無償の愛があってこそ命のバトンができる

 今日は麦の収穫とその後に昨年育てた大豆の種を蒔いた。大地を麦と大豆は共有して、それぞれの命のバトンをする。その中で、私という人間が麦と大豆の一部を食べて、命をつないでいる。
 そうした命のバトンを想像すると、永遠の命を見ることができたように感じられる。

 命のバトンには縦の命のバトンと、横の命のバトンがあるようだ。
 縦の命のバトンとは、麦から麦、大豆から大豆、人から人などの同種の間で起こるバトンである。
 横の命のバトンは麦を人が食べると麦から人に、鳥が食べると麦から鳥、その鳥をさらに大きな鳥が食べると、鳥から大きな鳥、その大きな鳥を人が食べると大きな鳥から人にというように、異種の間で起こる命のバトンである。

 縦と横の命のバトンの前にあるのが、愛のバトンである。愛がないと相手を選ぶことができないし、その間に子も生まれないだろう。
 麦が好きでないと、麦を食べないから、そこに命のバトンは生まれない。つまり、縦も横も命のバトンの前には愛のバトンがあるということである。

 愛には二種あって、無償の愛と、有償の愛である。命のバトンは無償の愛でないとそれが止まってしまう。

 例えば、私が彼女を愛したとき、彼女が私を愛してくれないとき、私は彼女への愛を断ち切ることがある。これが有償の愛である。

 その場合、二人は別れることになり、二人の間に子は生まれないので、命のバトンはされない。

 愛には相思相愛というのがある。この場合二種あって、お互いに無償の愛の場合と、お互いに有償の愛というのがある。この有償の愛は「愛されるから愛する」「愛するから愛される」というのが当然だと思いこむ愛である。

 その場合、二人の間の世界を楽しみ、そこに子供への愛は育まれない。というのは、愛するから愛されることを望む場合、相手を束縛してしまうことになる。束縛した相手は自由になりたくなり、離婚を望むようになる。子供がいても、子供を愛しているから愛されないとしたら、子供への養育をしなくなるからだ。

 ドラマや映画では相思相愛をテーマにしている者が多いが、それは現実にはほとんど難しいことだからともいえる。現実に離婚も犯罪さえも多いのもそうだろう。

 縦の命のバトンには無償の愛が前提になってくる。横の命のバトンの場合は完璧に無償の愛であろう。麦を人は食べるが、人を麦は食べようとはしないだろう。もし、人と麦が有償の愛だったら、お互いに食べ合うということだから、二種とも絶滅してしまうだろう。

 人の命のバトンには無償の愛が必要だし、他への生物への命のバトンにも無償の愛が必要である。無償の愛により縦と横の命のバトンが広がり、それが無限に未来へと広がっていくと、永遠の命を感じられる。

 今のお金は完璧な有償の愛である。金を貸したら返せだけでなく、金を貸したら、倍にして返せという世界である。これでは命のバトンは縦にも横にもされないだろう。

 麦を人が一粒食べたら、麦は人を二人食べていいというようなことは命の世界ではありえない世界である。

 そのため、今のお金の制度は有償の愛の夫婦のように崩壊してしまうだろう。無償の愛によるお金のシステムは作れるものだ。だって、お金が命を支えるとしたら、それは命のバトンをせざるをえないし、生きとし生けるものすべてが、無償の愛で成り立っているからであり、それを模倣して作ればいいだけであるからだ。

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投資するということ

 稲作をしていると、1つの種籾から春に芽が出て、秋にそれが実ってご飯一杯(1000の種籾)になるのを夢見ている。

 種籾1粒=1円

 として、商品と貨幣の交換する基本単位した制度を作ったとしよう。

 もし、米1000粒食べれば、1000円は消えるが、種籾1000粒大地に蒔けば、それが1000倍は理想だが、うまくいけば100倍の10万粒になる。

 種籾を食べると消え、種籾を育てると増える。

 消費して減るのが減価経済であり、投資して増えるのが増加経済である。

 ともに、稲作からみれば自然に習った制度であり、投資することは種籾(貨幣)を増やす行為である。

 平均して、種籾1粒が100粒になる稲作を投資経済にリンクさせると、実った100粒の米のうち、99粒は食べ、1粒は種籾とする必要があるように、実体経済は99円、投資する金融経済は1円になる。

 この消費実質経済99 : 投資金融経済1 が自然の正常な貨幣制度になるが、実質経済1 : 投資経済 10 というように、実質経済よりも投資経済が大きくなると、異常な経済になる。

 それは稲作にリンクすれば、種籾10粒蒔くと、1粒の種籾が実ることになる。これは稲作の失敗であり、その結果、1粒米を食べられる人が1人、1粒も米を食べられない人が9人になり、貧富の差が増えることになる。

 もし、1粒=1円=1人 としたら、投資1円は100人の生活を支えるのが正常な自然経済であるのだ。

 投資経済 1 : 実質経済 100 が正常であり、1人の投資家は他の99人の消費生産者の生活を支える仕事をしてこそ、正常な経済社会である。

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虚構のアベノミクス

 不景気だから、日銀が円を100兆円印刷して、国債を買う。その国債100兆円を売った投資家は円をすれば円安になるので、全部ドル(1ドル80円)を買った。

 すると、1ヶ月後に、1ドル100円になったので、全部そのドルで円を買ったら、125兆円になった。円安で輸出企業の株が上がるから、その125兆円をその株式に投資した。

 すると、1ヶ月で、株は50%もあがったので、全株売ったら、187兆5000億円になった。それをドルに換金して、石油と小麦の先物商品を買った。

 すると、大量に買ったので、その価格は上がり、1ヶ月後には2割あがり、円に換金すると、225兆5000億円になった。

 円を100兆円印刷した金は投資家の手にすべて渡るだけでなく、実体経済からその100兆円以上もの金を奪うことになる。投資する金を持たない低所得者の家計を圧迫するのである。

 給料は輸出産業だけ増え、それに関係のない、けして増えることのない国民年金月6万円で暮らす老人にとっては、電気ガス食料、そして消費税があがるので、生活はさらに困窮することになる。

 これが虚構のアベノミクスである。投資家は外国為替・株・商品を繰り返して、その仲間同士で損得を繰り返し、結果的に、投資に関係のない低所得者の金を奪うことになる。貧富の差はさらに増大していく。

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間引くということ

 毎日、稲こそぎで雑草をとり、稲を間引きしていると、その行為が正常細胞を傷つけずに癌細胞だけを殺すような放射線照射のような作業とリンクしてくる。

 雑草採りと間引きは同じ行為のように思えてくる。雑草採りは同じ草の仲間による間引きであり間引きは同じ品種の草同士の間引きである。

 間引きという行為を人間に連想すると、とても残酷に思えてくる。みんな同じように生まれてきたのに、運がいい人間だけが育てられ、運の悪い人間だけが殺されるという行為だからだ。

 運不運に限らず、それが強い者だけが生かされ、弱い者は殺されるという意味でもある。これはヒューマニズムでは許されない行為である。

 だが、生物界においては、みんな全部を生かすヒューマニズムは存続できない。もし、それを実現しようとしたら、逆に、人類全体の死につながってしまうパラドックスに陥ってしまうのである。

 これはザイルで結ばれた登山家の一人が滑落し、残る一人が落ちた人を支えきれなくなった場合を想定するとわかりやすい。

 一人しか生き残れない現実のとき、二人一緒に助かろうとすると、二人とも死んでしまう。しかし、一人を犠牲にしたら、もう一人は生き残れるという場面はたまにある。

 それは自殺者を救おうとして、自殺者も救う人も一緒に死んでしまう事故がたまに報道されている。

 この教訓は二次三次災害を防ぐには、ヒューマニズムはダメで、残酷ではあるが間引きが必要なのである。

 この間引く行為は生物本来の生き抜く力であり、人間にとっても、オリンピークの楽しみのように、運の良い者、強い者だけが成功者となって、賞賛される・・・つまり生き残れるのである。それは勝ち抜くというのは、間引く行為と同じである。

▼ヒューマニズムにおける愛と間引く愛

 ここで、ヒューマニズムにおける愛と間引く愛とを比較してみよう。
 ヒューマニズムにおける愛とは、人類全体を愛することであり、特定の個人を選ぶことはない。
 しかし、間引く愛とは特定する集団や個人を選択し、全体を愛することはできない。

 そもそも「愛する」という行為は全人類の中から特定の一人を選ぶ心のことである。だから、人類全体を愛するとしたら、他の生物全体の中で人類だけを選択し、もっとも重要視することである。

 ただ、稲こそぎでもそうだが、完全に雑草だけを抜きのり、稲だけを残すことは不可能であるように、人類だけが地球に生き残ることはできないし、人類だけを愛し、人類だけを地球に生かそうとしたら、逆に人類全体を滅亡させるパラドックスに陥ることになる。

 つまり、日本が世界の縮図になるように、人類も生物全体の縮図であり、リンクしている。雑草を採ると同時に、稲の犠牲もやむをえないのである。

 純粋の愛というのは、無償の愛とか、犠牲心といわれる。これは間引かれる人間にとっては、生き残れる人間を愛するために、自分を犠牲にするということだ。

 また、老老介護で疲れ果て、自分が生き残るために、介護する老人を殺す行為も愛といえるだろう。これは法的には許されないことだが、もし、 老老介護で両者とも生き残れないような状況があった場合は、法的援助がなかった場合は、許される行為であり、愛する行為であると思える。

 つまり、間引くということは、間引かれる立場からすれば犠牲になるということである。犠牲になるというのはかなりオーバーだが、人は一人では生きていけないように、人は支え合って生きている。その場合、譲り合いの犠牲心も、遠慮しない自己表現も必要であろうということだ。

 間引くというのはオリンピーク競技のような楽しむと同時に悲しみでもある行為であり、犠牲と残酷を両方もった愛する行為であるともいえよう。

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稲こそぎの機械あったらなあ

 最初は鎌で、腰がいたくなるので、足で、毎日3時間するが追いつかない。そこで、奇跡のりんごの木村さんが提唱するチェーンをひきづってみたが、5ミリ程度の雑草もとれない。雑草はえる前にやるしか手がない。そこで、電動耕耘機の一番パワフルの耕作君でトライした。土は耕耘もできず、稲と雑草の半分くらい刈ってしまい、稲こそぎはできない。ああ、雑草とりの機械あったらなあ。

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