The three Wishes of Yosaku 1.2.3

モンゴルの大学で10分間の英語のプレゼンを頼まれた

予習動画を作ってみた

O教授のメールによると、

ビジネス大学への追加プレゼンの要望があったので、

 

それも 英語絵本風に作りたくなったが・・・??????

 

なんせ ハワイまであと二週間、そしてすぐ モンゴル行きだから、

なんせ、準備する時間が足りない。

O教授は とにかく 急に物事をその場その場で決めてくる。

それに合わすにはかなりコツがいるし、かなりの慣れも必要だ。

まあ

他にやることもない 自遊人だから・・・

 

自遊人 あたふた道中 乙のもの

 

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トラウマ・虎馬?・trauma!

思い込みトラブル

出典画像

1.間違い番号

今朝、店の客から困り切ったような電話があった。

「鍵の番号は  8394 でしょう!

そして、鍵が開かなく 怒りながら間髪を入れずにしゃべりまくる。

「いいえ、8349 です」

といっても、話が止まらない。

「・・・・・・・・」

やっと 数分たってから・・・

「え?!・・83????・・・」

「8349 ヤサシク です」

(注:8349は仮の番号)

「そうなの?!」

と電話が切れた。

***************

私はその電話の後、ハッと気が付いた。

人は思い込みで苦しんだりしている!

苦の原因は思い込みなんだ!

四苦八苦する

1.生…生きること・肉体的精神的苦痛
2.老…老いること・体力、気力の衰退・不自由
3.病…様々な病気・痛みや苦悩
4.死…死ぬこと・恐怖、不安
5.愛別離苦(あいべつりく)- 愛する者との別離
6.怨憎会苦(おんぞうえく)- 怨み憎む者に会う
7.求不得苦(ぐふとくく) – 求める物が得られない
8.五蘊盛苦(ごうんじょうく)- 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない

四苦八苦の原因もなんらかの間違った思い込みかもしれない

2.トラウマは虎馬ではなく、英語のTRAUMAだった

時々、寝ても覚めても、ある種のトラウマのような過去の想い出が浮かび上がって

奇声をあげてしまうことがある

最近、英語を学ぶ機会があり、トラウマを英語で何というのか? 調べてみたら、

なんと トラウマとは TRAUMA 心的肉体的外傷 辛い体験 を意味する英語から来た外来語だった。

私は馬鹿というような 虎馬で、虎や馬のような悲鳴や叫び声をついあげてしまうから そう名付けられたと思い込んでいた。

3.喜怒哀楽も思い込みからくるのか?

苦しみが ある種の思い込みから くるのなら、

それに関連する逆・類語である喜怒哀楽という感情もやはりある種の感情からくるのではないだろうか?

人によって、思い込み内容がみな違うので、その思い込みに合わせて喜怒哀楽が生じるってことだろう。

となれば、

4.「思い込み描画」をリセット・修正で悟りの極楽浄土へ

 

自分の喜怒哀楽の原因である「思い込み描画」をリセット・修正すれば

自分が望む理想の最高に幸福な感情(悟り・涅槃・極楽・浄土・醍醐味・三昧)に持っていけるようになる。

但し、「修正した思い込み描画」が 現実自然的な状態と一致していないと 「間違い思い込み」になり、別な喜怒哀楽になるので、また、リセット・修正しなおす必要になる。

いわば、最適な言葉を選び出すような詩人、最適な音や色形を探る芸術家のような努力をする必要が何度もあるのだろうが、

何度も虎馬・トラウマに、際悩まされるよりはマシである。

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法灯明とは平和への祈りである

ネパールは王制から民主制に代わって、少女神(クマリ)を立てることをやめなかった。ヒンズー教・仏教・イスラム教の信仰者が共通して平和の象徴して少女神を祈りつづけている

お釈迦さんが亡くなるとき、信徒に

。。。。。。。。

自灯明・法灯明

「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」

「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、

他人を頼りとせず、

法を島とし、法をよりどころとして、

他のものをよりどころとせずにあれ

(中村元訳「ブッダ最後の旅)・・パーリ語の経典「大パリニッバーナ経」の現代語訳」

。。。。。。。。

「自分を頼りに」というのは「自信をもって」の意である。

問題は

「法を頼りに」という、法とは 仏法のことで、

それは悟った釈迦(仏)の言葉(教え)を頼りにとおいう意味である。

釈迦・イエス・アラー・ヒンズーの神々が直接話した言葉も、その記述もない。

つまり、神仏は言葉も文字もない存在としてまず認めなければならない。

少女神(クマリ)も、三歳の時、釈迦の血筋を引き継いだ家系と国と寺院の間で選出され、

その選出基準は泣かない少女、喜怒哀楽の表情を出さない者であり、それはいわば言葉を持たない、発しない神としての代理が務まるかどうかである。

一般に法とは日本国憲法、世界連合憲章のようなもので、はっきりとした 基本精神・信条を文字にしてものであり、各宗教の経典のようなものである。

釈迦自身は 法灯明を説くとき、

「仏から直接聞いたという教師をそのまま信じるのではなく、よくよく 他の教師に聞き、また書かれた経典を吟味して 信じる道を決めよ「

と言っている。

法灯明とはつまるところ、多くの他人の言うこと、言ったことを吟味し、学びながら、自分自身が信じられるモノを見出し、頼る自信・・自灯明・・に行きつくのである。

それは

少女神クマリを信じる人が「クマリは平和の象徴だから信じる」といっている。

平和の象徴としての仏陀・アラー神・ヒンズーの神々を信じるということで、それぞれの宗教を超えて、共に祝い、共に生活できる

それは

法灯明ということは「共に平和への祈りの意思があるかどうか」で判断せよという意味である。

その教えに「平和への灯り」が見えたら、信じても安心だが、

逆にその考えに「戦争への暗黒さ」が感じられたら、信じてはならない。

この少女神クマリも、日本の天皇(日本国民の象徴)も、平和への象徴としての法灯明に感じられるので、素晴らしい祭りであり、制度であり、法灯明であると信じることができる。

それらは科学的には馬鹿げたことかもしれない。

だが、科学的知識は自然・人間のほんの一部の知識でしか到達し得ていない。それが全能でも、絶対知でもないのだ。

白根山が噴火するなんてことは科学的専門家がまったく予想もできなかったことであるように、科学的知識だけでは、自らの命を守ることはおぼつかない。

 

自らの命を守るのは、自灯明としての自信と、法灯明としてのコミュニケーションである。

 

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なんとアメリカでベイシック・インカムの社会実験成功していた時があった

欲望の資本主義2018の後編

歴史家 ルドガー・ブレグマンは指摘する。

PART2 36分からの動画

ベイシックインカム社会実験は成功していたのだが・・統計ミスでご破算に

社会保障費は下がり、犯罪は減少、子供の成績は上がり、人は労働をやめなかった。

だけど ただ一つ離婚率は上昇した。50%ほど。

すると共和党など保守派は皆「ベイシック・インカムは採用しないと決めた。

女性がより独立してしまったら 男性は良い結婚生活を送れなくなる ダメだ。

こうしてベイシック・インカムはアメリカで忘れ去られることになった。

だが、わずか10年後

ある研究者が当時の統計の誤りを発見した。

離婚率は上昇してなかった。時すでに遅しだ。

偶然が絡み合った奇妙な歴史だ。

もしもアメリカがベイシック・インカムを採用していたら

影響は計り知れなかっただろう。

ーーーーーー

この統計ミス あまりにもズサンだから、権力者の陰謀なんてこともあったかもしれない。

とはいえ、

もう、資本主義を存続させるためには ベイシック・インカムは必需システムだろう。

科学は時にデータ改ざんということで ゆがめられてしまうことはどこでもあるなあ。

 

科学と金は 信用大の資本主義社会だからであろう。

 

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自然は人間にとって奇跡でもあり無慈悲でもある

人が 自分をもって 生まれたこと自体 奇跡である。

 

その自分をもった人が死ぬこと自体は 自然だと思われる。

 

生まれることが奇跡なら、死ぬのも奇跡であるはずだ。

それなのに 死ぬ奇跡を自然と呼ぶのはどうしてなのか?

 

それは なぜそうなったのか? 原因を知っているかどうか?

それだけの事である。

 

なぜ生まれたのか? 知らないから奇跡であり。

なぜ死んだのか? 知っているから自然なのである。

 

ススキの葉(かや)で鳥皿くぉ作って遊んでみた

人類のそう大差ないチンパンジーが、ススキの葉をちぎり、重ねて、結び、鳥のような姿をした、取り皿を作り、それを水飲み場に飾り、写真を撮ったとしたら、チンパンジーはその作り方も楽しむ方も知らない故に奇跡である。

だが、人間が鳥のような取り皿をススキの葉で作り、楽しんだ行為は よくある行為と楽しみと知っているから 自然である。

 

多くの人が世界の平和に貢献できず、特別な権力者や著名人しかできないと思い込んでいる。

 

今の北朝鮮核ミサイル開発をめぐる戦争危機は

一人の無名な北朝鮮兵士が韓国に命懸けで亡命したことで、金正恩の心を動かし、韓国との合同オリンピック選手団としての参加までになり、大きく平和へと舵をとっている。

どんな無名な人であり、どんな職業の人であり、自分が命懸けで自分が望むことに挑めば、世界が動く。

 

シリア難民の幼き子が親とともに命懸けで地中海を小舟で渡り、転覆して、死んだとしても、その写真が人々にとまり、大きく世界平和へと貢献したことは間違いない事実である。

 

私がススキの葉で鳥皿を作ろうとしたのは、友人が 古代稲である真菰の葉で、ゴザを必死になって作り、それを世間に薦めようとしている姿に、影響されて、真菰の葉に近い 近所にいくらでもあるススキの葉でもできるんじゃないかと ふと散歩中に思い付いたものである。

真菰の友人が私に影響を与えているとは、また私自身も影響されているのは気づかなかったが、自分のふとした行為に 人はみな微妙に影響しあっている。

特に、その人が命懸けでそれをやっている行為には影響大であり、応援したくなる。

こうした微妙な応援の力は自然な心であるが、影響波のように拡がると 奇跡的事実を引き起こす。

 

一滴の水のカタストロフィー

 

私たち一人一人の努力行為を一滴の水に例えると、

その目的が北朝鮮の平和だったならば、それを平和のコップの容器になる。

あふれだす最後の一滴の水が時の英雄として讃えられる

多くの人の目的に向かった簡単な努力の一滴一滴がしだいに積み重なって、

平和への行動へと駆り立て、最後の一滴の努力が 時の英雄として讃えられる。

北朝鮮の平和は奇跡かもしれないが、その関係国の一国民の簡単な小さな心の行為は自然な活動である。

私が単に「こうあったらいいなあ」とブログに書くようなものでもいいのである。

もし、SNSに北朝鮮の平和へのメッセージを日本の一億人がつぶやいたら、自然にその平和は訪れるだろうことは予想できるものだ。

 

人は自分の能力の限界を思い込みで決めている。

・・・・・

まほちゃん、この問題の原因は、たった”1つ”のことだよ。
それを解決したら、全部解決するんだ

あなたのコップの水はどのくらい入っている?

・・・

自分の自信も能力も 自分で決めつけてしまったときは

あがり症の人が実力を発揮できなかったり

一度自信を失うと二度と元のパフォーマンスができなくなってしまう。

あがり症や燃え尽き症候群は自分の限界と自信を決めつけてしまう

これら自信喪失の対処法は

精神療法として働きかけやすい「認知」か「行動」に焦点を当てるのが、認知行動療法である。

精神療法として働きかけやすい「認知」か「行動」に焦点を当てるのが、認知行動療法

人類増加の曲線は生物の増減のカタストロフィーからいくと、絶滅への警告がされている

人類の人口爆発曲線はカタストロフィーとして絶滅か、急減かである。安定化への道はまだ残されている

現在の世界人口爆発状況からいくと2018年の今が正念場・性念時であろう。

日本は平和憲法のおかげか、すでに人口減少している。それは安定化か、漸減かの道に分かれているともいえよう。

2018年の今はまさに正念場だ。核戦争という絶滅へのカタストロフィーは十分ありえることである

 

自然は人類にとって良いならば奇跡であるが、

人類にとって悪いならばカタストロフィー的絶滅でもある。

 

どちらに生きるか?

一滴一滴の水である一国民が平和に対して、自分のできることを命懸けでやるかどうかにかかっている。

異常気象も 異常な犯罪・戦争も、

今までの小さな積み重ねた行為から 溜まり貯まって、突然引き起こされるカタストロフィー的現象である、

 

人類が明日も存続するか、明日絶滅するか、

その瀬戸際であることは

ここ300年に起きた世界的人口爆発と経済戦争がそれを示している。

 

どんな人間も

一人一人の能力も努力も そう違いはない。

ただ、その人が平和への意思があるか、戦争への意思があるかどうかで

人類の未来は決まってしまうことは確かなことである。

 

 

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