野生化ということ

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 上の6枚の写真は家の周りに麦を雑草化させたものである。土は粘土のようで、しかも小石も多い。肥料はまかずに、昨年の麦わらをまいただけであり、種まきは鳥に食べられないように、土をかぶせ、不織布で覆ったがいっさい水をあげることはなく、自然の天候にまかせただけである。この品種はパンやラーメン・スパゲティにする強力粉用のニシノカオリであり、実った麦穂の鮮やかな黄色が特徴である。

 一番下にある写真は納豆用の大豆で、納豆小粒という品種を昨年麦収穫のあとに、まいて、昨年収穫した。でも、これを脱穀し、食べられるようにするには、足で踏みつけ、手揉みして、さらに風選しなくてならない。それが面倒なので、何度か足踏みで種をブルーシートの上に落としただけで、食べるようにはしなかった。

 そこで、この収穫しなかった納豆小粒をそのまま麦の後に蒔けば、今年もきっと実るだろうと思える。

 隣の休果樹園では、毎年、雑草が6月くらいから、交代して、二種の雑草が毎年すきまないように繁茂している。その交代時期が、麦と大豆に適応しているので、もしも、麦と大豆をまったく収穫しなく、そのまま放置したら、二種の雑草のように、毎年、自然に実ることができるかどうかを実験したくなった。

 今年からは、農協から買った種でなく、自分の畑で実った種を使って実らせることができるかを実験し、来年、二種の雑草のように自生化できるかを実験し、一歩一歩野生化させていくようにしたい。

 稲もまた収穫しなければ、毎年実らせることができるかを試したい。だが、稲は夏草のせいか、雑草に負けやすく、しかも、水をかなり必要としているので、この山の段々畑での自生化は難しいと思われるが、とにかく、できるだけやってみて、どこが限界なのかを探っていきたいものである。

 まずは、稲を実らせることから始まるが、毎日のように、雑草は稲を覆って殺そうとするので、それを阻止するため、足で、稲こそぎしている。水だって、けして欠かせないので、やたらと手間がかかる。陸稲の方が水稲よりも成長がよく、雑草には勝てそうだが、水稲は人間の助けなしには、雑草にまけてしまうだろう。それにしても、陸稲はみな餅米品種で、水稲はみなうるち米だ。毎日食べる米はうるち米なので、陸稲用のうるち米の品種を育てることが必要になる。

 この品種改良だって、けして放射線を使って遺伝子組み替えをしたくはない。年月がかかるかもしれないが、自然交配により品種改良によって、陸稲用のうるち米を実らせることができたら、日本人の食の基本である稲の野生化の一歩になるだろう。

▼野生化ということ

 人間が育てたライオンを野生にもどす大変さと同じように、人が育てた稲を野生にもどすのは大変だろう。この野生化するということは人間の手を借りずに、ライオンも稲も自生できることをいうのだろう。

 雑草と野菜の違いといえば、人間に食べられない草と、人間に食べられる草の違いであろう。またの違いは、雑草は人間の手を借りずに生きられるが、野菜は人間の手を借りずには生きられないということであろう。

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自然に神様も総理もいらない

 自然はそれぞれが自由に動いていて成り立っている。そうした自然を支配する神様なんかいない。そして、すべてを悟っている仏なんかもしない。

 生きとし生けるものすべてが自由に活動している。それが自然なんだ。

 国家も自然に習えば、国民を支配する政府も、法律さえもいらなくなる。

 計画停電で信号が消えたとき、車の事故はほとんどなかったし、通行する際は相手の動きをみて、お互いに譲り合いしていた。そこには優先を決める交通ルールもなく、それぞれの車の動きで衝突しないようにするだけで動いていた。

 私の家の近くにも信号がない三叉路があり、常に多くの車が通っているが、譲り合いのルールもないのに、まったく事故が起きていない。

 人が造った法律は常に改正される運命があり、けして更新されない絶対的な法律なんかは作れないし、あったら、その国は独裁国家のように硬直化してしまう。

 自然に習えば、国家なんか必要ないし、それを治める神様のような首相もいらない。人が自由に生きていれば、国同士の争いもなく、お互いに助け合うだろう。

 国は予算を組むのが一番の仕事だが、その予算だって、議員なんか必要なく、国民それぞれが自由に決められるようにできれば、それが自然を模した方法なのである。

 ベーシックインカムのための電子マネーを使えば、その時の生産物をそれぞれ公平に分配するだろう。これは銀行のコンピュータで自動にできる。その自然な自動システムはいわばトップダウンであるが、その逆のボトムアップが、国家の予算を組む方法になる。

 公平に分配されたベーシックマネーは、自由競争によって、その収入に格差がつく。その格差を利用して、未来の国家事業の予算を組むのである。例えば、ABCの国家事業があるとすると、ベーシック国民は自分のベーシックマネーで、そこに投資することができる。

 多く持った成功者は自分が望むA国家事業に多くを投資できるが、まったく持たない失敗社はどの国家事業にも投資することはできない。

 つまり、ベーシックマネーを未来の国家予算に自由に投資できるようにすれば、国の予算は自然に決まることになり、議員が決めるのではなく、ベーシック証券会社のコンピュータが決めることができるだろう。

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「原発さえなければ」を忘れない

原発さえなければ

ベニア板の壁にチョークで「原発さえなければ」と無念の涙をながして亡くなった菅野重清さんの遺書をけして日本人は忘れないように、広島原爆の灯と併せて、未来に残していくことが必要な気がする。

 2年たって、この原発を海外に自ら売り込む安部総理には特に忘れてほしくはない。

原発なければ 復興できたのに
原発なければ 生きられたのに

これは日本だけでなく、世界にも、
そして未来の人類に伝えられる言葉だろう。

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稲と雑草の交代

 昨年、麦刈りを6月の梅雨入りと同時にして、陸稲20キロと水稲20キロの種籾を、水の浸けて、その後にばらまき、土を軽くかけ、鳥に食べられないように、不織布で覆った。

 芽は3センチほどでたが、稲の数百倍も雑草(イネ科)が生えて、稲の生育をストップさせるだけでなく、1ヶ月の間に、死滅させてしまった。もちろん、毎日のように雑草を抜いていたのだが、稲を守ることができなかった。

 そのため、稲はすべてあきらめ、納豆大豆に急遽切り替えた。大豆と雑草の相性はよく、一緒に育ち、収穫ができた。もっとも、種なし大豆が半数近くあったので、その理由はわからない。

 今年は麦刈りの後の稲栽培をやめ、稲だけの畑に集中した。種籾の浸水する量が足りなかったため、酸素不足で、芽出しが1ヶ月ばかり遅れ、5月に入ってしまった。

 しかし、なんとか育ったが、今度は雑草との戦いが待っていた。昨年の二の舞にならないように、種籾を畝をつくり、ばらまきではなく、線蒔きして、雑草を採りやすくした。

 しかも、鳥に食べられないように、2センチくらい土をかぶせておいた。種籾を蒔かなかったところに生えた雑草の芽はなんなくとれたのだが、問題は稲の芽にこびりつくように生える雑草だった。それは稲の芽の数十倍にもなっており、稲の芽の高さよりもすぐに上になりそうな勢いであった。

 そこで、そのこびりついた雑草を稲ごと、鎌でそーと、こそげるようになぞってみた。すると、雑草の根よりも稲の根の方が長かったためか、雑草20対稲1の割合で、雑草採りと稲の間引きができた。

 これができたのは、稲を2センチ深めに蒔いたため、雑草の根より深かったのだろう。また、稲の茎は雑草の茎より固めで、まっすぐにはえる。一度こそげて、元もどすようにすると、倒れた稲はまっすぐにもどるが、雑草は根ごと浮き出てくる。後は日光で乾燥させれば、雑草は稲の肥やしになり、稲はまた水をあげれば芽を出していく。

 この稲と雑草を観察していると、まるで、畑の中のなわばり争いをしているかのようにみえる。たぶん、昨年の勝者である、ころころ草、いねもどきなどのイネ科の草だろう。
 
 雑草に勝つためには、とにかく種籾の数だと思い、今年の1月から、5月まで、5回にわたって、種籾を蒔いた。その総量は昨年と同じ40キロである。しかし、成功したのは5月の種籾だけの8キロだけである。

 その8キロの種籾だって、今後の雑草採り、水あげによって、実るかどうかである。水あげは水道水であったならば、毎日朝夕あげても、すぐに畑は乾燥してしまうので、種籾は大きく育たないで、たぶん病気になり、実らないと思える。

 しかし、今年は畑管の消火栓を年間2000円の使用量で、使わしてもらえる契約ができたため、朝1時間半、夕方1時間半かかっていたのが、 夜(昼間は車が通るので、消化ホースを道路をまたげないので)の30分でできるようになった。

 けっこうこの畑管ホースは15mで1万円する。それにつける水まきは9000円する。それに、畑管ホースは布状なので、すぐに穴があくので、とりかえる必要もあるので、経費もかかる。

 畑管の栓のところにはバイクでいき、それの開閉をするので、かなり忙しいのであるが、30分ですむと思えば、水あげも楽しいものだ。

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自由って自然のことかも

 ネットハウスにはあいかわらずスズメが入ってきて逃げられないでオロオロしている。最初は鳥からいろいろな種を食べられないように、毎回不織布で覆い、取り去るのが面倒なので作ったのだが・・・

 この現状をみると、ネットハウスで鶏を野放しで飼うことも可能だと思えた。しかし、鶏の卵を採るのに、その餌やりや水あげなど、かなり手間がかかる。もっとも困るのはそのえさである。

 鶏一羽でも、それが食べる餌を栽培するのにかなり大変である。麦を食べさせたとしても、人間一人よりも多く食べる感じがする。

 牛や豚でも、その餌の量を栽培することを考えると、肉を食べるよりも、その餌を食べる方がより生きるのが楽だと思える。

 大体、立派な体格をしている牛や豚や鶏でも、みな草を食べている。肉食獣の方が筋肉ばかりで、貧相にみえる。

 人間だって、肉を食べなくても、草食動物のようにりっぱな身体を維持できるように思える。草を食べれば楽なのに、肉を食べようとして苦労しているのはどうも変だ。

 肉が食べたければ、ネットハウスにいくらでも自然の鳥が入り込んで捕まえることができる。田畑を荒らす自然鳥獣害を殺して食べて、それで足るを知れば、一石二鳥になる用に思える。

 動物を飼育して食べることはあまりにも労苦が多すぎる。野生で生きている動物を捕獲して食べた方が、労苦は少ないだろう。日本にはイノシシや熊や猿、それに狸や狐だっている。ハトやカラスがいるが、それだって食べられるのではないだろうか。

 そうした動物をわざわざ狩りにいくのではなく、田畑を荒らす動物に限って捕獲して食べればいい。わざわざ狩りにいったり、養育したりしないで、害する動物(虫を含む)だけを食べるようにすれば、けっこう豊かな食生活ができるのではないだろうか。

 田畑もいわば草の養育ではあるが、それもできるだけ、手間がかからないように自然に循環して、いつでも必要なだけ食べられるような栽培方法に切り替えれば、もっと楽になる。

 例えば、稲の栽培はかなり手間がかかるので、麦の栽培はただ種をばらまけば雑草のように生えてくる。そこで、米から麦を主食にすれば、もっと楽な生き方ができるように思えるのである。または、稲を麦のように楽に栽培できるようにすればいい。

 美味しいもの、高価のものを求めていく食生活は苦労が多いまるで奴隷生活にはまりこんでいるような気がする。足るを知る食生活は楽でもっと自由になれるような気がするのである。

 美味しさ求めて、苦労するより、自然にあるもので満足して、楽に生きる方が自由であると思える。

 自然とは自らのままにと書く、自由とは自らによると書く。「自らのまま」と「自らによる」とは同じことではないだろうか。

 自然とは人に作為がないことであり、自由とは人に隷属しないことである。作為も隷属も似てないか! 

 自然と人為の境には何があるだろうか?

 それは欲望の中の何かである。「足るを知る欲望」は自然であり、「限りなき欲望」が人為であるように思える。自然は他の生物との共存であり、そこに優劣はない。人為は他の生物よりの優位であり、支配である。

 空を飛ぶ鳥をみよ。野に咲く百合のみよ。今日の食事を何をしようか迷うこともしないし、食事代を稼ごうともしない。鳥や百合は自然に生きているゆえに自由であり、人間は他を支配しようとしているゆえに不自由である。

 どちらが賢い生き方であろうか? 自由な空を求めて、不自由になっていないか? 「足るを知って」生きる方がはるかに自由に生きられるではないか。

 鳥も百合も、殺されそうになると反抗するが、殺されてもけして復讐することはしないだろう。人は復讐のためにどれほど苦労するか。右の頬をうたれれば、左の頬を差し出すようなことはしないが、目には目、歯に歯というような仕返しは他の生物では存在しない。
 
 これからは自然な生き方が自由な生き方だと思った方がよさそうである。

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