迷ったら、すかさず初心に帰ろう

 鳥がネットハウスに入り込んだとき、どうやって逃げるかというと、入り口に帰ることである。迷ったときは、最初の原点に戻ることで、そこから抜け出せる。

 入り口は常に出口でもある。

 絶体絶命の時は迷いの極地であろう。生死の境に立ったときも、生まれた時の赤ん坊に帰ってみるといいかもしれない。

 そうすれば、もし死んだとしても、生まれる以前の世界に帰るところに帰ると思えば、死の恐怖からは抜け出せる。また、その時また生まれる赤ん坊になると想像すれば、「今後はどんな人生を歩もうか?」と、考えれば、ニコリと笑う余裕さえも出てくるだろう。

 そして、もし死なずに生き残ったら、きっとそれからの人生はまったく違った迷いなき人生を歩むことになるだろう。

 世界は貨幣によって混迷している。そこ混迷から抜け出すには、初心に帰ることである。貨幣を造った時の初心に帰るのである。

 貨幣が社会におけるモノやサービスを分配する券であるという初心に帰るのである。そうすると、貨幣の貸し借りすること、まして、そこから利子をとること、また、株価や通貨や商品の買い占めによる差額で儲けようとすることが混迷する原因であることが判明してくるだろう。

 もし、貨幣が世界の商品やサービスを人類全体で分配する道具であるという原点にたち、そこから、新たに貨幣制度を組み立てたら、経済における矛盾や混迷から抜け出すことができるだろう。

 初心に帰ることの重要性は、例えば、二十歳になり、自分の力で生活できるようにしようとして働く。しかし、その初心がいつしか、金儲けに走るようになって、自分自身を見失うことがある。その時、初心に帰って、「足るを知る」と、ギャンブルに走ったり、無駄遣いをしたりすることがなくなり、円満な家族を築けるようになるようなものである。

 初心に帰るとはゼロに戻ることではない。その行動の原点にもどり、その時の自分の意志が何かであるということだ。

 その人が生きているかどうかはその人が意識があるかどうかである。その意識こそが、生きていることでもっとも重要なものである。生きることの初心はその人の意識であり、行動の初心はその人の最初の意識また意志である。

 迷ったら、すかさず初心に帰ろう

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上を見ないで下を見る

 スズメやハトは籾種をねらって、ネットハウスに下の草むらから入り込み、いざ、逃げようとすると上に飛び上がり、逃げられなくなってしまう。

 横に大きな窓をあげても、それ以上の上にいって、やはり逃げられない。結局、上のネットにうろうろしているところに、水をかけて、窓に誘導して逃がすことができる。

 このスズメやハトの行動を観察すると、人にも共通な習性があるように思える。

 下の草むらの落ちている種籾を食べようとするのは、いわば経済戦争みたいなものである。ハト同士でも、食べ物で争ってプリュルプリュルと相手を威嚇しているのもみられるからだ。

 そして、食べものに夢中になっているスズメがネットハウスに入り込んでしまい、そこから逃げられなくなってしまうのは、金儲けに夢中になって、自由を失ってしまう人間にも見える。

 問題は逃げ方である。鳥は自由になろうとして、上ばかり飛んでいく。もし、下の入れた草むらの穴にもどればなんなく、自由になれるはずであるが。けして下にいこうとはしない。

 人も上ばかり見ているので、自由になれないのではないか。もし、下をみて、食べる原点にもどれば、なんの苦労もなく自由になれるのではないだろうか?

 より美味しいもの、より量が多いものを、とどまることなく求めていく。そのため、食べ過ぎたりして、病気になり死んでしまうのは、まさにネットハウスに入り込んで、人間に食べられてしまうようなものではないか。

 もし、人はより美味しいものを求めるのではなく、食べる原点にもどり、必要最小限の食べ物で満足しようとしたら、人はダイエットとして健康的に長生きもできるようになる。

 上の美食を求めるよりも、下の飢餓の子供を助けることの方が、人はより自由になれるような気がする。

 それは腹一杯食べるよるも、足るを知って、腹八分で食べる方が健康的で長生きができるようなものである。

 これがなかなかできないのは豊富な食べ物があるからだろう。しかし、それを食べ物の原点に戻ってみると、意外にやさしいことかもしれない。

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稲こそぎ


 水稲の稲を畑に直蒔きした場合、陸稲よりも成長が遅く、雑草にその成長を妨げられる。種籾を蒔かなかった畝にはびこる雑草は根ごととる鎌でそぎ落とせる。

 しかし、種籾を蒔いた畝にも数十倍の雑草がこびりつく。陸稲の場合は成長が早いので、さほどついてもあまり問題ないが、水稲の場合はこびりつく雑草で死に絶えてしまう。

 そこで、そーと鎌で、稲と雑草をなでるようにして、刈ると、根の浅い雑草だけが採れ、根の深い稲だけが残る。もちろん、根の浅い稲は雑草ごと刈られてしまうが、それは間引きと思って、あきらめるしかない。

 これは根をこそげる鎌でもできるが、柔らかい土であれば、足で雑草だけを踏みこそげることができる。

 この作業は何か麦踏みのような稲こそぎというような名をつけたくなった。水稲で畑作なんかする農家はないので、「稲こそぎ」のような作業をすることはないので、これは私の名付けた造語である。

 この雑草採りや毎日の水あげをする手間を考えれば、水田のように、畑作もまた苗から始めた方がより楽なような気がする。

 水稲の畑作は畑植えで、陸稲の畑作は直まきで、というのが、一番手間がかからないようなきがする。

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小さな成功を見逃すな、大発見につながる

 今朝、夢の中でも、ユーザー車検で、冷却水とオイル漏れの本当の原因を反省していた。一つの疑問は、ただ溝に落ちたくらいで、車がオーバーヒートして、運転不可能になったのはどうにも理解できないでいた。

 ひょっとしたら、溝に落ちて、下回りの鉄フレームの曲がりを直そうとして、バールで押し戻そうとした際、ラジエータを押しつぶしたのではないか? 

 そうならないようには注意していて、途中からハンマーでたたくことにした。オイル漏れはオイルパッキンから漏れており、それはいじっていないので、溝に落ちて、オイルパンが押されたためにパッキンにすきまが生じた。

 しかし、ラジエーターの大きな破損で、大量の冷却水が漏れる原因はどうも自分がバールを使って鉄フレームを戻そうとした際、ラジエータを潰したというのが本当の直接原因であると思えたのである。

 溝に落ちたのは小さなミスである。それで凹んだ下の鉄フレームを直そうとして、ラジエータを潰してしまったのも小さなミスである。

 もちろん、修理屋が懐中電灯をエンジンの上に忘れたことも小さなミスである。直接原因ではないとしても、それが修理屋への大きな疑心になり、自分で車のガタガタ音をなおうそうとして、車を溝に落とすというミスの動機にはなった。

 これは小さなミスが次々の重なって、大きなミスを引き起こしたことになる。ただ、その大きなミスは自分の車だけでおきたもので、他人に迷惑をかけたわけではない。

 しかし、実際は今、橋本さんの戦争中の慰安婦への小さな発言ミスが大きな日本に限らず、世界にまで、大きな発言ミスになっている。

 小さなミスを直そうとして、さらに大きなミスをしてしまうことは、けっこうあるものだ。それはどうしてそうなったのかは、あとで思い起こしても、きつねにつかれた感じで物事が進行していたように感じることがある。

 今回の小さなミスの連続が大きなミスになっていくのはまさに奇跡的な現象を生み出したような感覚であり、しかもこの感覚は、自分ではどうしようもなく、何かにうながされうように行動してしまったようなのだ。

 あの振り込め詐欺だって、注意してはいるのに、つい騙されてしまうことがある。 それも、途中で小さなミスに気が付けば大きなミスは防げるはずだ。

 小さなミスを繰り返して、大きなミスにならないようにするには、一つ一つの小さなミスをしないことである。

「それを小さなミスも見逃すな、それが大きな怪我となる」

 そこで、関連することわざを調べてみた。

技を矯めて花を散らす/枝を撓めんとして幹を枯らす/角を矯めて牛を殺す/角を直して牛を殺す/葉をかいて根を絶つ/下手な治療は病気より悪い/仏を直すとて鼻を欠く/枉がれるを矯めて直きに過ぐ/磨く地蔵鼻を欠く

 つまり、小さなミスを無理に直そうとして、かえって全体をダメにすることのたとえがたくさんある。

 ベンジャミン・フランクリンも、
Watch the little things; a small leak will sink a great ship.
(どんな小さなことにも注意しなさい。小さな水漏れからでも、大きな船は沈んでしまうからだ)

さらにこれを労働災害に適応し、それを科学的に研究したのが「ハインリッヒの法則」である。

1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの。それを三角形で表した。
ハインリッヒの法則
あの福島の原発事故災害も、このハインリッヒの法則が適応できるように思える。

有名なジョーク混じりの標語に、「注意一秒 怪我一生」がある。これもハインリッヒの法則であろう。

 下の娘はバイクや車で、小さな事故を起こすことが多いので、欲しがる車をすぐには買ってあげないようにしている。

「うっかりミス」が「まさかのミス」にもつながることだってある。

 ミス失敗を逆に、サクセッス成功にもつながるので、ハインリッヒの法則はこうなる。

1つの大きな成功の背後には29の小さな成功があり、その背景には300のさらに小さな成功が存在する。

 小さなミスも見逃さないことも大事だが、小さな成功もけして見逃さないことも大事なのである。大発見はそうしたことから生まれたものが多いからだ。

 子供を育てることで、ほめて才能をのばす方法が最近推奨されている。昔はしつけといって、ミスをしかって直すことで、才能をのばそうとしていた。

 これは、小さなミスも大きなミスにならないようなしつけであろう。小さな成功をさらに大きな成功に導くのがほめて才能をのばすことにつながるともいえるだろう。

 小さな親切が大きなお世話になることもあるが、小さな親切が大きな社会変革にもなれる。こうした、小さなミスや小さな成功が、予想も付かない大きなものになるようなことはまさに奇跡的に起きてくる。

 小さな事実が大きな奇跡を生むようなことだってある。それは為すべく成るような、神業のように感じる。

 一生よりも一日が大事というのは、まさに、小さなミス、小さな成功を見逃さず、大事にすることが、自分とはかけ離れた神事につながるという意味でもあるのだ。

 つまり、一日は人事、一生は神事 なんだ。そのミス、その成功の一つ一つを大事にしていこうではないか。きっとすばらしい生涯がまっているようなきがする。

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議論の前の多数決は独裁である

 稲と雑草を観察していくと、それぞれが共存するには数のバランス協定が必要だと思われる。

 もし、稲だけを畑に生存させるというのは数の横暴ではないか。それは多数の意見が全体を決定することと同じではないか。

 ヒットラーの独裁は民主政治の多数決から生まれた。今の安部政権も多数決の横暴で、地震国トルコに危険な原発を売ったり、ベトナムの原発を売るために、その最終廃棄物を日本が引き受けるというのもそうだ。

 多数決は過去に戦争への突入をさせている。少数意見はけして尊重されない。これは民主主義だとは思えない。多数の民衆の独裁である。

 本当の民主主義というのは多数決ですべての物事を決めるのではなく、議論するために、意見の違いを確認することだけでいいのではないか。

 もちろん、最終的には多数決にならざるをえないかもしれないが、今の政治の多数決は議論しない多数決であり、議論あっての多数決ではない。多数与党の意見の押し売りにすぎない。

 議論より多数決が独裁であり、多数決より議論が民主主義である。国民が議員を選ぶことが、国民の意見を出すこととは別である。議員選出は数の横暴と独裁につながり、議員選よりも、国民の意見を集めることが、民主主義の始めであろう。

 脱原発の世論が圧倒的な国民の意見だったが、そうでない自民党議員が 多数選ばれたため、国民の多数の意見は無視されてしまうという矛盾がおきるからだ。

 つまり、民主主義というのは国会がまず行わなくてはならないのは、国民へのアンケート実施と、その意見の割合を出すことである。その意見の一つ一つを精査議論して、党に関係なく、最終的に多数決をすることだろう。

 党が意見を決めると一党独裁になり、国民が意見を決めることができれば、それが民主主義であろう。

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