地域通貨が世界のベイシック・インカムを実現する

山梨コインの発展版の再提案

地域通貨は国の許可を受けずとも ビットコインのように誰でも製造できるので

1.山梨県と山梨中央銀行が共同で 山梨コイン事業を立ち上げる

2.1円=1YC(山梨コインの略)として 山梨総生産額(YGDP)分 発行する

3.山梨コインは電子マネーとして 山梨中央銀行の口座に発行入金される

4.山梨コインは日本円のみならず各国通貨とも独自に直接交換売買することができる

5.交換売買取引の際 売っても買っても 1%の交換手数料がかかる

6.為替レートは当初は国際為替レートで交換以降は

毎月山梨県の平均物価と交換する諸国の平均物価との対比で行われる

7.他県や海外からの山梨コインの需要が増えた場合 必要な山梨コインを新規発行できる

需要と供給の投資ゲームの極端な変動に左右されずに 互いの物価変動に合わせた交換ができる

8.山梨コインは山梨県の条令により 山梨県内のすべての事業所で使用でき

また ビットコインと同じく 日本や世界のどこでも その店や事業所が認めれば 山梨コインで売買できる

9.山梨コインは電子マネーであるので 山梨中央銀行の預金のキャッシュカードやインターネットバンキングで

山梨中央銀行ウエブを通じて 取引できる

10.山梨コインの預金者は 一個人一法人一つしか口座を開設できなく

また 10万YC(山梨コイン)を購入することで 開設できる

11.クリスマスの12月25日締め切りで 年間の山梨交換手数料総額から運営費を差し引いた利潤を

山梨コイン個人法人預金者全員に 平等に分配配当される

持ち株数に合わせた配当とは違い 個人も法人も外国人も その預金額に関係なく 平等に分配配当され

翌年の正月に振り込まれる

これは

山梨コインの預金に対する利息としての機能を持っているので

ベイシック・インカム預金利息ともいえるものである

それはすべて山梨コインの売買手数料から生まれるので

山梨コインを使っても 使わなくても増えることは通常の預金利息とかわりがないが

取引総額による変動ベイシック預金利息ともいえる

PS

以前の山梨コイン提案では 貯蓄税として 預金口座からマイナスの利息が0.1%引かれたが

それを止め すべて金融取引税によるベイシック・インカムにすることで 安定的で かつ増える預金になり

誰でも参加できるように改良した

今までの預金利息は預金総額で増えたため 金持ちほど金持ちになったが

この山梨コイン預金利息は 預金者全員のベイシック・インカムをすることで金持ちも貧乏人も

その利息金が平等に増えることになる。

山梨コインは世界中のどなたでも インターネットバンキングで 加入できるので

国別 地域別に関係なく ベイシック・インカムの恩恵を得ることができる。

カテゴリー: お金って何だ, 社会問題 | 地域通貨が世界のベイシック・インカムを実現する はコメントを受け付けていません

ダイエット経済学の発展を望む

ダイエットに挑戦していると

今までの世界観 価値観が大きく転換していく

ダイエットの目標は

必要最低限の食事と運動量で より健康的文化的生活をすることである

だが

もっと美味しいもの もっとおもしろいもの もっといいものを目指して

たくさんのエネルギーと金を使い できるだけ多く金儲けし 命を賭けているのが

今の経済学であり、生活と仕事である

それが はたして健康的文化的を通り越して 退廃的 無駄事になっていないだろうか

肥満大国の姿が景気のいい金持ち経済学ではないだろうか。

 

必要最低限のエネルギーで より健康で文化的な生活を目指すことを

ダイエット経済学と呼ぶことにする

例えば

ダイエットの食事は量も少ないだけでなく 火をあまり使わない

サラダとヨーグルト 果物 ナッツ 漬け物だけで充分な食事ができる

運動だって

お金のかからない 散歩や体操ダンスでも充分である

ダイエット生活では

夜遅くまで起きていると お腹が空き つい夜食をしてしまうので

その防止のため 早寝早起きになるので

日の出とともに起き 日の入りとともに寝る生活になってくると

電気をあまり使わなくてすむようになる

 

仕事をたくさんすると すぐお腹が空き 食事の量が多くなり

ストレスも多くなり つい食べ過ぎてしまい 酒も多く必要になる

仕事を少なくすれば その仕事量にあった食事量で充分になるので

ストレスも食べ過ぎもなくなる

 

それは省エネで金儲けではなく 省エネで健康で文化的生活をモットーにすることである

 

肥満経済の顕著な例は原発である

原発は国民が必要の量の電気量を生み出すことはできない

24時間稼働しなければならないので

国民が寝ている時も電気を大量に生産し続けるので無駄なエネルギーである

しかも

原発を作り 電気を生み出す金額よりも

原発を廃炉にし 排出した放射性廃棄物を10万年も安全管理する金額の途方もなく大きい。

福島原発事故が起きたら それはお金の浪費どころか 命また命を生み出す大地をも失う結果になる

とにかくおいしいものを食べ続け 巨大に肥満になっても まだ食べ続け

最後には病気となり 死亡する姿が肥満経済学の姿である。

 

エネルギーもお金も最低限で

より健康で文化的生活を目指す

ダイエット経済学の発展を望む!

 

カテゴリー: お金って何だ, 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | ダイエット経済学の発展を望む はコメントを受け付けていません

奪い合う貨幣から 分かち合う貨幣へ

貨幣とはこの世にあるすべての商品やサービスそして権利を

交換しあうためにつけた値札である

しかし

現在 値札を取り合うゲームが主流になった金融経済が9割を占めている。

発行された値札で地球が10球買えるほどである。

貨幣が世界で採用されてから

世界の経済生活は豊かになった一方で

所得格差も大きくなり 富める人と貧する人の差は大きくなり

極すれば貨幣を得た人だけが生き残り、貨幣を失った人は死なねばならない

それが現実世界となっている

自由市場はまさに殺すか殺されるかの戦争状態であり

そうした市場競争が発展させた経済技術は

いわば 戦争技術であり 核爆弾 細菌兵器 大量殺戮兵器のようなものであり

原発技術は電気を作る一方 放射性廃棄物を作り

金融商品は貨幣から貨幣を大量に増やす一方 大量に減らす

それは強い人間だけが生き残り 弱い人間は死なねばならない運命へと導く。

貨幣は基本的に今ある商品サービス権利の分配法である。

自然法がともに人類が生き残る道を示すように

自然法に則した貨幣法は自ずと 世界の貨幣をどう分配したらいいのかも照らしている。

奪い合う貨幣から分かち合う貨幣経済文化への転換の時期がきている

 

 

カテゴリー: お金って何だ, 徒然草, 社会問題 | 奪い合う貨幣から 分かち合う貨幣へ はコメントを受け付けていません

法とは何か

人間は身体と心を持っているが

その心とは身体の欲求のことである。

 

心が身体とは別に存在するかのように思えるのは

身体を動かない個体として想定して考えているからである

 

食べたいという欲求すなわち心は

身体が食べ物を欲しているから起きるものであるから

心は食べ物にあると言えるのである

身体と心ははこの世を存在と時間に分けて考えるようなものである。

 

明日の自分とは今日の自分が望む姿であるからこそ 神仏であるといえる

その場合 問題は

今生きている70億人の数だけ70億の神仏が存在することになり

お互いにぶつかり合う欲求になる 宗教戦争のように。

70億の人類が神仏であるということは 70億の自由が存在するということである

この70億の自由を互いに尊重するラインが法であり、自然法とも言われる

 

自然法は70億人の神仏の暗黙の合意に基づいて形成される

みな生きたいから 殺すな!

みな幸せになりたいから 苦しめるな!

という自然法ができる。

さらにこの自然法を発展させると

産んだ子供が幸せに生きられるような家族計画や愛が法律になる

世界の食べ物や文化を分かち合う法律ができる

国が法律を作っては壊し また作っては壊すが

そして それらはとてもおかしな法律が多いものであるのは

そうした国で作られる法律が

人類1人1人の自由を尊重する自然法に則ってはいないからである。

 

殺すな! という人類の自然法に則すれば

戦争放棄は当然であるし

さらに 自衛のため敵を殺すという正当防衛もなしである。

自然法はどんな時でもお互いに生きられる道を選択するからである。

 

 

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | 法とは何か はコメントを受け付けていません

神仏とは本当になりたい自分だった

社会や国は実際に存在するのではなく

それは単に個人の集合体という名称である

神仏だって

人類が求める理想の姿の名称であって

実際にこの世にもあの世にも存在するものではない

では一体

国や神仏があたかも実際に存在するかのように思いこんでしまうのだろうか?

この地球 この宇宙は実際に存在しているが

その存在を確認し 証明する存在は生きた自分である

社会や国が地球や宇宙の存在を 科学的に証明しようと

それを受け入れ信じるのは生きた自分である

つまり

生きた自分が存在しなければ この地球も宇宙も 社会も国も 存在しないのである

存在しないだけでなく 存在さえできないのである。

 

このことは

国も神仏も 生きた自分が存在せしめているという事実である

では 生きるとは何なのか?

生きるとは 明日の自分に向かって進むことである

逆に死ぬとは昨日の自分に帰ることであるともいえる

 

存在とは時間がなければ成立できないので

存在は時間であるとも言えよう

つまり

今日の自分が明日の自分に向かって生きるときに

国や神仏の存在を証明するだけでなく 存在せしめるのである

すなわち

神仏とは明日の自分の姿だったのである

明日の自分とは自分がなりたい自分の姿である

それは神仏だけでなく

この地球 宇宙 社会 国の存在さえも

明日の自分を回りから観た姿であるといえるのだ

そのことは

神仏も 地球も 国も

今生きている70億人の数だけ存在する

存在するというより 存在せしめている

それは

存在すると思いこんでいる 信じ込んでいるともいえる

逆にいえば

あなたがどう信じるかで

神仏も国も地球も宇宙も 違って存在しているように見えるということだ

よく

自分が変われば 世界は変わってみえる というが

その通りで

自分が死んだら 何も見えない

自分がどう感じるかで

神仏も世界も 違った存在になるのである

だったら

明日の自分をどうするかで

神仏もこの世界も変わって存在してくる

それは

自分が本当になりたい自分の姿が

神仏であり この世界であるということなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: 徒然草, 社会問題 | 神仏とは本当になりたい自分だった はコメントを受け付けていません