般遊 改め 自遊 を吾がモットーとす

自然に遊ぶ

著名な博山さんに般遊の書を書いてもらったが、

その言葉も書も博山氏のものであり、自分の言葉でも書でもない

自信を持って生きることが、若者への命のバトンであるから、

下手な尺八でも、下手くそな書でも、自分の好きなことが出来ることで満足することが、一番の自信であり、楽しみであるという意味を込めて、書いた。

般とは一般のように全ての意があるが、全ては一部に対しての言葉で、ハッキリとした姿を捉えづらいので、人に対しての自然の方がスッキリと掴みやすい。

遊ぶというのは、ああしてはいけない こうしてはダメというものはなく、何してもいいという自由と楽しさがあるものだ。

 

自由という言葉は、自分の思い通りになる様なニュアンスがあるので、自遊という言葉にすれば、自分と自然が一体となった境地における真の自由という意味合いが強くなる。

自然に自由に遊んで楽しく生きる

人は自然に合わせないと自由になれない。

肥満のように食べ過ぎたり、飢えのように食べなさすぎたり、するのが、不自然であり、人為的、欲望的であるのだ。

体温のように、丁度いい温度を保とうとするのが健康的、自然的であり、自由は自然をベースとしなくては成立出来ない。自由だからといって、誰を殺していい、自殺していい、というのは。真の自由ではなく、人為的に造られた偽の自由である。

人は殺し合わなくても、自然の生死は人が何も為さずとも繰り返し、存続する。人の生死も、自然に合わせるのが一番安らかで、楽しい生き方死に方ではないだろうか。

窓から見る富士山を実がならないイチジクの木が邪魔なので切り倒し、朝焼けの風景を楽しめるようにした。

日の出とともに起きると、今日一日が自遊に生きられるような勇気が湧いてくる。

 

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陸稲作の困難さ

稲が15センチばかり育ったあと、10日間、畑を放置し、草刈りを怠ったけっかは、9割が雑草に、1割が稲になり、辛うじて稲はいきのこっていた。

その稲を救出するためには、通常の草刈りはできない。大きく繁茂したざっそうのかげに、成長を阻害され、小さく、今にも消えゆく運命の稲は息絶え絶えにいるからである。

つまり、通常の草刈りをしたら、全く稲も一緒に刈り取ってしまい、もとの大地に戻すしかなくなり、今年は稲作をあきらめ、来年に再挑戦するしかない。

だが、ピンチはチャンスにもなるのが、自然と人類の間にある知恵と愛という奇跡の技である。

雑草と稲を根っ子ごと全部抜き取り、1割の稲を一本一本救出し、それを水に浸し、苗として、まっさらになった畑に、植え込もうとした。

8月中旬になってからの田植えならぬ畑植えである。

この作業、気が遠くなるはどの手間と時間がかかる。全部はとても無理だが、自分ができるまでの稲救出作業を楽しむしか道がないようだ。

来年は失敗の手間も考え、稲と麦は二毛作せず、しかも60坪ずつの一毛作の稲麦専用畑のして、他は野菜に切り替えよう。

陸稲は6年目の挑戦だが、実に難しい

水田ができる土地を持っていたら、それは実に幸運なことである。

雑草対策が陸稲よりもずっと楽だからである。

 

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稲とヒエの見分け方と理想と現実

陸稲の芽が15センチ頃、10日間の旅で、雑草取りを放置したら、

なんと雑草が8割、稲2割になっていた。

雑草を根っ子ごと引き抜くのは、小型の鎌と一緒でないと難しい。

雑草は、稲よりも高く、広く繁茂して、小さな稲は消滅してしまっていた。

放置前の陸稲畑

 

10日放置後の陸稲畑

雑草と稲を分けるとき、一番難しいのは、

稲と稲もどき(ヒエ)の区分けである。

根元が赤くなり、茎が少々柔らかいのがヒエだと思っていたら、

なんと、根元が白く、茎が稲と同じくらい固く、平べったいのがでてきた。葉の色も葉脈も同じ色、穂が出てみないと分からないのでは、稲はヒエに殺されている。

左がヒエ 、右が稲

ヒエは、稲より成長が早いので、畑全体で、背丈が一番高く、しかも横に大きく広がって、稲を押しのけている。

だが、そんな勇猛なヒエが、ひょっとすると稲だったらという期待が抜き取るのを躊躇させる。

区分け方をネットの力で知るしかない。

葉耳と、葉舌があるのが稲で、無いのがヒエで区分けできる。

吾輩の迷いは

よく見ないと葉耳と葉舌が小さくて見えないというより、見たくないことだ。

こうした、真実を知るのを阻害するのが、

2割になった稲が、大きく強く成長してほしいという願いが目を曇らせる、ネットで、見分け方を探るのを止まらせる。

真実を知るのはけっこう勇気がいるものだ。

特に理想が強く、現実に打ちのめされている時がそうだ。

また、

陸稲畑にはえる雑草にはほうれん草のように食べられるものもあり、ヒエだって、今は鳥の餌になっているが、人にだって食べられていた。

ちなみに、

うちの陸稲畑の雑草をすべて、湯がいて、鰹節と醤油で食べて見た。

みな味は変わらないが、

柔らかい葉と茎は美味しく食べられ、硬い葉と茎は繊維がかみきれないので、喉でひっかかる。

葉と茎が柔らかく、食べられる種類はイヌビユとスベリヒユの2種類だけであった。

イヌビユ

スベリヒユ

 

うちの畑は朝顔がやたら繁茂する。写真の朝顔の下にある松葉ボタンのようなのがスベリヒユだ。

朝顔も茹でて食べたが、茹でた見かけは三ツ葉だが、茎は硬く噛みきれないので、観賞用、畑では、稲を覆う蔓で、日差しを遮る困った雑草である。

理想と現実

少々大きなヒエをその根っ子ごと引き抜くと

 

コロコロ草、ヒエ、そして稲の割合は

4 : 5 : 1 であり、それは10日間草刈りせずに放置した結果とリンクする。

稲は雑草に9割り占領され、わずか1割が、なんとか生き残ったが、

もし、このまま草刈りせず放置すれば全滅は数日で起こり得ることを予想できる。

理想と現実の差はかくも厳しい姿をさらしている。

 

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心頭を滅却すれば火もまた涼し

ラストサムライの老夫婦を東京から徳島の大学授業講義のための運転ボランテイアをした6日間、

夫の間違った施術と、妻の執拗な嫉妬によるイジメが、尊敬するボランティアスタッフの女性にされたため、

私は怒り心頭して、このラストサムライ夫妻を怒鳴り、帰りの運転を放棄しても、怒りは収まらなかった。

と同時に、常に頭に何度も浮かぶ言葉が

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」

であった。なぜ、なんどもうかんでくるのだろうか???

その意味を検索してみたら、故事ことわざで、

心の持ち方ひとつで、いかなる苦痛も苦痛とは感じられなくなること

とあるので、

「ものは考えようで、どんな怒りも笑いになっちまう」

というメッセージが自分の心の内からとびでてきたようである。

怒りを笑いに転じるには、少々遊びが必要にようだ。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」を簡単に英訳すると、

Fire also cool if the destruction of the shaking.

由来は
中国の後梁(こうりょう)の時代・・六世紀・・の詩人に杜筍鶴(とじゅんかく)

炎天下、悟空上人、
灼熱を避ける一株の松も一本の竹もないところで
一枚の破れ衣を着て相変わらず座禅

安禅必ずしも山水を須(もち)いず
心中を滅得(めっとく)すれば火も自(おの)ずから涼し

この言葉を有名にしたのが、

私が住む山梨市の隣の塩山にある恵林寺の快川招喜禅師が焼き討ちされるときに現実に起きて発した言葉である。

その恵林寺の門前で歌う森高千里

怒りの反対語には3つあるが、喜び、笑い、悲しがある。

私の意識はこの時点で、怒りが悲しになり、ラストサムライ夫婦が可哀そうに映ってきた。

二人は虚栄心で、自分の弱さをカバーしている。

それを小説にして描写すると、悲しい姿になるが、漫画にすると笑いになる。

そして、

ラストサムライ運転道中によって、その教えも演出も、開祖 柳生宗矩(むねのり)の心とは真逆になっており、それは消えゆき、江戸城の無血開城、現在の憲法9条への平和武士道へと引き継がれるものでないことを知った。

でも、彼らが反面教師とすれば

何が一番大事かということを教えてもらい、

2019年 8月6日 午前8時に 留学生とスタッフ3人とで、

NO MORE HIROSIMA

の平和の祈りを5分間できたことは、今も続くこの上もない喜びである。

そして、

次の目標が

Natural  Peace&Helth

に大きく動き出したことは怒りが炎をなって、天に昇り、青空に吸い込まれるような感じである。

 

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稲の芽が出てきた

梅雨時なのに、ほとんど雨が降らない。

台風明けからずーっと降ってない。

昨日は雨の予報だったのに、ずっと晴れ間だ。

天然の雨に頼れなくなったので、水撒きしようとしたら、

1週間前の台風雨で濡れた、畑の一箇所から稲の芽が出てきた。

やったぞ!

嬉しさひとしおである。

稲より先に雑草の芽の方が早いので、それを取りながら水やりをすることにした。

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