六角形のテンセグレティに挑戦したが

五角形のテンセグレティは箸30本でできるが、

同じ方法で六角形で作ろうとしたら、

ここまで90本だがーーー

正面からみて、果たして球形になるかは??

最小単位のテンセグレティは6本、

五角形のテンセグレティは30本

同じ方法で六角形を作ろうとしたら、

写真で90本だから、その6面の540本必要だと予想でき、

材料もなく、作るのも途方もなく時間がかかる。

完成したとしても、かなりデカいので、室内では邪魔だし、壊すのも惜しまれる。

なぜ六角形でできるかを挑戦したかは、身体や社会の構造を考えるヒントになると思えたからである。

ちなみに

同じ方法で、四角形で作ろうとしたら、右下の写真のように、8本で山形になり、回るくならない。四角形は最小単位の6本だと考えていいだろう。

六角形で、はたして、球形になるかどうかは、実は怪しい。

それは、隣合わせの二本を合わせないと、回るくならない。3周目までできたが、4周目以降、双曲線のように、どこまでも広がって行き、球形にはならない。

それに気づき、4周目まで、バラして、隣の二本がくっ付く場所を探したが、それがどこにも ない。

再び慎重に隣合わせの二本を探しながら組み立てたがないのだ。

球形にするには、どうしても途中で五角形に変更しないと隣合わせのの二本をそのまま合わせられないのである。

これは、きっと奇数の多面体なら、球形になってまとまるが、偶数の多面体は拡散していく。それは、物事を決定する時に、半々になったら、決断できないようなものだ。

テンセグレティの基本は三角形であり、また、支柱のゴムをつなぐのも三等分でないと、まるくできない。

問題が発展してしまうのは矛盾また平行線の集まりである時だ。

正反のままだと、統合失調症また分裂病みたいになり、納まりがつかなくなる。正反合なくして、歴史は進まないとも言えそうだ?

夫婦だってそうだ。2人の間に子が居なければそこで家族は途絶えてしまう。子を産むか、養子をもらうかで、子孫が続いていくようなものである。

 

奇数は治まり、偶数は展開の目安にして、物事の問題を解決に導くのがコツのようである。

 

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民間療法を考える

詐欺的ビジネス

 

最近、snsの広告で、ケーブルテレビを低周波電波で受け取り観れるというアンテナと増幅器アンプを合わせて70ドルで米国の通販から買った。

来たものはチャチでまるでおもちゃであり、アンテナをつけてみたが、何も映らなかった。

文句言おうにも、相手は米国だ。返品するにも金がかかるし、返金だってドルから円だから、ややこしく難しい。つまり、海外を狙った文句も返金も、しにくい、詐欺ビジネスである。

なぜ騙されたかというと、ケーブルテレビはみな法的に低周波の電波放送が義務付けられ、それが受信できると信じてしまったからだ。日本と米国の差がなく、受信できると信じ込んでしまった。

詐欺ビジネスー米国から

 

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腱引きという伝統療法?

 

こういう文句や返金されにくい詐欺ビジネスは、いろいろな分野であり、民間療法でもあるようだ。

仰天ニュースで、米の34才のトップモデルが首の痛みで、カイロプラクティックに何度か通ったあと、8日後死亡した。それが椎骨動脈解離は血管が破れのが、原因であり、検視の結果はカイロプラクティックの施術による損傷となっていた。

カイロプラクティックは米国では国家資格であるが、日本では国家資格ではない。

日本の手技療法として国家資格があるのは、医業類似行為の按摩、マッサージ、指圧、柔道整復術があり、医師の指示においてされる理学療法がある

「国家資格がなければ、人体に「触る・なでる・揉む・叩く・擦る・押す・身体の他動的操作および自動運動とその誘導」など総ての手技療法行為を業として、又は金品の授受が無くとも継続的に行うことは出来ない。違反した者には50万円以下の罰金が科せられる。しかし、厚生労働省の見解はヒトに害の無い限り取り締まりの対象とは出来ないとしている」

健康と自然の会において何度か紹介される「腱引き」は国家資格もないだけでなく、伝統療法また民間療法としても、ほとんど認知されていないが、それを発展変化させ実施しているのは医師であるから、なんら問題はないが、医師でない者が、腱引き療法とか、柳生心眼流の伝統療法しての施術は、国家資格法に違反するだけでなく、病人をさらに悪化させたりしたら、厚生労働省も取り締まらざるをえなくなる。

腱引き療法が柳生心眼流からの伝統療法とされており、その伝承者が腱引きを習う健康人に対して、施術を教える際、極度の痛みを伴うようにしたことが数回あり、そのため、伝承者と腱引き側の間にもめ事があった。

そのもめ事のようなことが、健康と自然の会で、伝承者と腱引き者の間であり、私も隣にいて、医師ではない伝承者の手技療法は明らかに健康人を怪我と心的損傷を与えることが解った。

そのため、伝承者の運転手役を放棄し、腱引きが柳生心眼流の伝統療法からくるという腱引き療法にも、疑問が生じた。

私自身、その伝承者にも、腱引きをされる者にも、何度か手技されたが、唯一指の痛みがあったのが、それが治ったことも、またそれ以外の何をされても、何の効果もあったことはない。

つまり、やっても、やらなくても同じで、ただ記憶に残るのは何ら問題のないところを圧迫し、痛くされた時の痛み感覚はずっと残っている。そして、「治っただろう」という繰り返しの催眠術のような暗示にうやむやに答えるしかない妙な体験をさせられる。

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西洋医学が安全か?

 

さりとて、国家資格のある西洋医学の病院での治療も、同じようなことがけっこうある。病院にいっても、いかなくても、同じ結果であること。

歯科医院なんかでは、何度も通えば通うほど悪化していったことが何度も経験している。叔母が癌で高齢のため手術を拒否して、同じ母が叔母よりも数年後に癌になり、すぐ手術して数か月で死んでしまったが、叔母はその後数年先まで生き延びた。

信じられない医療事故だって、ニュースにならないものを合わせたら、民間療法と同じくらい事故があるのではないだろうか。

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健康になるには

 

「自分の命は自分で守る」

ように、

「自分の健康は自分で守る」

「医者にも頼らず、民間療法士にも頼らず、自分で研究し、自分で治す」

「医師や民間療法士を指示するのは自分であり、指示されたことを吟味し実行するかしないかは自分で決める」

いわば、

健康になることは、学ぶことと同じではなかろうか。

医師は治療し、先生は教える。

教えることはソクラテスは産婆術であるという。

治療もまた教えると同じく、産婆術である。

赤ん坊を産みだすのは妊婦である自分であり、それを手助けするのが産婆である。

健康を生みだすのは病人である自分自身であり、それを手助けするのが医師であり療法士である。

赤ん坊は産婆がいなくても、ほとんど知識がなくても、一人で産みだすことはできる。どんな動物でもそうであり、人間だけが産婆や医師が必要というわけではない。

つまり

健康という赤子は産婆の手助けがあっても、なくても、生まれてくる。これを自然治癒また自然出産とでもいえるだろう。

自然治癒にどうしても必要なことは、自分の健康は自分で守るという意志である。この健康への意志を免疫力ともいえるものではないだろうか。

自分がどう生きる、どう健康になるかを決めるのが自分だけであり、他が決めることはできない。

癌になって、あと何か月を命ですということが当たるも八卦当たらぬも八卦であるようなものである。それを信じるのも、信じないのも自分自身である。

健康にとって、ストレスのないダイエットは必要だが、その方法も、その実施も、決めるのは自分であり、他人でも、科学者でも、経験者でもない。

今まで多くのことを学んできたが、そのほとんど役に立ったことは教えられたことではなく、自分で調べ考え、実験して得た知識経験である。

健康も、自分で学ぶように、自分で健康になることが最も効果のある方法だと思う。

 

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30本のテンセグレティが出来た

割り箸と輪ゴム6本ずつで、最小のテンセグレティは出来ていたが、

陸稲の雑草抜きも一段落したので、

同じ材料で、30本を挑戦した。

自力での試行錯誤の末、ギブアップして、ネットで解答を見て完成した。

 

張力総合体30本

写真の白黒の塔は、公私の5対5の割合が、瓦の重なり合い、直線のみならず、平面、立体にも通用するという模型である。

30本のテンセグレティを作るコツは、まず五角形を、割り箸の3分の1の所のゴムを紙テープでつけてつけ、最終的に球形を意識して、上下を交互に組み合わせる。

次は三角形で組み合わせ、その次は五角形というように繰り返し、最終的に裏返しにしても、五角形で治まる。

以前は、六角形がポイントと思っていたが、五角形であることが解り、身体や社会の構造も訂正する必要がありそうだ。

五角形だとすると、

宇宙の構造と通じることになる。

6本✖️5角形=30本

六角形の建築物は三角形の集まりで、固定また堅固になるが、柔軟性に欠け、張力総合体の建築物ではないと言えるだろう。

五感である、眼耳鼻舌身は、問題解決の5W であり、意識と1HのHOWは真ん中の空間を指しているという五次元的見方もできる。

数字も奇数と偶数の両者があっての全体である。

六角形の建築物の突起部分を外から押すと、簡単にへこんでしまうが、五角形と三角形の剛柔の組合せは、突起部分を押すと、バネとなって押し返すので、凹まない。

生命体は、蘇生力があるので、剛柔、奇数偶数、2✖️3✖️5 のような組合せが丁度いいようだ。

 

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やっと陸稲の雑草抜きが終わった

古代麦を7月に入ってから刈り取り、干して、陸稲を直播して、7月末には背丈が10センチほどのんり、同時に、雑草も生えて来たが直ぐに毎日抜いていた。

7月末から8月始めの10日間旅に出て、雑草取りが出来なかったら、なんと、雑草9割、稲1割となっており、稲の全滅は覚悟じたが、兎に角、雑草から稲の救出をし、 その苗を移植していった。

 

だが、1週間までの移植はなんとか成長したが、それ以降の移植は枯れてしまうことに気付き、移植せずに、雑草抜きだけをじ、一緒に抜けてしまった稲は間引きと思って、枯らした。

 

9月10日ごろに、やっと一巡の荒削りが終わり、今日の16日に、2巡目で、ほぼ雑草抜きが終わった。

9月16日の陸稲

陸稲栽培の挑戦は6年目になるが、やっと来年には、自然農で、マルチシートを使わず、肥料も使わず、栽培出来る方法が解ってきた。

日本の昔ながらの農法に帰る感じがするが、ただ違うとすれば、藁と雑草を肥料またマルチシートかわりにするということだけである。

日本の畝は、雑草抜きがしやすく、毎日休まずすればきっと来年には成功するように思う。

来年の挑戦が今から楽しみである。

今年は、来年用の種子と、ちょっと食べれる程度が出来るくらいだろう。

10日間の雑草抜きを怠ったことが、これほどの惨状になるのは、スポーツ選手や芸術家の出来と同じのような気がする。

ダイエットでも、勉強でも、また、平和維持でも、休んではいけない時期に休まず、雑草取りのように、勤めることが必要で、休んでいい時期には大いに自遊に休みをとることがどうやら上手く生き抜くコツのようである。

物事を成すにはタイミングを逃さず為す、これがコツだろう。

 

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対等・バランスの意味の履き違えが戦争を産み出す

北朝鮮が国連安保理の制裁に対して

「アメリカと実際的なバランスをとり、我々の自主権と生存権を守り、地域の平和と安全を保障するための力をつけていくことに、より拍車をかけるだろう」

核武装のバランスが自主権と生存権そして、平和と安全を保障するというのは、

人間また国の「対等・平等・バランス」の意味を履き違えした、単なる弱小国のコンプレックスまた強大国の傲慢さである。

それは、戦後経済成長が激しかった日本で、隣人がテレビを持てば、自分も欲しくなるような気持ちと同じで、他人との対等意識が、貧乏人にとっては嫉妬に、金持ちにとっては自慢になるようなものである。

「人は生まれながらにして平等である」

「天は人の上に人を造らず」

という平等の意味は、人の命の平等である。

命は生きているか、死んでいるかの二者の姿しかない。

命が病気であるとか、健康であるとか、そういう姿の平等・不平等ではない。

まして、

命を守る経済や環境や、持ち物の平等・不平等ではない。

 

共産・社会主義が、どうして民主・資本主義に負けたのかは、単に経済的生活レベルの対等を目指したからである。

 

日本が核武装をして、そのバランスをとろうとすることは、北朝鮮の対等意識でアメリカとのバランスをとろうとする危険な行為と変らない。

核武装をすればするほど、それは核で他国を危険に犯すだけでなく、自国の核に対しての攻撃危険性を数倍も増やすようなものである。原発にしても、そこに内外のテロで核爆発する危険性が増えるので、原発をもつこと、原水爆を持つことの自爆する危険性は同じく増える。

「目には目を歯には歯を」

これが史上でどれほどの戦争を産んだことだろう。

これは

「テレビにはテレビを、核には核を」

という命の平等を経済バランス・武力バランスと履き違えしたものである。

傲慢

人の命は常に平等である。自他を比較する必要もない。

人の命はオンリーワンであり、自他比較することができないから、ナンバーワンでもある。

 

もし、北朝鮮も日本も、命のオンリーワンかつナンバーワンであることを意識し、自他の比較やバランスや対等を意識しなければ、戦争の心配は消え去り、平和への独自路線として、核武装なんか考えることもすることもしない。

核も原発も、戦争また自爆する危険な道具であるとして放棄し、平和で安心する道をしっかりと歩むことができるだろう。

オンリーワンを意識する人は他者と比較することはなく、自分の生き方に自信をもっている人である。

国だって人が集まっただけのこと、オンリーワンとして自信をもっていけば、他国との比較やバランスをとることなく、自然と独自で、平和で安全な国の方針を打ち出すことができるようになる。

 

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