人が 自分をもって 生まれたこと自体 奇跡である。
その自分をもった人が死ぬこと自体は 自然だと思われる。
生まれることが奇跡なら、死ぬのも奇跡であるはずだ。
それなのに 死ぬ奇跡を自然と呼ぶのはどうしてなのか?
それは なぜそうなったのか? 原因を知っているかどうか?
それだけの事である。
なぜ生まれたのか? 知らないから奇跡であり。
なぜ死んだのか? 知っているから自然なのである。
ススキの葉(かや)で鳥皿くぉ作って遊んでみた
人類のそう大差ないチンパンジーが、ススキの葉をちぎり、重ねて、結び、鳥のような姿をした、取り皿を作り、それを水飲み場に飾り、写真を撮ったとしたら、チンパンジーはその作り方も楽しむ方も知らない故に奇跡である。
だが、人間が鳥のような取り皿をススキの葉で作り、楽しんだ行為は よくある行為と楽しみと知っているから 自然である。
多くの人が世界の平和に貢献できず、特別な権力者や著名人しかできないと思い込んでいる。
今の北朝鮮核ミサイル開発をめぐる戦争危機は
一人の無名な北朝鮮兵士が韓国に命懸けで亡命したことで、金正恩の心を動かし、韓国との合同オリンピック選手団としての参加までになり、大きく平和へと舵をとっている。
どんな無名な人であり、どんな職業の人であり、自分が命懸けで自分が望むことに挑めば、世界が動く。
シリア難民の幼き子が親とともに命懸けで地中海を小舟で渡り、転覆して、死んだとしても、その写真が人々にとまり、大きく世界平和へと貢献したことは間違いない事実である。
私がススキの葉で鳥皿を作ろうとしたのは、友人が 古代稲である真菰の葉で、ゴザを必死になって作り、それを世間に薦めようとしている姿に、影響されて、真菰の葉に近い 近所にいくらでもあるススキの葉でもできるんじゃないかと ふと散歩中に思い付いたものである。
真菰の友人が私に影響を与えているとは、また私自身も影響されているのは気づかなかったが、自分のふとした行為に 人はみな微妙に影響しあっている。
特に、その人が命懸けでそれをやっている行為には影響大であり、応援したくなる。
こうした微妙な応援の力は自然な心であるが、影響波のように拡がると 奇跡的事実を引き起こす。
一滴の水のカタストロフィー
私たち一人一人の努力行為を一滴の水に例えると、
その目的が北朝鮮の平和だったならば、それを平和のコップの容器になる。
あふれだす最後の一滴の水が時の英雄として讃えられる
多くの人の目的に向かった簡単な努力の一滴一滴がしだいに積み重なって、
平和への行動へと駆り立て、最後の一滴の努力が 時の英雄として讃えられる。
北朝鮮の平和は奇跡かもしれないが、その関係国の一国民の簡単な小さな心の行為は自然な活動である。
私が単に「こうあったらいいなあ」とブログに書くようなものでもいいのである。
もし、SNSに北朝鮮の平和へのメッセージを日本の一億人がつぶやいたら、自然にその平和は訪れるだろうことは予想できるものだ。
人は自分の能力の限界を思い込みで決めている。
・・・・・
まほちゃん、この問題の原因は、たった”1つ”のことだよ。
それを解決したら、全部解決するんだ
あなたのコップの水はどのくらい入っている?
・・・
自分の自信も能力も 自分で決めつけてしまったときは
あがり症の人が実力を発揮できなかったり、
一度自信を失うと二度と元のパフォーマンスができなくなってしまう。
あがり症や燃え尽き症候群は自分の限界と自信を決めつけてしまう
これら自信喪失の対処法は
精神療法として働きかけやすい「認知」か「行動」に焦点を当てるのが、認知行動療法である。
精神療法として働きかけやすい「認知」か「行動」に焦点を当てるのが、認知行動療法
人類の人口爆発曲線はカタストロフィーとして絶滅か、急減かである。安定化への道はまだ残されている
現在の世界人口爆発状況からいくと2018年の今が正念場・性念時であろう。
日本は平和憲法のおかげか、すでに人口減少している。それは安定化か、漸減かの道に分かれているともいえよう。
2018年の今はまさに正念場だ。核戦争という絶滅へのカタストロフィーは十分ありえることである
自然は人類にとって良いならば奇跡であるが、
人類にとって悪いならばカタストロフィー的絶滅でもある。
どちらに生きるか?
一滴一滴の水である一国民が平和に対して、自分のできることを命懸けでやるかどうかにかかっている。
異常気象も 異常な犯罪・戦争も、
今までの小さな積み重ねた行為から 溜まり貯まって、突然引き起こされるカタストロフィー的現象である、
人類が明日も存続するか、明日絶滅するか、
その瀬戸際であることは
ここ300年に起きた世界的人口爆発と経済戦争がそれを示している。
どんな人間も
一人一人の能力も努力も そう違いはない。
ただ、その人が平和への意思があるか、戦争への意思があるかどうかで
人類の未来は決まってしまうことは確かなことである。