自然法って何だ?

リバイヤサン

自然法をWikipediaで調べると、どうやら3つの条件に適応されるもののようだ。

  1. 普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。
  2. 不変性:自然法は人為によって変更されえない。
  3. 合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されえる。

1の普遍性と2の不変性は科学における事実のことである。3の合理性の理性的存在者は人間であるから、単に人の理性である。

では現在の法律の源流は近代自然法の父であるグロティウスから社会契約説を唱えたのがホッブスロックルソーであろう。

王の権力は神から与えられたとした絶対王政の時代に、グロティウスは絶対王政を批判し、自然状態では、王がいなくても人々は生きる権利(自然権)を持ち、理性に基づくルールで生きることが出来ると主張した。

1と2の普遍性は宗教における神仏から、科学における事実となった。3の人の理性は 人間には生まれつき、自分の命を守ろうとする自己保存の欲求と、他人よりも優れた存在でありたいという虚栄心が存在しており、この2つの欲求を誰しもが満たそうすると戦いが起こってしまう。これを防ぐためには、お互いの自由を本能のままに求め合うことをやめるという契約を社会と結ぶ。この契約を破ったときに罰を与えられる権威のある国家が必要であるとしたのがホッブスである。そこで社会契約が自然法となり、自然法を管理するのが国家であるようになった。

今の民主主義は社会契約説からきているといえるだろう。

現在問題になっているのが世界全体において、 社会契約がされない、また契約されたとしても、違反したものに罰を与えられる国家は存在していないことだ。それは社会契約論に基づく自然法には無理があるともいえる。しかも、社会契約は人為によってしか成立できないため、2の人為に左右されない不変性とは矛盾している。

社会契約というのは単に議論や裁判みたいなもので 議論別れにもなるし、多数決で結論されても それが真実にあったものになるとは限らない。これからは社会契約論以外で しかも 1と普遍性 2の不変性である事実にも準じた人の理性論が必要になっている。

 

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自然法による政治が丁度いい

深海のアンコウ

東京で自分のアパートのリフォームをしているが 一日で3時間がいいところだ。日によっては気乗りがしないと別なことをする。基本的に自分が今一番したいことを優先してやることにしている。

10年前だったら 一番に収入をあげるこの仕事を優先しただろう。 しかし今は別なツイッターとかの方がより重要になってきている。それはどうも自分より社会の方が関心が強くなったためだろう。

アパートをリフォームして 人に貸して収入をえる必要はない。今の収入だけで十分に暮らしていけるし、それ以上のお金は必要がないからだ。なぜリフォームするかは 自分で家を建てる楽しさのためだろう。自分の好きなことをするのに 苦労してやることはないし、やりたくなったらやればいいので 気ままになる。

一方 ツイッターの方だが 関心がお金の仕組みから 脱原発の政治に移ってきた。若いころにはお金とか まして政治なんかはまったく関心がなかった。関心があったのは いかに生きるべきか? といった生まれいずる悩みみたいなものであった。時代が高度成長 学歴重視社会であり、その反発するヒッピー生活にあこがれていた。

若者が政治に無関心なので投票に行かない気持ちは 自分もかってそうであったからよく理解できる。老年になると すぐに死んでいく自分のことより あとに生きる人たちのことが気にかかるようになった。

なぜ生きるのか?は なぜ死ぬのか?になるのだが これはアンコウやシャケの生態をみれば理解できる。

深海の提灯アンコウのオスはメスに吸収されて死んでいく。シャケのメスは子の卵を産むと死んでしまう。生死の流れは オス→メス→子供 というのが自然である。夫死んでもは妻を守ろうとし、母は死んでも子を守ろうとする愛は自然な心である。そして 老人は死んでも若者を守ろうとするのは自然の発意である。人類が永遠に地上に生き続けるための自然法である。

特に脱原発は老人が未来の若者を守ろうとする運動である。老齢の隠居生活をやめてまでして 脱原発運動のために都知事選にでる細川元首相の気持ちもそうであろう。

今まで生きてきて、最も大きな収穫は 「うまく生きるコツは自然に自分を合わせることを知った」ことだ。ケセラセラ 何くるないさ Let it be あるがままに という言葉もそうだが 生きるも死ぬも自然のままに自分を委ねることで 実に安らかな気持ちになれ、すると 問題の方がいつしか消えてしまうのを体験する。

この自然に自分を任せる「生き抜くコツ」は 政治における法律を「自然法」にすることで 社会も平穏になれる気がする。脱原発して再生可能なエネルギーにするのも自然法であり、貨幣システムを減価(貯蓄税)する貨幣にするのも自然法だし、貨幣を雨のごとく公平に与えるベーシックインカムも自然法だし、 水は高きより低きところに流れて海の水平を保つ福祉も自然法である。 無理してわざわざ遠くから輸入せずに食糧やエネルギーを地産地消するのもまた自然法であろう。

私の役目はどうもこの生き抜くためのコツである自然法を若者に伝授することのようだ。

 

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考え方の違いもバトルで楽しく

東京暮らしはまるで山奥の穴蔵生活のようだ。食べるものはそこにあるものを火を使って料理して食べるのも同じ。自然観察がテレビやネット観察、快適な穴蔵造りがリフォーム、本質的には変わりない。

少年の頃 達磨さんのように 壁に向かって座禅を組み 悟りをえようとする修行にあこがれた。今は 壁がテレビ付きパソコンで 座禅がコタツにあぐら 瞑想がブログになり、求める悟りが寿命がくるまでの計画のようで、少年の夢は老人の現実になっている。

世の中が単に考え方の違いだけで 憎みあい 罵倒しあい しいては殺し合う。それがどうも解せない。もっと第三者的に平然と観察できないものか? いや それは単なる無関心になるのでおもしろみにかける。むしろ それはスポーツのような戦いとしてみれば スポーツ精神 マナーのようなものがあれば 逆に考え方の違いで起こる戦いがスポーツのような楽しみができるのではないだろうか。

殺し合うスポーツはないように 考え方の違いから起こる殺し合いや罵倒がないようなマナーがあったらいい。宗教の違いがあっても 信教の自由を認めれば殺し合うこともない。少数意見の尊重があれば 自由な意見がいえて かつ 楽しめる。

意見の違いによるバトルは ピンポンのような打ち返しがあると やる方もみる方もそのバトルに夢中になって楽しめる。中にはつねにずれていたりする場合もあり、それはそれなりに 話し合いにならない笑いをさそう楽しさもある。

スポーツの戦いは同じレベル同士が戦うのが一番おもしろく、 レベルが違いすぎるとおもしろみもない。意見のレベルの差はスポーツのようにはっきりとはできくいので、どんな意見でも尊重して対応する「言い方」をしたほうがこじれない。

喧嘩は意外と「尊重しないで罵倒した言い方」で起こり、その内容は無関係の場合が多い。意見の違いを楽しむならば 言い方は丁寧で 相手の尊厳を傷つけないのがマナーであろう。

また 逆に罵倒された場合には 相手を尊重する丁寧さで 相手のマナーをいさめるようにかえすのがいいだろう。罵倒はイエローカードやレッドカードの反則として、示せばいいだろう。

 

 

 

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荷を最小限にすると自由は最大

東京生活は田舎の別荘という感があり、部屋も家具も少なく、ノートパソコンとテレビを一体化させ、エアコンも冷暖房で一体化、wifiも持ち歩き、生活の動きも仕事もコンパクトにまとまる。

年柄 「どう死ぬか?」 ということがテーマになっているが、それはあの世に旅立つ際 「いかに荷を少なくするか?」 ということでもある。あの世には肉体も財産も持っていけない、持っていけるのは「心だけ」である。その心だって 生きている者とこれから生まれるであろう人たちへの思いやりである。自分の欲望とは 他人と区別できる自分という顔を持つ肉体から発するので、それは肉体の死とともに消滅するので、持っていけない。

生きる者にとって、亡くなった者の心を受信できるのは 「生前何をしたか? 何を残したか?」によってである。私の人生を決定的に変えたのはロマンローランが残した「ジャン・クリストフ」小説である。また、最近では福島原発事故である。それが負の遺産であっても 反教師になって大きな影響を受ける。

つまり 若いときは先陣の心を受信すべく 大いに無駄をすればいいが、老いたときは後輩に発信すべく 大いに無駄を省くのが自然である。老いて動きがにぶくなるのは 無駄のない動きに心がけよという意味であり、荷はできるだけコンパクトにまとめて 自由になり、遺産も後輩に伝える心になるように プレゼントせよということだろう。

で 思いついたのが どこでも移動可能なコンパクトな住宅である。 モンゴルの移動式テントのような仕事にあわせて手軽に移動組み立てできるものがいい・。しかも 現代生活のような電気や電波もすぐに仕え、自然サイクルにあわせられるもの、しかも、ジャングルであっても、 都会であっても使えるようなものがいい。そして、災害時にも、そこで畑で食べ物を栽培できるような家が理想だ。実際 私が目指しているのがそんな家造りのような気がする。

 

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明るい未来を信ずれば救われん!2014元旦

地元の大井俣窪八幡神社に初詣

大井俣窪八幡神社

元旦なのに、初詣の人は10人もなく、ひっそりとしている。正月前に御札を買わされることに文句を言ったせいか、今年は初詣で昨年札の炊き上げを段ボール(嫌だったが)に入れ、新しい御札と御守りとおみくじ(吉だった)を買った。

今年の願掛けは 脱原発 娘たちの自立 自分の健康 の4つにした。初詣で脱原発のような社会的なことを祈ったのは始めてである。

私が生きている間に、脱原発ができたとしても、福島原発事故の終息はありえない。核ゴミを無害化する技術は100年後でも無理だと思えるからである。原発は核戦争と同じで、人類全体の地球存続をかけた問題で、温暖化よりもはるかに 危険な人類自爆装置である。

世界は核兵器廃絶とともに、原発廃絶していかないと、子孫代々にわたって、癌などの病に悩まされつづけなければならない。そんな世相に押し潰されたくないので、人類はいつか脱原発を決断することを信じて、自分ができることを精一杯やって、明るく生きたいものである。

「信ずれば救われん」とは、何もキリストを信じることでなくていい。明るい未来を信じることで救われるってことでいい。

こうした明るい未来の幕開けを信じる行事が正月にしていきたいものだ。

明るい未来を信ずれば救われん!

信じることは願うことでもある。願いの上が祈りであり、 祈りの頂点が信心である。

人は何かを行動する時は、欲望からだ。欲望を大きくしたのが願いである。つまり、人はいつしか信じるとおりに動いていくということである。

 

 

 

 

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