意識は時空を超えて共振しあい奇跡を起す

手足の筋肉を動かす神経は電気信号で脳に送ります。脳は手足に確認の電気信号を返します。

もし、脳から返す電気信号が他人の手足の筋肉に行けば、その手足が同じように動くという実験です。

脳と手足や内臓は神経でつながり、それは電気信号。電波で相互に動きを確認しあう、いわば共振しているということがこの実験でわかります。

脳と手足が神経で共振しまうように、人の意識と意識は神経回路なしに、時空を超えた無空間でつながっているとしたら、共振した意識はともに同じように行動するようになるはずです。

同じ時期に、空間を超えて、また、かなり年月がたっていても、時間を超えて、同じ発明がされるということがあります。

自分と同じような考えをする人がどこか、また歴史上に、必ずいるような経験が何度もあります。

それを偶然とか奇跡とかいうけれど、もし意識が共振しあい、行動を同じくさせるという事実があればそれらは納得できることになります。

意識が空間を超えるのは無線のように電波で送信受信されるというのは解る。

だが、時間を超えることができるというのは、

例えば、縄文土器をみて、その土器の形や模様をみて、その時代を生きた人の意識を感じ取ることができるのは、そういう事例ではないだろうか。

私は毎日稲の雑草抜きをしているが、稲は毎年実をつけ、枯れを繰り返す。それは5000年前も同じであっただろうし、人類だって、生き死にを繰り返すのであるから、同じような生き方をすれば、意識も共振しあうことができるといえよう。

同じような生き方をしていない他の動物との共振は難しいが、同じ人類同士はその意識が共振しやすいといえるだろう。

今はSNSの時代で手軽にいつでもどこでもだれとでも意識が共振しあえる環境があり、昔の祈りのような意識を持たなくてもよくなっており、むしろ、祈りの技術というのが、科学的な脳神経や意識の共振という形で発展できるようになってきている。

著名人の意識が大きく世界を動かすのは昔のことだ。今では、誰でも、自分の意識一つで、大きく世界を動かすことも可能な時代になってきたともいえる。

ちょっとしたブログやツイッターまたフェイスブックなどで、つぶやきと、それがもし共振したら、あっという間に社会変革に結びつくという現象がいくつもみられる。

自分の健康もそうだが、病気は医者任せにせず、自分で治すという意識があるとないとでは大きな差がでる。

それぞれ自分自身の意識ほど、他のすべてに勝る宝であり、自分も社会もそして人類が向かう原動力であることは疑う余地もない事実ではないだろうか。

意識が時空を超えて繋がるとしたら、一時の命以上の宝物であり、大事なものであるということだ。

 

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意識は時空を超えて繋がっている

この動画の5.45~7.45で、家の柱のような四角い構造は壊れやすいが、それと三角錐の柱で支えると堅固になる。

四角家を堅固にするにが三角錐構造が必要

 

6本の箸と6個の輪ゴムで作ったテンセグリティーをよくみると、

6本の骨はみな4本の腱で繋がっている

6本の骨の箸はみな4本の腱ゴムで繋がっている。

そして

1本の骨を中心に四角形を描く

一本の骨箸は二本の骨箸とで、四角形の腱ゴムを描く

さらに

3本骨は三角形の腱ゴムで繋がる

3本の骨箸は3本の腱ゴムで三角形を描き繋がっている。

四角は柔軟構造、三角は堅固構造を示しているように思える。

 

また

テンセグリティーの中心は空間である

テンセグリティー全体の立方体の中心は空間であって、中心になるものは存在しない

立体のテンセグリティを平面で表すと、六角形ができ、6感覚器官と5W1Hを当てはめてみると

6本の骨が対の6個の腱で繋がる六角形ができる

6つの感覚器官が意識する中心には何もなく、5W1Hの問題意識の中心のには何もないが、

6つの感覚・問題は意識として真ん中で交差し、つながっている。

6つの感覚器官は自分の身体の中の神経で繋がっているが、他人とは神経では繋がっていないのに、意識でつながることができている。

意識という実体はないが、ちょうど無線のように電波でどこの空間にも飛ばすことも、受け取ることもできる。

過去未来の人の気持ちも感じることができるのは、時空を超えて意識はつながることができるのではないだろうか?

時空を超えるだけでなく、生きているものすべてにも、微妙にも意識はつながることができるのは、命あるものとして共通した存在同志だからかもしれない。

命は一つ、人類は一つ、といっても、意識レベルでは通用してしまうのもそのためではないだろうか。

 

今の北朝鮮の核ミサイル威嚇で戦争の危機も、

意識が時空次元を超えて繋がっているとしたら、

「ピンチはチャンス。生きてる限り、殺さない限り! 最終解決は武力や金力ではできず、問題を増幅させる 江戸幕府の大政奉還、無血城ごとく 金正恩の意志一つで、韓朝和平統一するチャンス 」

として、金正恩に対して、祈ったりしたら通じるかもしれない。

そういう戦争より平和を求める世界各国の多くの意識を、具体的に、好戦的な金正恩の意識に対して、改めるように祈ることは効果的ではないだろうか。

もちろん、彼が信用する人が直接伝えることができた方がぐっと効果的だ。

だが、テンセグリティで意識がすべてに繋がっているという事実があるなら、祈りは抽象的ではなく、具体性のある祈りであったら、ツイッターのつぶやきのような言葉でも、革命がおこる時代だからこそ、誰でも一人で。できる祈りつぶやき平和運動は実に効果的であると思えるのである。

どんな社会変革も、一人の意識から始まる。その一人は有名人でもなくとも、どんな人でも意識すれば社会変革ができるということである。

 

 

 

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5W1Hと眼耳鼻舌身意(六根)

身体が動く中心はどこにあるか?

身体を社会とすれば、社会が活動する中心はどこにあるか?

身体を動かす中心は頭の脳にあると感じられるが、脳死でも身体は植物人間のように生き続けることができるし、

脳の意志で、身体全部を動かせることはできない。

古来から、社会の構造も統一された中心である王や政府がないとその社会は平和になれないとしてきたが、王様がいなくても、首相がいなくても、その社会はそのまま維持できる。

お金のシステムも、中央銀行だけがお金を発行し、管理することで、成り立つと信じられているが、ビットコインのように、ブロックチェーンで中央銀行がなくても、お金を発行管理できる。

王様がいなくても、民主主義システムで、大統領も首相も立てて、国の運営できる。

身体をテンセグリティ(張力統合体)として、成り立つとしたら、最低6本の骨(箸)とそこに伸縮二本の筋肉(輪ゴム)が6個必要である。

最低限のテンセグリティの作り方

割り箸1/4 6本、輪ゴム6個

割り箸の両端溝に輪ゴムをかける

H形で真ん中二本の橋は紙テープで止める

真ん中の中心に残り二本を立てる

ゴムの中心箸溝をひっかけて出来上がり

このテンセグリティの中心には何もない。しかし、一本が動けば、他の5本が動く。

6人のバレーボールチームが最強に働くときは、

1 for all. all for 1 であるが、リーダーがいても、その6人の1人にすぎない。むしろ、6人全員がリーダーであり、部員である。

仏教でいう司令塔のリーダーの役目をするのが感覚器官の六根であり、五感と意志の眼耳鼻舌身意であり、いわば

見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・思う

それらの感覚器官は「脳の思う」が中心であるとはいえず、6感覚の1つであり、六感覚すべてが中心であり、テンセグリティで繋がっているといえる。テンセグリティの立体の球心には何もない空間であるが、無また空の中心があるようにさえ感じることもできる。

頭が中心の構造

五感と意志の6つそれぞれが中心1 for all, all foe 1

人が問題を解決するために、いろいろ考え、いろいろなことをして、その結果の事実から判断していく。

それは問題解決は6つの感覚で一つ一つ確かめながら進んでいくようなものである。

その6つの感覚を頼りに進むとき、具体的事実を明解に記述する5W1Hの6つの疑問を頼りに、問題解決をすることができる。

5W1H問題解決と6つの感覚

5W1Hというのは、新聞記事を書く場合、物事を正確に記述し、読者にきちんと伝えるための最低限の内容である。そうでないと、、群盲象を評すように、一部抜粋のような、いくらでも読む人の解釈で全体像が変わってしまう。

考えただけでもダメ、見ただけでもダメ、やってみただけでもダメで、最低限5W1Hが整って初めて、問題解決の道がはっきりと解ることができる。

身体の健康も、社会の平和も、この6つの方向感覚で安定を維持できるように思える。

 

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灯台下も明かし

陽の出入り 灯台下も  照り明かし

私が今尊敬し、応援したい人が3人いる。

O教授とK医師とM婦人である。

3人共通しているのは、自分がやっていることがどれほど社会が必要としていることであるか、気が付いていない。

灯台下暗しである。遠くの他人のすばらしさに灯りを照らすのはできるが、自分自身のすばらしさはまったく照らすことができないでいる。

という私も最近

長年の友人I氏に数十年ぶりに会い、自分がやってきたゴリラ便のすばらしさをとうとうと語られて、「自分がやってきたことがそんなにすごいことなんだ」と、自分はただの失敗作(株市会社ゴリラ便には社会的需要がないとして30年続けたが解散した)と思い込んでいたが、訂正させられた。

言われてみれば、ゴリラ便はオンリーワンであり、他の同じような会社は世界中どこにもない。

 

このオンリーワンに気付くことが、「灯台下も明かし、「自信を持つ」ということである。

また、昨日のことだが、渋谷区役所から、親から続けてきた100年も続けているフリマ笹塚の店の日除けテントについて、その使用取り消し注意の手紙がきた。

 

それは商店街で店先の商品を並べると、怒り出す通行人がいて、それを警察や役所にクレームをつけ、その担当者を連れて営業停止までに、追い込もうとした。その異常なほどのクレーマーの態度は、まさに100年ぶりの出現である。

その流れが、100年も続けてきた日除けテントの使用許可取り消しまで、役所が動いたことがとても信じられないことだが、たった3.5坪の店の店先に出す商品や日除けテントに、しかも、ほとんどその店の経営は赤字続きで、自分の労賃はまったくでず、ボランティアとして数十年続けている店への営業妨害のような法律をたてにした一通行人と警察と役所の行為に、嫌気がさして、今年一杯で、店を閉めようと思った。

それを店スタッフのN氏と夜中中ラインでトークして、私自身ふと気が付いたことは、「フリマ笹塚のようなネットと店を使った経営の一店舗のフリーマーケットは世界中どこにもない、オンリーワンであること」だった。

儲からなかろうが、どんなにクレームがこようが、社会的にオンリーワンで在る限り、存続する価値があるということである。それは自信を持って店を続けていいという声が地の底から聞こえてくるような感じがした。

フリマ笹塚の店は株式会社ゴリラ便が生まれ変わった姿でもある。

また、倉庫付駐車場についても、オンリーワンの経営なのである。当初3年も全部うまることがなかったのに、今では空きをまつ顧客が二軒いるほどになっている。今までで、不動産屋独自の広告での紹介は一件もなく、フリマ笹塚の店で大きな看板広告を出して、その不動産屋さん経由また、直接契約で得てきた顧客である。

不動産屋ではただ駐車場としてしか、広告できないからである。倉庫付駐車場などというジャンルは不動産広告にはないから、それを目当てに探す顧客はいないからである。そのため、独自に現場近くのフリマ笹塚の店で広告宣伝しなければ顧客をえることはできないことである。

このようにオンリーワンであることに気が付けば、それに自信を持って続けていい・生きていいということである。

私が今尊敬し、応援したいO教授とK医師とM婦人も、みな社会的にオンリーワンのことをしている。ただ私のように儲からないどころか、出費がかさむ地味なボランティア活動であるので、その行為に自信が持てず、弱気になりやすいのが難点である。

数か月前に、徳島大で、授業の冒頭に5分間、「生まれつき音痴な私が、才能なさにやめた尺八を、50年後、再び楽しむ自信ができたので、才能よりも好きだということに自信を持って生きていってほしい」という命のバトンする話がけっこう好評だった。

オンリーワンなのに、自信を持って生きている人があまりに少ない。

そうした持たなくていい一種のコンプレックスを持ってしまう人は、他人のおごり(嘘の自信)に騙されてしまい、その他人にいいように洗脳され、盲信・迷信させられ、従属して、自分の人生も周りの人生も台無しにしてしまう危険性が高い。

日本人の15才~39歳までの死亡原因のトップが自殺である。今、またこれからの時代を担う若者がいかに自信が持てず、自殺に追い込まれる社会風潮であることがわかる厚生省の統計である。

日本国憲法9条がある戦争放棄する平和憲法は世界でオンリーワンであり、それを世界に向けて自信をもって知らせ、誇りをもって、存続させていい、日本の魂と文化歴史の宝物である。

その自信のなさ、他国と比較しての持たなくてももいいコンプレックスで、憲法改正などとうたう必要もないことだ。

もうそろそろ、「灯台下も明かし」する灯台も出てきてもよさそうな時代である。そうすれば、「下も明かす灯台」に沢山の観光客が集まり、憩うだろう。

 

 

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アウフヘーベンしようぜ!?!?

徳島の知足庵における3か月毎の「健康と自然の会」は発足してから、丁度1年になる。

私自身、残りの人生の仕事を「健康であること」として、友人と同じ目的に共感して、その参加理由に、旅と予習復習と思索を楽しんだ。

健康という仕事は3年前からダイエットに取り組み、肥満体重82キロから、現在の60キロになるまで、リバウンドとリダイエットを繰り返しながら、やっと、ストレスなしに今の健康体重59キロ~63キロの間に落ち着いてきた。

実際の仕事といっても、金銭が介入しない畑仕事とくに陸稲の自然農法を成功させることであり、それは7年前から試行錯誤して、なんとか、毎日雑草刈りすればできるという自信が持てるようになった。また、昨秋ドイツから輸入した古代麦が自然農法で、今年豊作であったこともあり、自然農法も落ち着いてきた。

私にとって「健康と自然の問題はある程度一段落したことと、呼応するかのように、知足庵の健康と自然の会も、ある程度の結論がでて一段落し、1周年9月開催が流れ、呼びかけられたのは、来年の2月のモンゴルスタディツアーになった。

「健康と自然」のテーマは、「グローバル社会におけるグリーンツーリズム」のような大きなテーマになってきた。

このテーマの昇華と変更には戸惑いがあり、私自身の中で、「アウフヘーベンしようぜ!」という問いかけが聞こえた。

アウフヘーベンドイツ語の aufheben

auf は on とか up で、上に という意味の前置詞である。

heben は lifting handling hoisting とかで、持ち上げるという動詞また名詞である。

このアウフヘーベンはドイツの日常会話でよく使われるが、それが戦後日本で、ドイツ哲学者ヘーゲルの正反合する弁証法が有名になり、正反する事象の次元を上げて合するアイデアを出すことをアウフヘーベンといい、日本語で止揚また揚棄する哲学用語が流行した。

アウフヘーベン(止揚)の意味は正を花は美しい、反を花は枯れて汚いが、止揚して合が、花は実となる

アウフヘーベンしよう(止揚)ぜ!

また、真正面から見ると三角だが、 底面から見ると丸であるが、全体から見ると円錐形である。

正は三角、反は円、合は円錐形

弁証法が必要なことは、

群盲象を評すとか、木を見て森を見ずとかいうように、

「物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう」

群盲象を評す

物事の一部だけをみて、それが全てだと言い切る争いが絶えず、それが殺し合いの戦争になったりもする。

「みんな違ってみんな良い」 金子みすゞの詩は、

みんな違った一部だけをみた観方はみんな正論である。自分だけが正論だと争うのは群盲象を評すようなものであり、馬鹿げている。みんな違った正論を合わせてアウフヘーベン(止揚)すれば、真実の姿が見えてきて、平和で良い人間が浮かび上がって見えてくる。

「みんな違ってみんな良い」はみんな違った個性を認めて、アウフヘーベン(止揚)して、全体の良き真実の人間を味わう態度を詠っているように思えれる。

内乱があったとき、そこに大きな外敵が攻め込んできたとき、内乱した者通しがまとまり、共通の外敵に立ち向かうということが歴史上よくあることである。

大体、どうでもいいことを争うことが多い現実であるが、そうしたもめ事は群盲象を評す状態であり、それらはより全体的、より次元を上げて、広い視野に持っていくと、平和的にまとまる。

今年8月の知足庵へのラストサムライ道中において、腱引きと柳生心眼流との喧嘩に巻き込まれてしまい、私は怒り心頭して、帰りは車運転手をせず、新幹線で帰宅した。だが、その怒りも二日ほどで治まったのは、自分の中で、両者をアウフヘーベン(止揚)したからである。

「健康と自然」の問題も、もっと大きな「平和」という問題に、アウフヘーベン(止揚)つまり広い視野(テーマ)にすると、より良い真実や人間が見えてきたという実感がある。

自分個人の問題をもうちょっと広くした人間関係社会問題の次元に引き上げると、より楽しい余生ができそうで、

命のバトンも、自分が生まれた終戦時の平和への祈願は時代の魂のバトンにアウフヘーベン(止揚)してきた。

「平和なくして、健康も自然もなし」

それが戦後まもなく生まれた私の時代魂を次世代へバトンをわたす最後のお勤めにも感じてきた。

北朝鮮がいつでも日本で稼働している原発にミサイルを落として、広島、福島のよりももっと悲惨な戦争を起すことだって可能な情勢である。

自分が生まれてきて死ぬまでに、自分ができる平和活動が何かしらあるかもしれない。どんなに些細な予防対策であっても、やりがいがあることのように思える。それが自分の病気予防の健康対策と同じような原理が戦争防止平和対策にアウフヘーベン(止揚)できそうな気もする。

 

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