流浪の果てにあるもの

 ツイッターで、福島原発事故のため、バスを改造したキャンピングカーで全国を旅して、東北に戻ってきて、小学生になった息子の入学式にのぞんだという感慨深いつぶやきがあった。

 笹塚の駐車場に家を建てるより、キャンピングカーのような移動できる家の建築したいと思っている。というのは、いつでも家ごと引越ができると、自由な仕事ができるからだ。

 そもそも、こうした発想は両親の墓探しから来ている。親が東京の多磨霊園に先祖の墓を建てたが、遺産相続の争いのとき、その墓をいとこにあげてしまったからだ。そのためか、母が亡くなる前にでっかい墓を建てるようにと私に遺言した。

 10年間、多磨霊園に応募したが、結局大きな墓は買うことはできなかった。そのため、両親のお骨を多磨霊園の預かり所から自宅に戻して、墓探しの流浪が始まった。親は寺院では毎年檀家料を多額にとられるので公共の霊園にするように言われた。そして、自宅から近いとことにしないと、通うことがなくなるのでダメだとも言われた。

 自分の遺産を全部使ってもいいから、「お前が住む近くに、とにかくでっかい墓を建てろ」という遺言を実現するのに最もいい方法を思いついた。

 それは自分がその墓に住んでしまえば一石二鳥になるのだ。庭付き家を買い、庭に墓を建て、自分はその家に住めばいいのだから。それが今の山梨の畑付き家であるが、庭に墓を作ることに抵抗があった。

 法律では特定な墓所以外で自分の庭のような場所に遺骨を埋めてお墓にすることは禁止されている。しかし、遺骨を砕いて粉状にして散骨にすれば、どこでもそれを蒔くことができる。それは散骨ならば自宅の庭に墓を建てることができることを示している。

 そこで、樹木葬として桜を植え、その根本に散骨して、墓を建てようとした。それは骨は桜の栄養となって、毎年花を咲かせるように生まれ変わらせようというねらいであった。

 だが、問題は骨より先祖の名前である。もし、桜の前に両親の名前を刻んだ碑を建てれば、それは墓石になる。この墓石を後世の人は大事にして捨てるのが難しくなる。子孫が引越しようものなら、この墓石はもっていかなくてはならなくなる。

 骨は桜の栄養にはなっても、名前を刻んだ石は子孫や後世の人にとって重荷となる。 

 人は肉体と心を持つが、その実体は肉体は骨であり、心は名前である

 もし、後世の人に死後役に立つように するには骨は散骨して肥料に、名前は捨てて、新しく産まれた人の名前に生まれ変わることである。

 そこで、樹木葬をやめて、名前のない生まれ変わりの葬儀として畑を作ることにした。そして、砕いた散骨は先祖を祭った大きな仏壇の中に納めた。そして、その散骨は先祖の力を必要とするような、ちょうどお清めの塩のように使うことにしたのだ。

 つまり、うちの墓は仏壇と併用になり、それはどこにでも移動可能なキャンピングカーのようなものになったのである。

 生きるか死ぬかの流浪の果てに、行き着くところは、福島原発事故から逃れて、東北の自分の子どもの入学式だったように、未来の子どもへの応援歌なのであろう。

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魚より網、網よりビジネス

 ガイヤの夜明けをみた。日本ポリグルの小田兼利会長が、納豆菌と石灰で水の浄化剤を作り、それをバングラディシュの汚れた水をきれいな飲み水にする支援をした。しかし、その3週間後にはその鉄製の蛇口が盗まれ、その浄化装置は使われないままに放置されていた。
 それで、小田さんはその浄化装置を守る人が必要であることを痛切に感じ、支援から現地の雇用を生み出すビジネスに変更し、10リットル3円できれいな水を売り出し、成功を収めた。

 海外支援においては、魚をあげたら、一回だけだが、魚を採る技術を教えたら、ずっと魚を食べられるというので、金より技術という方向に向かっている。

 その技術だけではまだ不十分で、働ける場が必要だといえる。

 それは障害者にとって、お金よりも雇用が大事であることと同じである。それは魚だけ得られるのは生活保護であり、魚を採る技術はベーシックインカムであり、さらに必要なのは働ける場であるということが示唆されている。

 今の日本の生活保護は単にお金を毎月あげるだけであり、もし、働くとその分の収入は減らされるため、「働かない方がよい暮らしができる」となり、根本的な解決策にはならない。

 ベーシックインカムでは働けばその分だけの収入も多くなるが、そこに労働の場を提供されてはいない。持続可能なベーシックインカムには雇用が必要だと思われる。

 最低限の収入だけでなく、最低限の雇用も保障されることが重要であろう。それによって、働けば働くほど生活が豊かになるような社会が築かれるようになるだろう。

 この最低限の雇用は各自治体の公務員なら、希望すれば誰でも働けるように法制化すればいいだろう。ベーシックインカムは生きる権利であるが、最低限の雇用は生きる誇りであろう。

 

 

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自分の命は自分と自然と愛が決めている

 今日は東京にリフォームする予定だったが、朝雨が降っているので、翌日に変更した。こんなことができるのは、リフォームも、その予定も、みな自分で決めたからだ。

 もし、自分が社員だったらそう簡単にはいかないが、会社に、嘘でもいいから、「今日は体調が悪いので休みます」といえば、可能である。

 ふと思ったのだが、「自分の人生は自分が決めている」ということだ。極端かもしれないが、「今日で自分の人生を終わりにします」という決定だってできることは確かである。

 自分の死を決めているのは確かに自然現象であるが、同時に、自分も自分の死を決められるということである。

 昨日、「自分と自然を信ずれば救われる」と言ったが、それは同じく、「自分の命は自分と自然が決めている」という事実である。

 「救われる」という意味は「生きられる」ということであり、「自分の命」である。「信じる」という意味は「頼る」「依託する」ということであり、「決断を任せる」「決める」ことである。

 つまり、「自分の命は自分と自然が決めている」のだから、「自分と自然を信ずれば救われる」と言い換えることができるということだ。

 よく、「自分の両親を自分が決めて生まれてきた」と言う言葉と、その反対に、「自分の両親を選ぶことはできない」とも言われる。

 さように、 「自分がこの世に生まれるという決断」はどうなっているのだろうか?

 これは自分を産むことができる両親の決断にかかっていることは確かであるから、「自分が産まれるのは両親が決める」ということだ。

 それを追加すると、「自分の命は自分と自然が決めている」は「自分の命は自分と自然と両親が決めている」となる。両親は誰が決めているかといえば、二人の出逢いは社会が決めているともいえるし、社会の最小単位は家族である夫婦であるから、「自分の命は自分と自然と社会が決めている」ということができる。

 それはまた、「自分と社会と自然を信ずれば救われる」ということにもつながってくる。

 社会とは夫婦が最小単位だから、愛が社会の絆ともいえるので、むしろ、「自分と自然と愛を信ずれば救われる」と表現した方がわかりやすくなる。

  それはまた、、「自分の命は自分と自然と社会が決めている」は、「自分の命は自分と自然と愛が決めている」と表現した方がよいだろう。

 そして、「自分の命」は「自分の意志」であるともいえるので、

「自分の意志」は「自分」「自然」「愛」の三本柱で成り立っている。

 

 

 

 

 

 

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自分と自然を信ずれば救われん

 「信ずれば救われん」という言葉は聖書からの直接の引用ではなく、きっと日本語的に定着したものだろう。これに近い言葉は「求めよ、さらば与えられん」であり、それは聖書から直接引用できる。

 マタイ 7.7「求めよ、さらば与えられん。捜せ、さらば見いださん。叩け、さらば開かれん」

 「信ずれば救われん」は、「求めよ、さらば与えられん」のように、「信ぜよ、さらば救われん」となるが、その出所を探すと、

 マルコ 16:16「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」

 マルコ5:34 「イエスは言われた。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 
 に、みられ、日本の浄土宗のように、「南無阿弥陀仏と唱えれば救われる」に近くなり、「キリストを信ずれば救われる」と同様に、「阿弥陀仏を信ずれば救われる」となる。

 最近、「みな神様道」と称して、自分もみんな神様であったら、どんなこともできるという想像することで、自分の心が軽くなり、楽に生きられるというコツがつかめてきた。

 「信ずれば救われる」ということは「(神仏を)信ずれば救われる」という意味であるが、これがそう簡単に信じられることではないのだ。

 青年のころ、近くの教会でクリスチャンになろうとして、最初の試練が、「イエスキリストが蘇ったことを信じますか?」という質問にイエスと答えられなければ入信できないことを知り、その教会には二度と行けなくなってしまったことがある。

 今もそうだが、キリストも釈迦も人間だと思うし、それをあえて、宇宙の中心のような神仏であるとはとても信じることはできない。もし、それを信じたら、事実を積み重ねる科学をすべて否定することになるからだ。

 神仏を信じて救われた人はいるのだろうか? むしろ、オーム真理教のように、その神仏の姿によっては、地獄へ落とされることもあるし、古今東西、神仏を信じることで、この現実世界を戦争に導くようなこともあるようにも思える。

 つまり、信じる内容で救われることも、地獄に落とされることもあるってことだ。大事なのは「救われるような信じ方は何か?」ということだろう。

 神仏を信じるのは危なっかしいし、さりとて、詐欺が横行する世の中、人を信じるのはもっと危なっかしい。

 となると、最も安心して信じられるのはただ一つである。「自分」である

 信じた結果の責任をとるのはいつでも自分しかないからだ。それは逆にいえば、自分を信じられないから、他人や神仏に頼るような信心を持ってしまうのではないだろうか。

 ゆえに、もっとも安全な信心は「自分を信ずれば救われる」である。

 イエスが蘇ることは信じられなくとも、自分がもし死んでも蘇ることができると信じることはそう難しいことではない。

 というのは、次の事実をみているからである。「生き物はみな死んでは生まれ、生まれればまた死んでいく」からだ。

 つまり、「自分がもし死んでも、他人に蘇ることができる」という信心なら、自然現象をそのまま受け入れるようなものだからである。

 「信ずれば救われる」という別のとらえ方が聖書には書かれている。

 パウロ エペソ書2:8,9 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 「神の恵み」とは何だろうか? 神が天地創造主ならば、それは「自然現象」のことであるといえるだろう。

 そのため、さらに最も安全な信心は「自分と自然を信ずれば救われん」ということになるだろう。

 

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金融商品に対する保有税の必要性

 大久保利通は富国強兵として、地租改正を行った。明治6年(1873年)、それまで年貢として米納であったものを、地価の3%の金納にし、国の財政を安定化させた

 国の財政の安定化には、貨幣そのものに貯蓄税をかけて、貨幣循環させる必要があるが、それが銀行のATMで管理する電子マネーであった場合は不正な脱税がしにくいが、紙幣では国民の申告を必要とするため、不正な脱税がしやすい。

 また、貨幣そのものに貯蓄税をかけた場合、それをのがれるためには、貨幣を現物や債券や不動産などにも保有税をかけないと、脱税が行われやすくなる。

 明治初期に行われた地租改正はまさに不動産価格の3%を保有税として納めるもので、貨幣の貯蓄税に合わせたモノの保有税であるといえる。

 地租改正は廃藩→領主的土地所有→私的土地所有権→地券交付→地租となり、税金は現物納から貨幣納になったものである。

 この物納から貨幣納に代わる方式には、その時の物価に対する保有税が必要になるように、貨幣を安定的に循環させるためには、モノや権利に保有税と、貨幣そのものに貯蓄税をかける必要がある。

 債券や株や為替通貨はその時の価格が変動する金融商品であり、現物の商品と同じように保有税がかけられてこそ、貨幣は水のように循環することができる。

 例えば、100万円を年1割の利息10万円貸した場合、その債券は110万円であり、現金は100万円になる。その場合、債券110万円に保有税3%、現金100万円に貯蓄税3%かけると、貨幣も商品も循環しやすくなり、景気も政府も安定してくる。

 日銀から発行された紙幣に、私的所有権が認められたために、誰でもが、貨幣を貸し借りすることができ、金融経済が現物経済よりもはるかに大きくなった。そして、国よりも大きな貨幣の私的所有者が出現したために、国はその大きな投資家に隷属せざるをえなくなり、借金が大きくなって倒産する国も増えてきた。

 その本末転倒しないで国の経済安定には貨幣の貯蓄税と、モノの私的所有権である金融商品などの保有税は欠かせないものだろう。

 

 

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