はいちいち消費税を計算して、申告納税する必要がなくなる。

 また、このエコポイントギフト券を商品券と同じく現金で誰でも買え、それをお中元お歳暮やプレゼントなどのギフト券として買えるならば、資産税として例えば10%支払うことも可能になる。

 そのため、新貨幣は実質経済と申告納税が必要のない新税制になり、国や自治体の行政がスムーズに働くことになる。

 エコポイントギフト券は大量の紙やカードが必要だが、それはJCBやVISAのようなクレジットカードのようなものにして、それが年金や子供手当やその他の社会事業として、振り込まれれば、一枚のカードで、生活必需品が買えるようになり、それが債券や株券やFXのような投資に使えなくなり、ギャンブル経済を防止することになる。

 給料の支払もまた、このエコポイントギフト券のようにすれば、源泉徴収などの税金の支払も楽になり、社員が投資やギャンブル経済に夢中にならないように防止できる。もっとも、それは社員の意向によって選べるようにする必要があるが。

 そして、いつか、この新貨幣によって、税制と実態経済の流れがよくなり、国民すべてのベーシックインカム制度も実現できるようになるだろうと思える。

 地域通貨や各自治体が発行するプレミアム商品券では、それが使えるお店が少なく、不便な貨幣であるが、このようなエコポイントギフト券のような新貨幣は日本全国のほとんどのお店で使えるので、その流通がしやすくなる。

 

 

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始めて自然に出会った

 畑を手にいれて、始めて自然に出会えた感じがした。

 というのは、今まで、自然と思っていたことがみな人間以外のことのような、また自分以外のことのような思いこみで見てきたように思えたからだ。

 雑草に覆われた畑をどうするか、いろいろ考えたり、いくらか野菜の種を植えたりしていると、都会育ちの私には、長靴に長袖の長ズボンの真夏の作業はとても続かない。

 家でパンツ一丁で暮らしているように、畑に出てパンツ一丁と、サンダルで農作業すると快適な感じがする。水をまくついでに自分の水をまくと、実に海水浴のような楽しみが生まれてくる。

 雑草も、野菜も、人間も同じ仲間にみえてくる。

一部のかぼちゃが大きく育ち、そのとなりに植えたピーマンとパブリカが育ったと思ったが、そこにウリ科の野菜を食い荒らすウリハムシがまさしくハエのように、そのピーマンとパブリカの苗木を食べていた。

 頭にきて、そのウリハムシを手でつぶしたりしていた。でも、ほとんどは逃げて飛んでいった。

なんで、ウリハムシはウリ科だけの葉を食べるはずなのに、どうしてパブリカの葉を食べるのか?

そして、そのパブリカだと思っていた葉をよく観察したら、なんとカボチャの葉とそっくりだった。

 そして、気が付いたのは、パブリカとピーマンの苗はみな死滅してしまい、単にばらまいたカボチャだけが育ったことになる。

ウリハムシはウリ科のカボチャの葉を食べていたことに納得した。

 このウリハムシは好んでカボチャ苗木の葉を食べていたが、大きく成長した葉はほとんど食べない。

 どういうわけか、スイカやメロンのようなウリ科ばかり育ち、その芽をウリハムシは好んで食べる。

 これは、農薬が必要かなと思ったが、さらに観察すると、食い荒らされたカボチャの葉の間から新しいカボチャの葉が育っている、

 ひょっとしたら、ウリハムシは害虫ではないのかもしれない。人間のペットとしての犬や猫と同じように、ウリ科の植物にとってはウリハムシは共生の虫かもしれない。

 というのは、

 たくさんのカボチャの種にうち、それが大きく育つのはわずかである。それに成長の差も大きい。まさに生存競争ははげしいのである。このウリハムシはまさに苗木にとっては生存を阻害する虫である。しかし、このウリハムシが強いカボチャを育てるような共生だと思えるふしがある。

  それはウリハムシが葉を食べても、また新しい葉が育つこと、さらに、大きな葉は食べないこと。さらに、ウリハムシはウリ科の葉しか食べないこと。

 これは、ウリ科植物とウリハムシの間で、こんなやりとりがされているかもしれない。

ウリ科: 葉っぱをいくらかたべさせてあげるから、強い子を育ててくれ

ウリハムシ: 全部の葉を食べないで、いくらか残しますから、一緒に共存しましょう

 てな感じだ。

カボチャは自然とすれば、ウリハムシは人間って感じである。

 自然にとって、人間は害虫かもしれない。でも、人間が益虫として生きるなら、自然と共生できることになる。

 自然に生きる植物にも虫にも・・・また人間にも・・害虫も益虫もないのだろう。それが害虫かどうかは人の見方の問題であって、それは真実ではないのだろう。

 

 

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怠慢疲れに遊ぶかな

 昨日から今日までお店の全ブースかけて予約してある出店者からの連絡が一切途絶えてしまった。すでに入金してあるため、こちらからキャンセルして当日出店募集することもできない。

 その仲間も同じく連絡をしようとして当方にも連絡してきた。どうやら、体調をくずして入院しているかもしれないとのことだった。電話もできない状態であることが予想できる。

 仕事も病気には勝てない。 体が一番大事だ。元気な姿を祈りたい、そして、また出店してほしいと願う。

今この暑さで熱中症で亡くなる人も多くなった。そのほとんどが60歳以上の方だが、身近でも娘の友人の友人の20歳の男性が亡くなった。前日までコンビニで元気にアルバイトしていたのに、急に亡くなってしまった。

 私もかなり暑さには弱く、畑仕事も10分もすれば気持ちが悪くなって、水風呂に飛び込んしまうほどだ。

 でも、雑草を野菜や果樹に変えたいので、なんとか畑仕事をしたいと思い、一工夫した。

 家ではパンツ一丁でごろごろして、水風呂に入ってはまたごろごろしている。

 このまま畑仕事ができないものかと、工夫したのが、裏庭から畑に出て、通行人に見られないようにすることにした。

 風呂場の外ドアから、裏庭にハシゴをかけ、そのまま、ビニールハウスにパンツ一丁で出かけていくことに成功した。

 こうすると、海水浴をしながら、畑仕事を楽しめるような気分になった。

 畑仕事には長靴に、長袖が泥よけと、虫除けに必要だが、雑草を刈ってしまうと、芝生みたいになるので、そんな心配はいらない。苗床に水揚げするホースで、水浴びしながら、土いじりすれば、虫も逃げていく。

 こうすれば、1時間くらいは遊べ、けっこう仕事ができるものだ。

 テレビニュースで渋谷のギャルが畑仕事する姿を放送していたが、私も渋谷親父が水着姿で畑仕事をしている感じである。

 それにしても、

 食べたあとのスイカとメロンの種ですくすくと芽が出てきた。はたして、どこまで成長できるかみものである。

 生ゴミのピーマンの種で育った苗は生長したが、虫がどんどん芽を食いちらかすので、その成長は止まってしまっている。

 やはり生ゴミのカボチャは1本だけ、馬鹿でかく成長しており、その葉とつたが、2mくらい地面をはっている。どうやら、種のときから、その生存競争ははげしく、100に1の割合で生き残れる種と生長があるように思える。

 自然農の本を途中まで読んだが、みないろいろな意見なので、読むのが面倒になってしまい、もう自分勝手に育てることにした。

 その方針は単に雑草と野菜に変えるだけというものだ。それを手探りで、水着姿で遊びながらやっていくだけである。

 実に私は怠慢である。それがまた快適である。これができるのは、農業で食べていくというような切実さがないためだ。

便利さって、結局怠慢さから生まれたのではないだろうか。 逆に遊びは勤労さから生まれたのではないだろうか!

 怠慢に疲れたとき、遊ぶように働けば、けっこう楽しく生きられるような気がする。

 

 

 

 

 

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自分がたくさんいる

 昨夜、コーヒーを飲みながら、菓子を食べ過ぎて胃酸過多になってしまった。胃がムカムカして眠れなくなり、太田胃散と水をしこたま飲み、そして嘔吐して、食べ過ぎたものを出して、やっと胃がおさまった。

 いったい、どうして暴飲暴食をするんだい?

 と、自分の胃袋に話しかけた。

 「だって、おいしかったんだもん!」

 「おいしいからといって、食べ過ぎたら、あとで苦しむのはわかりきっていることではないのか?」

 と、自問自答した。

 そこで、ふと気が付いたのは

自分はたくさんいる!

 胃袋も自分だし、食べ過ぎをいさめる頭も自分だし、・・・この手足も自分だし・・・五臓六腑四肢のすべてが自分だってことだ。

 あのガン細胞だって、自分の一部が変化したものだから、やはり自分だ。

 ひょっとして、自殺というのはいわば心のガン細胞みたいな自分かもしれない。

 自分の身体も心はみな自分の一部ではあると同時に独立した自分でもあるというのがわかる。

 自分の一部であっても、その一部は自分のいうとおりには動いてくれないで、独立して動くことができるいわば社会における個人のような人格がある。

 自分とは何か?

 と考ええると、それは日本とその国民の1人1人のようなもので、自分という細胞や臓器が四肢が独立して動き、かつ全体でつながっているようなものだということだ。

 つまり、自分というのは、自分という社会をとりしきっている国の首相が代表だってことになる。いくら自分国の首相であっても、国民のすべてが支配できるわけでもない。いうことをきく細胞もあるし、ない細胞もある。

 自分というのはいわば社会そのもの縮図のようなもので、いわば、個人個人の細胞の寄せ集めにすぎないが、それが統一されて活動されている。その統一がされないと、自分を見失うということになる。

 そして、自分国の首相が選ばれた自分国民の代表になって、統一をまかされることになる。

 もし、社会を変えようとした場合、それが実現できるかどうかの目安が自分国内の統一度で推測が可能である。

 自分自身を思いどうりに動かすことができないと、それは活動家・政治家としては失格になるだろう。

 昨夜のような暴飲暴食をして体を悪くするような自分国の首相は、社会活動家や政治家には向かないことになるだろう。

 もちろん、アイデアもそうで、実現可能なアイデアマンになるには、やはり、自分国の管理ができるようでないと、いいアイデアは生まれないような気がする。

 それにしても、

 こんなに独立採算するような自分がたくさんいるとはびっくり仰天させられた。

 自分が社会だなんて!

 一度もそんなことを思ったこともなかった。

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