おごれる人類は久しからず


 完璧に作った網ハウスに今朝スズメが一羽入り込んでいた。不織布で覆った中にも、種を食べようとして、スズメだけでなく、ハトも入り込んでしまう。

 完璧に鳥害を防ぐことはできない。あの福島原発にネズミが入り込んで電線をかじって冷却装置を止めてしまう。完璧に安全だといわれてきた電気を起こす原発も、皮肉なことに、津波で電気が遮断されたために、爆発した。

 完璧に安全な原発なんか作ることは、そもそも不完全な人間であるからして、無理である。

 大事なのは、鳥やネズミが入り込んでも、また事故が起きても、その事故処置ができるかどうかである。最終原発ゴミの処置さえも、今の世界の技術では無理であるし、また、原発事故による放射能汚染処置技術も無理である。

 原発は核戦争と同じであり、原発を各国に売る競争は死の商人と同じである。 それは人類全体が破滅するか、繁栄できるかの選択である。

 稲は雑草に弱く、除草しないと、全滅してしまう。しかし、麦は雑草に強く、除草しなくても、雑草と、あたかも平和協定をしたかのように、両者の数を決め、共存をするのである。

 雑草といっても、ただ私が名前を知らない草の総称であり、主に穀物や野菜に害をなす草の総称である。

 人は一人より二人の方が生きやすいように、稲だって、雑草の一つくらい共存できるものがあるはずである。稲よりも背が高くならない雑草で、夏草でもあるクローバーのようなものだと共存が可能かもしれないが、ただ、クローバーは根を編み目のようにして、稲さえも生えさせないようにするので、共存させるにはかなりの技術がいる。

 今後、稲と平和協定できる雑草を研究してみたい。

 鳥獣害と、雑草害とかいうのは、共存できないから相手を敵とみなすからである。もし、害をなす鳥も雑草も、食べられるとしたら、害ではなく、単に生存の数の平和協定になる。

 人間とか、稲とかいう個々において、完璧はありえない現象である。他の生物との平和協定をして、共存していける現象が完璧であろう。

 原発で排出される放射性物質は人間だけでなく、生物界全体にとっても、共存できる物質ではない。あのイースター島のモアイ像を建設して、そこに住めなくなってしまったように、単に経済的化け物をあちらこちらに建設して、人類は地球上に住めなくなり、恐竜と同じ絶滅種となるだろう。

 遺伝子組み換え植物は放射線を使って、遺伝子を人工的に組み替え、農薬である除草剤をまいても、枯れないで、その他の雑草だけを破滅させることができるように開発された。

 そのため、遺伝子組み換え植物と農薬(除草剤)とはセットで販売される。これはまさに他の雑草との共存ができない放射性物質と同じである。

 アメリカで遺伝子組み換えされたトウモロコシや大豆は、他の在来種であるトウモロコシや大豆をも絶滅させて、自分だけが生き残るようになる。その感染力はインフルエンザのように強く、隣国のメキシコにも感染し、在来種の絶滅が始まっている。

 遺伝子組み換え食品の安全性はただ3ヶ月食べて、何の病気も起こらなかった場合だけで認定される。しかし、その実験もマウスでされ、マウスの生存の2年間の安全を確かめたものではない。

 食べて安全というよりも、もし、遺伝子組み換え食物を許可してしまうと、世界はたった一つのトウモロコシと大豆の種だけになり、いつも同じ味の遺伝子組み換え食品だけを食べざるをえなくなるだろう。

 遺伝子組み換え植物はいわば放射能物質のような生物であり、他の種と共存しない原発植物であるといえよう。

 原発も、遺伝子組み換え植物も、世界を一つにしようとする独裁政権のようなものであり、その末路は崩壊である。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」

 「おごれる者は久しからず」であろう。ただ、今は人類が他の生物に対して、それがいえる。原発と遺伝子組み換え植物がおごれる者になると、人類生存は久しからずになるだろう。

 「おごれる人類は久しからず」

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原因結果より、その対処方法が大事

 昨日のユーザー車検が不合格になった、その原因を探っていくと、直接原因と、その原因を引き起こすような動機がいくつも重なっていた。

 これは、人を助けようとして、その人も被害にあい、その被害があった人を助けようとして、その人も被害にあるような、二次三次災害というものがあるようなものだ。

 これは善意の悪循環になる。人の役に立つ仕事も善意であるが、それもまた仕事の悪循環が起きることがある。

 昨日の結果から、その原因を探っていくと、ミスが重なって大きくなっていくのが解る。

1,3回目のユーザー車検の結果、冷却水漏れ、オイル漏れで不合格。車は修理屋で、その代車で生活する。

2,2回目の車検はライトの高さを調整屋で修理して、合格したが、その時、突然の大量の冷却水漏れが発生した。

3,1回目の車検。ライトの高さを車内の備えられたダイヤルを0にしても、高さが不十分で不合格。他はみな合格した。

4,車の前でガタガタの音がするので、その音がする場所を探っていて、農道を走らせていた。狭い農道でユーターンしようとして、ハンドルを回しながらバックしたときに、左の車輪を溝30センチに落ちた。(この溝は以前にはなく、道路工事が途中であったためのもの)

5,ジャッキと石で溝から脱出し、他の車もその溝に落ちないように、その溝にたくさん石を敷き詰めておいた。家にもどると、エンジンルームから奇怪な音と臭いがするので、落ちて車の下回りをチェックする。

 うすい下の鉄のフレームが凹み、柔らかい裏のバンパーカバーがオイルタンクの横に入りこんでいる。凹んだ下の薄いフレームをバールとハンマーで元にもどし、そのカバーを元にもどすと、静かなエンジン音になり、臭いも消えた。

6、その修理の際、正常な右のバンパーを比較した際、ビスが2本抜けており、裏のバンパカバーがパクパクしていた。それがガタガタの音であると思い、ハリガネで止める。これは明らかに修理会社のミスである。

7,前日、車検用の点検をする際、エンジンルームをあける。エンジンの上に、修理会社の40センチくらいの充電式LED懐中電灯が乗せてあるのを発見。それがガタガタする音の原因かと思ったが、それ以上に、この状態で半月も高速道路などを娘が走行していたと思うと、冷や汗をかいた。
もし、その懐中電灯がエンジンを回転させるファンベルトにすべり落ちたら、大きな死亡事故が起きたと十分想像できた。もし、それが高速道路だったら、他の車も巻き込まれて、大惨事になっていただろう。娘の命も危なかったのである。

8,車検用に、車の下回りを洗い、規定のマニュアルに従って点検した。冷却水は少なかったので、多めに補充しておいた。(車検の2回目で、この冷却水が多すぎたため、キャップがはずれ、そこから漏れだしたと思い、その量を減らして、3回目の車検に及んだ)

車のガタガタ音に原因を探り、それがタイヤのボルトのゆるみが原因かと思い、点検再度締め付けたが、正常だった。

9,追突事故を起こして全面を全部保険で修理した(修理費用70万円)が、修理屋からフロントガラスに傷があるので、それは車検は通らないという。そのフロントガラスの傷は3年前に前を走るトラックが石をはねとばし、割ったものだ。大した傷でないので、接着剤で私が補修した。車検がすぐなので、過去の保険にさかのぼってフロントガラスを取り替えた。(取り替え費用12万円)

 このフロントガラスの取り替えが原因で、車のフロントガタガタ音が発生した。修理屋は接着剤が固定していないと説明し、様子をみるようにといった。そして、ユーザー車検が終わってから、その修理屋にガタガタの原因を修理させようとしたが、車検に通らないと思い、自分でそのガタガタ音の原因を探ろうとした。

10,娘が過度な仕事で疲れ、朝9時、いつものトンネルを抜けて、信号待ちしている前の車にブレーキをかける暇なく、突っ込んでしまった。

 前の車はトヨタの新車で。二人の熟年男性。車は全損し、修理不可能。(当方の保険負担額170万円)、娘の車の全面破損(保険修理費用70万円)、相手にも娘双方にも怪我一つなく、なんの問題なく和解。

保険屋が代車がでる修理屋を紹介し、そこで修理される。

 さて、今回のユーザー車検が3回不合格だった原因をさぐると、直接原因は4番目の私が農道の溝が落ちた運転ミスである。

 しかし、1回目の車検で、もし修理屋がライトを交換した際、その調整の整備をしていたら、なんなく合格していたのは確かだ。

 また、フロントガラスを交換した修理屋が、懐中電灯をエンジンルームに忘れたり、ビスを全部はめており、ガタガタ音がしなかったら、私はそのガタガタ音の原因を探って、わざわざ農道を走らせ、溝に落ちることもなかった。

 もし、修理屋がフロントガラスの傷が車検には通らないということをいわなかったら、修理することもなく、そのままでも、ほとんど気が付かない傷なので、車検は通っていただろう。

 もし、保険屋が事故の際、その修理屋を紹介しないで、自分で探したら、こうした整備不良は起きなかっただろう。

 もし、娘が追突事故を起こさなかったら、なんの問題なく、ユーザー車検は通っただろう。

 もし、私がガタガタ音の原因を追及しなかったら、農道の溝に落ちて、車を破損することもなかっただろう。

つまり、もし・・・・・が、動機なのである。動機は間接原因ともいえるかもしれないが、間接の間接の間接の原因といえるように、責任力はなく、直接原因だけが全責任になる。

「生きた結果」よりも「生きる方法」が大事であるというのが、私の見解である。

 結果があれば原因がある。その間に方法がある。結果がすべてだったら、原因もすべてである。しかし、ユーザー車検3回も通らなかったというえ結果は、その直接原因である私が運転ミスがすべてだったのであろうか。

 具体的結果もその直接原因も、一つである。これが真実は一つであるといわれる所以であるのだろう。しかし、その車検が不合格であるという結果が一番大事でも、その直接原因である私の運転ミスが一番の責任かというと、違うであろう。

 結果も、その原因も、すべてはなく、ただ一つであるというだけに過ぎない。すべてであるというのは、原因結果以外の多くの動機であり、いろいろな間接結果と間接原因である。

 そして、結果と原因の間にある、動機を含めた方法や展開の一つ一つで大事であるといえるのである。

 誰でもミスがある。そのミスをどう責任をとるかということが、そのミスやその結果よりも重要であるのだ。

「相田みつを」の書に、「いつどこで だれとだれが どんな出逢いをするのか それが大事なんだなあ」とある。

出逢い1

 この具体的な一つ一つの出逢いというのは、いわば、原因と結果に間にある動機であるともいえる。その出逢いという動機で、二人は何をしようとしたのか、それが大事であるということだ。

 先にあげた10はすべて動機であるともいえる。その一つ一つの動機が大事であり、特別な直接結果と直接原因だけがすべてでも、一番大事ではないのである。

 それは一生よりも今日の一日が大事であるということと同じで、今日一日何をしようとし、何をするのかということが、どんな結果なろうとも大事であるということだ。

 ある自殺者を救おうとして、相手も救えず、自分も死んでしまったということがある。この時、自殺者は原因であり、結果は自殺者と救おうとした者の両者の死が結果である。
その動機は救おうとした者の意志であり、それが原因と結果よりも大事である。もっとも大事なのは、救おうとして何をしたのか(その対処方法)である。

 自分も被害が合わずに助けられる方法が他にあったかどうかというのももっとも大事な方法と対処である。

 小さなミスがさらに大きなミスにつながることがある。復讐の連鎖による死亡者に拡大もある。これらを最小限におさえることがもっとも大事なように、その動機とその一つ一つの対処方法がもっとも大事になる。

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m4aをmp3 に変換する方法

 カーナビのYUPITERUを日テレショップで、19800円と送料800円で買った。そこに音楽ファイルもマイクロSDのMEDIAフォルダーに入れられる。しかし、その音楽ファイルはmp3かWMAファイルでしか再生できない。

 そこで、娘のIPODの音楽ファイルを4キガ分を選択して、コピーした。しかし、そのファイルはm4aという拡張子が付くもので、AACファイルというらしい。

 ネットでm4aファイルをmp3に変換するフリーソフトを検索して探したら、どのフリーソフトを選んでも、最終的にswitchというソフトをダウンロードしてしまう。

 それでswitchの無料ソフトでは1回で5つのファイルしか変換してくれない。 そして、合計で20ファイルしか変換できないで、終わってしまう。それ以上だと有料になる。

 私が変換したいのは1700曲あるから、無料では無理であるが、有料で買うのも一度しか使わないので、もったいない。そこで、他の方法で探すことにしたら、なんと、無料のソフトであるiTunes で簡単に全部できることを知った。

 ここにも、最初にMP3への変換なら(無料)jp.real.com/ とあり、それをたどると、やはりswitchになって、無料は20ファイルだけなのだ。そして、本文に書いてあるようにはできないので、自分でその方法を発見した。

1,iTunesをダウンロードする
2、[編集] メニュー> [設定] と選択し、[一般] をクリックして、[インポート設定] をクリックします。
[インポート方法] をmp3エンコーダにして、[OK] をクリックして設定を保存します。
3,「ファイル」>フォルダーをライブラリーに追加をクリックして、変換したフォルダーを選ぶ。すると、ミュージックの曲にフォルダー内のm4aが並ぶ(私の場合1700曲)

4,ライブラリ内の曲を、Ctrl A で全部選択すると、全曲が反転するので、右クリックすると、mp3バージョンの作成をクリックする。
(または、ファイル>新規バージョンの作成>mp3バージョンの作成をクリック)
 すると、全1700曲は3時間くらいで、m4aからmp3に変換される。

5,曲はm4aファイルとmp3ファイルが交互に並び、どこにmp3が保存されているかというと、ドライブC:の 「マイドキュメント」>「マイミュージック」>iTunes> iTunes MEDIA > Music に階層ごとにフォルダーにmp3ファイルが保存されている。

 なお、元の m4aファイルのそのまま残っている。

 知っているか、いないかで、大きな違いが生まれると思ったしだいだ。

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過保護な稲

 福岡式自然農法の失敗から、3年目にして、麦と稲にとりくんだ。麦はなんなく成功したが、稲はとにかく手間をかかり、しかも、生育させるのが難しい。

 今年も、1月から、毎月2月、3月、4月、5月と種籾を蒔き続け、先に生える雑草をとりながら、5月になった。昨年の冬に、雑草の種と草を全部燃やしたのだが、とにかく、その種を根絶することはできなかった。種籾も雑草に負けないくらいの量を蒔いて、いくらかでも生き残れるようにしたが、やはり、雑草の量が半端なく、稲よりも多く、しかも、乾燥にも強いし、稲と同じに生えても、稲よりも早く大きくなってしまうので、稲はその陰で生育がとまり枯れてしまう。

 昨年は麦を刈った7月のはじめに種籾を蒔いたので、失敗したと思って、麦栽培をやめ、稲たけの畑を用意して、4月を中心に種まきしたが、乾燥と雑草に、負けてしまったようだ。

 では、雑草をとればいいかというと、雑草だけを選別するのはむずかしく、稲も一緒にとってしまう。しかも、雑草はとっても、つぎにまた新しく雑草がはえ、稲よりも生長が早く大きくなるので、難しい。

 そのため、稲の畑作の場合、ビニールマルチで覆い、そこに穴をあけて、種を蒔くか、苗を植えるのが一番だろう。種の場合、鳥に食べられてしまうので、やはり苗を植えるのがいいようだ。

 でも、こうした手間をかけるのが、どうにも自然農法にはあわない。結局、水稲の田植えか、陸稲のビニールマルチでの畑植えかになってしまうと、いままでの伝統的方法しか稲は育てることは難しいことになる。とても、ただ種を蒔くだけの自然農法では無理である。

 それにしても、福岡式の米麦クローバーの3つの組み合わせはとても無理である。麦の中から稲が生えることはほとんどなく、クローバーが繁茂したところに、麦も稲も生えることはない。

 雑草をとらない自然農法において、稲の場合、雑草をとらないと、雑草に負けてしまう。稲と雑草とは共存できないことは確かだ。

 食育が盛んになっているこのごろ

 こうした手間のかかる稲を主食としていると、それは自分の子供を過保護に育てることと同じではないだろうか。まして、実った稲を脱穀、風選し、それをさらに機械で、殻をむき、玄米にし、さらにまた、その殻を精米器でむき、白米にする。

 玄米は栄養の完全食であるが、白米にして不完全食にして、おいしさを追求する。

 まさに、超過保護の米食文化である。

 稲だって、大昔は雑草であったはずである。それが、人があまりに手間をかけるがゆえに、人の助けなしには育たなくなってしまったのではないだろうか。

 麦は冬草であるので、他の雑草との競争がない。乾燥にも寒さにも強いので、ただばらまけば、どんな荒れ地でも、生えてくる。他の雑草よりもはるかに強く、共存さえもできるくらいである。

 日本がアフリカに奇跡のネリカ米として、無償援助しているが、そのテレビ報道をみていたとき、一人の農民が穂が実っても種なしで悲嘆にくれていた。実は、昨年雑草まじりで、育った陸稲のほとんどはこの種なしだったのである。たぶん、暑さや乾燥に負けたか、なんかの病気であったのだろうと思う。

 思うに、アフリカの乾燥した大地には稲よりも麦の方がはるかに合っていると思える。どうして、稲作ではなく麦作を無償援助しないのか不思議でならない。

麦はほとんど輸入に頼る日本であるが、休耕田でも河川敷でも、どこでも麦は雑草よりも強く生えてくるので、手間いらずであり、しかも、収穫しなければ、毎年そこに麦ははえてくる。

 思うに、これからの日本は稲にこだわるなら、麦のような強さをもった稲を改良し、麦の輸入はしないで、休耕田や畑で、麦作をすすめるのがいいだろう。

 稲作文化から麦作文化に代えていけば、もっと野性的な強い国民になるかもしれない。

 

 

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今日一日が一生よりも大事

 「一日一生」というのは、一日を一生のように 大事に生きることではある。その場合、一日と一生とではどっちがより大事かどうかである。

 この 「一日一生」という意味からすれば、「一生」の方が「一日」よりも重要であるとしていることは確かだ。

しかし、結果よりも方法が重要であるという理念からすれば、一生の一部である「一日」の方が一生「全部」よりも大事であるということ だ。

 過去は消え去って返ってこないし、未来はどう予測しても100%当たることはない。より確実なのは「今生きている」という事実である。その今が一生のうちでぼ一日に当たるのである。

 「今に生きる」ということは、「一生」よりも「一日」を重要視することだ。

 なぜ科学がどんな宗教よりも信用されるようになったのだろうか?
それは、信仰よりも事実を大事にしたためであろう。事実は誰がみてもそれを信用せざるをえないことだからである。信仰はその人の選択によるので、信じた人同士だけの特殊社会である。

 過去は経典のようにいくらでも解釈ができ、その解釈によって、いろいろな宗派に分かれるように、はてはまったく逆の意味になってしまうことだってある。

 未来は占いのように、当たるも八卦当たらぬも八卦であり、東北震災のように「想定外」のことが次々と起こるものである。日本がチェルノブイリ事故のような福島原発事故が起こることなど誰が予想できただろうか?
それよりも、そんな事故など想像さえもできなかったというのが事実である。

 そうした歴史的事実からして、「過去も未来もあてにはならない」ということである。もっとも「当てにできる」のは「今日一日何をしたか」、「今日一日何をしようとしたか」である。

 相撲で、優勝をねらうときのインタビューで、力士がこう答えることが多い。「今日の一番一番ををしっかりとやっていきたい」と。優勝することよりも、今日の一試合を一生懸命にやることの方が大事であるという意識に切り替えることが重要だという意味でもある。

 金メダルをとった人でも、あとでどんなことをするかで、その人の評価は天と地くらい変わってしまう。受験に失敗したからといって、その人がそれから何をしたかでも、その評価は大きく変わるものである。

 株や為替で、一日数億円儲けることと、アルバイトで一日5000円儲けることと、もうけた金額の差は天と地くらいだが、その人の一日にとって、どちらが充実した喜びであったとしたら、稼ぐ金額には関係がないであろう。

 一生涯という結果を気にするな。
 今日一日という生き方を一生よりも高貴とせよ。

 

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