結果なんかどうでもいい

  「結果がすべて」といったり、「結果(終わり)よければすべてよし」とかいうが、それは間違いであるような気がする。

  もし、結果をその過程よりも重視したら、成功者だけが良いことになる。結果がよくなかった敗者は悪いってことになる。それはどうあがいてもおかしな論理なのである。

  「平和のための戦争」はおかしいであろう。これは戦争中騙される論理である。「僕らは未来の平和のために戦っているだ」と、「どうしてこんなばかげた殺し合いをしなければならないのか」という疑問を投げかける若者を説得する論理はおかしい。

  第一、恒久なる平和をはたして実現できるのだろうか? それはすべての人間が神様になるくらい難しいことなのではないか。それに実現できないことを実現しようとするチャレンジ精神は許せるとしても、そもそも仮に実現できたとしても、何の意味もないのではないか、むしろ、空しい世界が待っているのではないのか。

 結果がすべてといったら、そもそも我々人間の最後の結果は死である。この死の結果をもっとも重要視したら、実に空しいことである。

 我々がもっとも重要視しなければならないのは、死ではなく、生である。生とは死ぬまでの生き方である。死を結果とすれば、生はその方法である。

 つまり、我々が重要視すべきは結果ではなく、その方法であるということだ。

 結果がすべてではなく、「方法がすべて」なのである。

 「結果なんかどうでもいい」のだ。

 

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お金に色(意志)をつけよう

1,復興予算のお金に色をつければ悪用されない

 最近、「復興予算1.2兆円、基金化し流用 被災地外にも」というニュースが何度か報道される。
このニュースのコメンテイナーが、「お金に色をつけるわけにはいきませんので・・・」と笑ったが、もし、復興予算というお金に色を付けたら、こうした悪用はできなくなる。

 消費増税をすべて福祉に使うという目的税があるが、それも「お金に色を付けない限り難しいだろう」

 お金がなんでも使えるのがそのメリットだが、それが悪用されやすいのは逆のデメリットである。しかし、お金に色をつけると、こうした目的以外に、悪用がされにくくなる。

2,生活する金と金儲けする金と色分けしよう

 お金の貸し借りや売買やギャンブルができるお金と、お金の貸し借りも売買も、ギャンブルもできない食べ物の分配券のようなお金に色を付ければ、遊ぶ金と生活する金とを分けて使えるので、悪用もなくなる。

 お金の使い道、お金の目的ということは、お金に意志をつけるということである。お金に利息がつくというと、そのお金に金儲けという意志がつけられる。お金を貸し借りできないというと、そのお金は食べ物の分配券であるということになる。

 つまり、お金を正しい使い道にもっていくには、日銀で発行する貨幣を金儲けする金と、生活する金の二つに色分けすることが必要であるということだ。

2,知恵とは何か

 そもそも知識とか知恵とはいったい何だろうか?

 知識は物事を識別することから生まれる。良き判断も分別ということから始まる。そのお金がなんでも使えるということは味噌糞一緒にまぜてしまうということになる。体に良いものと悪いものとを識別してこそ、健康が保てる。

 お金に知恵をつけるということはお金を分別することである。我々が生きていく上で、これは生活するためのお金、それ以外は遊べるお金と分けてこそ、うまく家計をやっていける。

お金は天下の回り者であるから、もし生活する緑のお金が回ってきたら、それは生活するためだけに使うだろう。でも、もし、遊ぶピンクのお金が回ってきたら、生活に余裕にない人はそのピンクのお金を受け取りを拒否して、緑のお金を要求できるだろう。生活に余裕のある人はもっともっとピンクのお金を欲しがるだろう。

 つまり、お金を色分けすることで、我々は自分の生活要求によって、お金をコントロールできるようになり、お金に使われて、その依存症のようにはならなくなる。

 知恵とは依存症からの脱却方でもあるのだ。

3,神とお金の正体は欲望である

 すべての望みをかなえるのが「神様」である。その逆も真なりで、「神様」は「すべての望みをかなえる存在」である。よって、「神とはすべての欲望である」ともいえる。

 神社にいって、「神様どうかこの願いをかなえてください」というとき、その神は神棚をのぞいてみても、何もない空間か、ただ神様の名前が書いた木の札だったりする。チルチルミチルの幸福の青い鳥が自宅にいたように、神様は祈る人の心の願いの中にいるものである。

 つまり、「神とは欲望」なのである。神はその民族や国などで、名称づけれた神である。神はカミでも、お金の場合のカミはその名称をつけるように、印刷された「紙」(紙幣)である、

神がどんな願いを叶えるように、紙幣はどんなモノ(商品・サービス・権利・債権・通貨)でも買える。神と紙幣がかなえる信用度とすれば、あきらかに、紙幣の方が神様よりも大きいだろう。

「同情するなら金をくれ」
「約束するなら証文をくれ」

 というように信用度に大きな差があるのだ。

「お金とは神より信用度の高い欲望」である。

4,なんでも買えるお金は信用できない

 天地創造した善なる神様がどうして悪なるサタンまで創造したのだろうか? これは神を信仰した者にとっては一番首をかしげることである。

 どうして、神と悪魔が戦う必要があるのだろうか? 最初から、神様に逆らう悪魔など作らなければいいではないか、いままでの神様はよほど阿呆だったとしかいいようがないではないか。

あの魔法のランプで、「お前の願いを三つまですべてかなえよう」というときに、「では、すべての願いを叶えられる神様に私をしてください」という願いを一つするだけで、自分の願いは無限にかなえられるようになるのに、どうしてその願いをしなかったのか、アラジンは神と同じくよほどの阿呆だったとしかいいようがない。

 自分がすべての欲望を叶える神になれるというのが仏教の本場、ヒンズー教である。その極意は「神我一体(梵我一如・・・梵(宇宙を支配する原理)と我(個人を支配する原理)が同一)」である。それが仏教となり日本に伝わってくると、「即身成仏(人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になる)」という意味になり、やはり「個人が神(仏)になれる」という悟りになる。

 つまり、阿呆な神が悟ると仏になる。でも、自分が仏になったら、どうなるか、その先を空想さえもしない。もし、自分が神や仏になったら、どんな人も神や仏になるってことは誰でもが想像できる。

それを想像できなかった仏も第二の阿呆である。みんな神や仏になったら、どんな願いを叶える存在になるのだから、願えるような卑しき人間なんか一人もいなくなる。

 つまり、神我一体も即身成仏も、無理な願望なのである。そこで、登場したのがソクラテスの「無知の知」であり、老子の「不知の知」であり、「知らざることを知れ」である。それはすべての欲望を叶えられるのは無理だから、信用するなという意味である。

 どんな願いをかなえる神も、どんなモノを買える紙幣も信用するなという意味でもある。
 
5,奪い合えば足らぬ、分け合えば余る

うばいあえば足らぬ

 もし、なんでも叶える神が一つだったら、その神をみんなが奪おうとして争うだろう。どんな悟りも一つであったら、その仏を得ようとして戦うだろう。宗教界は自分の信仰する神仏を最高とするために、常に争って和合することはありえない。

 自由市場を支えるお金も、なんでも買えるお金が一つであるから、それを損得として、奪い合うので、けして安定することも、足りることはない。

 しかし、そのお金が分け合うような道具だったら、そのお金(物価)は安定するだけなく、余るだろう。

 世界のお金が債権になれるお金として、一つであるために、それは未来永劫にわたって損得で奪い合うゲームになる。

 しかし、世界のすべての商品・サービス・権利を分け合うようなお金をもう一つ作れば、物価は安定し、損得でうばいあうこともなく、常に余るくらいになってくるだろう。その余ったものを未来に投資することだって十分できるようになるだろう。

 

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共存が自然法である

1.仕事か結婚か

 ドラマで、母から受け継いだ京都の老舗旅館の女将になった鴨に、恋人がワシントンで仕事をすることが決まり、一緒に来てくれないかというプロポーズをする。鴨は恋人を選ぶか、旅館の仕事を選ぶかで迷い、女将の仕事に苦渋の決断をし、結婚をあきらめる。

 結婚か仕事か、どちらを優先するかを迷うことは昔からあった。しかし、今の時代は両立できる時代になってきた。それは結婚というスタイルが一緒に暮らすことであるということではないからだ。

 夫婦がお互いに自由に仕事をし、また、一緒に暮らせなくても、たまに会うだけのような遠距離恋愛的な夫婦があってもいいではないか。実際、夫の単身赴任だってあるのだから。

 子育てだって、どっちが一方で育てることだってできるはずである。夫婦で大事なのは常識的な結婚スタイルではなく、お互いの愛を信頼するということなのではないだろうか。

2.殺すか守るか

  芽が出た種籾を鳥から守るために、破けて支柱だけになったビニールハウスに網を張ってみた。その光景はまるで鶏小屋のように思えて、まるで、自分が鶏小屋に入って鳥から身を守っているような姿に、思わず苦笑いしてしまった。

網ハウス

 そこで、鶏が逃げないように囲う鶏小屋と鶏から作物を守る網ハウスを比較してみた。それは動物を囲って眺めて楽しむ動物園と人間の命を守りながら、動物の姿を眺め楽しむ自然動物園の違いでもあった。

 これは蚊から身を守る方法とも似ており、蚊を殺虫剤で殺すか、蚊帳を張って、蚊から人を守るかの選択でもある。

 鳥獣害か、動物保護か、人は常にその選択を攻められるが、人と動物は共存できないのだろうか?

 これは各国の敵と味方の戦争にもいえることで、敵国民を殺すことで自国民を守るか、敵国民を殺さないで自国民を守るかの選択である。銃兵器はいわば殺虫剤にあたり、平和条約は蚊帳に当たる。

 殺人兵器は今や核や生物兵器と進化してきて、それは敵国民だけでなく、自国民をも破壊するな自滅兵器になってきている。

 それは虫や病原菌を殺すような農薬使用は、人間の命をも奪えるように進化していることと同じである。

 動物と人間、敵と味方はけして共存できないで殺し合うしかできないのだろうか? いや、どの生物界をみても、その種を抹殺しないでも共存できている。

 弱肉強食の生物界であっても、強い者が弱い者を殺し、食べ尽くすことはありえない。お互いが生存できる数を調整しようとしているではないか。

3.輸出依存か、輸入依存か 
 
 経済活動の基本は自由市場である。それは金儲けがその活力となっている。日本は輸出立国を目指して、安部首相のトップセールスをし、ロシアとの受注競争をして、ベトナムやトルコに原発輸出している

 ロシアはチェルノブイリ原発事故、日本は福島原発事故の後始末ができていない両国がその技術を売ろうと競争している。

 日本は最終核ゴミ処分もできないのに、原発ゴミを引き受けるという条件つきで、ベトナムから受注契約をとった。

 まだ安全とはいえない技術を売る方も、買う方も、おかしな頭をしている。一体、両国は何をみているのだろうか? それはまさしく「金という経済力」だけをみているが、両国民の命の保証をみていない。

 ただ売ればいい、ただ金儲けできればいい、ただ便利であればいいという姿勢しかみえない。

 もし、日本が輸出立国になれば、その相手の国は輸入立国になる。自由市場は勝つか負けるかである。 輸出しか方が勝ち、輸入した方が負けなのだろうか? 

 黒柳徹子がユニセフの親善大使で、南スーダンで栄養失調の子供たちを見舞う報道があった。

 スーダンの栄養失調の子と、日本におけるダイエットブームはまさに対照的である。日本はスーダンには輸出国であり、スーダンは日本からの輸入国である。この輸出の輸入の関係は有り余った食料国と、飢餓に貧する国との関係であるともいえる。
 この世界の自由市場は弱肉強食を推し進める人間法なのであろうか。相手国を飢餓に追いやってまでして、グルメを求める自国になっていいのだろうか?

 遠方からやってきた難民の夫を亡くした9人の子供を育てている女性が、黒柳徹子に一人くらい子供をあげようかと笑いながらいう。一方、飽食の日本は一人の子でも育てることが難しい少子化問題をかかえている。

 飢餓国と飽食国は共存できないのだろうか? 強い者が弱い者を食べなければ生きていけない自由市場でなければならないのだろうか?

 株式や通貨市場でも、勝ったら、相手は負けたのである。 その勝負は人の命の奪い合いまでして得るものなのだろうか? 

 スポーツの勝敗の楽しさは命の奪い合いだけはしないルールがあるから生まれる。そうしたスポーツ精神が経済の世界でも必要であり、自由市場における最低限のルールがあってこそ、お互いに生かされる社会になれる。

 これからの外交は自国だけの利益を追うようなものでなく、他の生物界のように、お互いに生存できるようなものにすべきであろう。世界を放射能汚染にさせるような危険な技術で稼ぎ回るような経済戦争は核戦争と同じであり、人類を自滅に導く崩壊の始まりだといえるだろう。

 

4,共存が自然法である

 経済の自由市場は殺し合いの戦争を正当防衛として認める人間社会の法である。自分の命を守るには敵を殺すしか道がないというものだ。しかし、敵を殺さなくても味方を守れる道はほかにいくらでもある。

 自然界では個々にとっては弱肉強食かもしれない殺し合いの世界かもしれないが、その種全体にとっては、互いの種の共存につながっている。この自然の共存方法こそが、自然法であるといえるだろう。

 人も、外交や経済で、人間が他の動物を支配するように、他国を支配するように勝つために動くのではなく、いかに共存していくかという自然法に則っていくべきだろうし、それを人間が定める法律にも適応すべきであろう。

 

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稲は手間がかかりすぎ

 福岡式による「麦・稲」の自然農法 に失敗して、それを改良して、3年目になる。稲は麦や大豆と違って、あまりにも手間がかかりすぎる。

 麦や大豆は浸水もしなくても、また、水をあげなくても、ただ蒔けば雑草のようにぐんぐん育つ。唯一注意するのはハトがスズメなどの鳥に種を全部食べられないようにするだけだ。肥料だってあげなくてもいい。

 しかも、雑草なんかにはまけないので、本当に手間がいらない。

 しかし、日本人が一番好きな稲となると、これがべらぼうに手間がかかる。まず、水田でないと、うまく成長しないし、種を浸水させて芽を出させ、しかも、それを苗として成長させてから、田植えするという、まったく手間がかかる。

 水田でなく、陸稲にしても、浸水した種を蒔くのだが、それから、毎日水やりをして成長させる。しかも、雑草負けするので、雑草対策を念入りにしないと、収穫できない。それに病気によわく、穂が実ったと思いきや、ほとんど種なしであったのは昨年だった。

 今年でなんとか成功させたとしても、その手間がかかるので、別な手間いらずの野菜に代えたいと思っている。

 だいたい、どんな野菜や穀物でも、雑草と同じく、自然に放っておけば毎年実るようにできているのが、自然の法則だ。稲だって、本来はそうでなかったのではないだろうか。

 稲は人間なくして、その種の保存ができなくなったような、まさに人間のペットのような人工物ではないだろうか。

  稲を麦のようにどこでも土があるところに蒔けば育つような本来の野生品種があったらと思うが、あるのだろうか? あのアフリカ用の奇跡のネリカ米も種をばらまいただけだと、まったく成長しなかったので、けして野生品種ではないだろう。

 とにかく、味はどうであれ、麦にように手間いらずの稲が栽培できたら、本来の人間の食べ物になるような気がするがどうなんだろう。

 

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できるまでトライ

 生きているということ
 それは、できるまでトライするということ
  ・・・・
 そんな詞が追加された。

1,種籾からやっと芽が出てきた

  先週、板橋の家のリフォームで、二階の上水管を全部取り替えたが、水を流したとたん、バタンと管がはずれ、洪水さわぎ、それを修理して、また水を流すと、別なところが水漏れ、それをまた修理して水を流すとまた別のところが水漏れを繰り返したが、結局、全部修理することはできなかった。

 そして、山梨に帰って、浸水した種籾が1ヶ月たっても発芽しないのを確認して、もう時間切れと思って、半分を畑に蒔いた。もう半分を芽が出るまで浸水しようとして、バケツではなく、大きな水槽のようなところにいれた。そして、一日に二度水を換えた。

 すると、水稲の種籾は4日ぶりに100個のうち2つくらい発芽したが、陸稲の種籾はほとんど発芽しなかった。しかし、新しい陸稲のた種籾を1週間前にバケツで浸水し、4日前に、広い水槽に浸水させたものは、100個のうち2つくらい発芽していた。

浸水で変わる種籾1

 種籾の発芽条件は水と温度だけでなく、酸素量であるとわかった。どんな貝や魚でも、流れてきれいな水の中でないと、死んでしまうように、種籾も、多くの酸素を必要としているといえるだろう。

 種籾の芽はその形からして、ハトのムネあたりから出てくるのだが、当初、それを知らずに、おしりのひげが芽か根かもしれないと思ってしまったのは、あまりにも芽がでなかったせいかもしれない。

2.上水管の水漏れの原因がやっとわかった

 ネットと友人が東急ハンズで聞いたことから、上水管の水漏れの原因が、塩ビ管を接着させる場合、そのオスとメスの両方に接着剤をつけることが必要であるというのがわかった。

 しかし、どうも私にはそれだけでは納得がいかないので、塩ビ管の中はしだいにせまくなっており、それを深く挿入するさい、かなりの力がいると、回すと入るが、そのまま押し込むとなかなか入らない。

 そこで、ネットでパイプ挿入工具を見つけた。たが、それは20ミリ以上の大きな塩ビ管のためのものであり、値段が39000円から10万円もする。しかし、ほとんど私が使う塩ビ管は16ミリであり、プロでもないので、そんな高価な工具は必要がないので、自分で作ろうとして、ホームセンターに一日張り込むようにして、その道具を探していた。

 塩ビ管の接着剤がこぼれてしまってなくなってしまったので、新しいものを買おうと思ったら、ふと手にした接着剤の見出しに、強力塩ビ接着剤と、耐衝撃用強力塩ビ接着剤という二種類のあるのを発見した。

 そこで、はっきりと、水漏れの原因がわかったのである。私は耐衝撃用強力塩ビ管を強力塩ビ接着剤でつけていたのだ。

 管のオスメスに両方塗布するのは、塩ビ管を溶かすためであるが、その接着剤がその耐衝撃用塩ビ管を溶かすものでなかったら、オスメス管を両方塗布してもくっつかない。

 たとえ、片方だけ塗布したために、簡単にパイプがはずれるというのはおかしいと感じていたからだ。

 いつもいく板橋のホームセンターには強力塩ビ管用に接着材の青と赤しか見えなかったというのもそうだし、山梨のホームセンターでも、耐衝撃用塩ビ管接着剤が薄い青管が少しあり、その同じボックスには多くの青い強力塩ビ管用接着剤があって、まぎれていたことは、こうした素人のDITが間違えるのはあたりまえであろう。

 ともあれ、原因がわかり、全部最初から上水管を新しく交換接着させなければならなくなった。それで愕然として、またトライするのを1週間後にのばすことにした。

 この一週間の間に、種籾が蒔けるように集中することにした。

 

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