今原発停止すれば1億倍の安全が確保できる

 核ゴミの最終処分場の研究施設がすでに建設されていた。現在は東海村に集められているが、事故が多く、受け入れの一杯である。すぐにでも受け入れることができるところは、地下300mまで掘られている、北海道の幌延深地層研究所と、岐阜の瑞浪超深層研究所である。

  ただ、問題は地下水が浸みだしているので、放射性廃棄物が地下水に入り込む危険がある。それに日本のどこでも火山国だから、地震は常にある。

 そのため、島国日本のどこにも安全な核ゴミの最終処分場は建設できない。そして、日本では原発建設は無理であるということだ。

 では海外に最終処分場があるかというと、日本の核ゴミを受け入れるところはない。

 そのため、今原発を稼働することは、核ゴミを増やすことになり、日本の将来は今の福島のように住めない島国になり、自国を捨てて、原発のない海外へ移民せざるをえなくなるだろう。

 今数年先までの核燃料が輸入されているが、その放射能値は使用後は使用前に比べて、1億倍とも言われている。

 つまり、今すぐに原発の稼働をやめれば、1億倍の安全が確保できるということだ。
 
 今日本がすぐにやるべきことは、まず原発は再起動しないこと、そして、輸入した核燃料と核廃棄物の受け入れ先を交渉することである。
 原発を再生可能なエネルギーの発電所に変更することであろう。

 

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健康度世界一の日本に

 私は2週間毎に歯槽膿漏を治療しにいき、毎日特に痛みも出血もないようになった。そうなるまでは数十年の間、こうした治療をしなかったからだ。

 治療をする前に、歯科衛生士が歯磨きをしてくれ、時には歯磨きの仕方を教えてくれる。この歯磨きは自分でするよりも非常に気持ちが良いのである。

 病気したときに大病院にいくと、混雑していて、数時間も待たされ、半日もつぶしてしまう。治療はとくになく、話を聞いてもらい、薬を指示してもらい、薬屋にいくと、また待たされる。

 こうした待っている間に、もし健康維持に必要なことをすることができたらうれしいものだ。

 例えば、人間ドック、温泉入浴、マッサージ、エステ、歯磨き、禁煙治療、ダイエットアドバイスなどがあったら、病気治療がメインではなく、病気予防=健康維持がメインになる。

 ビジネスの世界では逆転の発想が大きな繁栄を産み出す。病気もまた、健康維持への発想の転換が必要になると思える。

 廃れたホテルが、人間ドックをメインにしたホテルにしたことで復活したニュースをみたことがある。

 マザーテレサが日本を訪れたときに、「日本は精神的飢餓状況だ」と言った。食べ物が足りない肉体的飢餓に対して、愛が足りない精神的飢餓のことをいったものだろう。病気にも肉体的なものと精神的なものとがあり、精神的な病気でもっとも大きなものは孤独だと思われる。

 というのは、精神や心は社会的コミュニケーションから生まれるものだから、それが欠けると孤立化してしまい、いわば、心が小さくなってしまう状態だといえる。

 こうした心の病気はその肉体をみただけではわからないが、語ってみたり、一緒に生活をともにすると、知ることができる。

 こうした肉体的精神的健康維持を目的にした、人間ドックができる温泉施設を各地域に造り、各地域の病院と連動させたら、健康な国世界一の日本になり、生活裕福度や幸福度の指標ではなく、肉体的精神的健康度の指標にして、国造りをしたら、日本の特性をいかす世界の役割ができるのではないだろうか。

 こうした健康度を測るには、「死の概念」が特に大事になり、それが「再生」につがなると、健康度があがるようなものになるような気がする。

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命のバトンとは魂のバトン

   聖火ランナー:亡き娘の写真と英国を力走 宮城の被災者

 命のバトンを肉体だけ考えるならば、それは先祖代々続き、それを子孫末代まで、遺伝素子DNAを伝えることであるが、そのバトン経路を追いかけると、二人の両親、そのさらに両親というように、2の累乗計算になり、あっという間に今の世界人口70億人の先祖ができてしまう。

 また、生む子どもが平均2人として、その血縁が続くとしたら、やはりあっという間に70億人の子孫が生まれることになる。

 こうした計算からいうと、今の世界人口70億人は共通の両親から生まれてきたと断言できてしまうだろう。

 しかし、日本民族の両親はイザナギノミコトとイザナミノミコトであるが、ユダヤ人の両親はアダムとイブであるが、その両親が同一人物であったようには思えないのはなぜであろうか?

 こうした2の累乗で肉体の命のバトンが計算されるためには、確実に自分の子どもが生まれるという前提が必要である。現実はどんな人間も確実に自分の子を持つことができるとは限らない。

 子のない家庭も、結婚しない人も、若くして亡くなる人だって、たくさんいるからだ。

 そのため、DNAや血縁で命のバトンを繋ぐルートは永遠不滅になれないと思える。こういた血縁による命のバトンは植物や魚類のように、種や卵をたくさん産むような肉体が必要であろう。さらに、男女というのではなく、自分で自己分裂して子孫を増やすことで、命のバトンをした方がより確実である。

 人間は命のバトンを他の生物とは違って、生む子どもの数も少なくし、かつ、血縁の子だけにそのバトンを渡すようにはしていない。血縁によらない命のバトンのことを魂のバトンということができる。

 血縁に寄らない魂のバトンは、主に知と愛によって伝達される。技術や知識のバトンは教育から行われ、人が愛する時は血縁を避けて、まったくの他人を愛する機能が働くからだ。

 命というのは個々の肉体をイメージさせる言葉であるが、魂というのは個々の肉体ではない、個々の心をイメージさせる言葉である。

 我々の心は肉体にようにははっきりとは見えないし、その形もはっきりはしないし、肉体のように常に一つではなく、2つ以上になって迷ったり、生まれは消えたりもして、常に定まることはない。

 心を形成させるのは意識であり、意識には意識する相手である対象と意識する自分の肉体の存在が必要である。 我々の五感や知覚は意識する機関であり、心を形成するものである。

 心の代表は愛であるが、愛は相手がなければ生まれない心であることからもわかる。

人の死後、その人の心は何かに残ることが多く、その人が残した文書や持ち物から、残された家族や友人が知ることができる。

 人が死んでも、その心は長く残り、伝えられるため、その心を魂であると言える。それは人型の幽霊のような幻影体ではなく、生前、その人が何をしたかったのか、何を求めていたのか、その内容のことをその人の魂であるといえる。

 例えば、「近江のおいしい和菓子を造る」という欲求は老舗の店の魂として続き、伝承者が血縁でなくとも、同じ意志を持った人が誰でも引き継ぐこともできるものである。
  
  このように、具体的な意志を持った人の心が魂であり、その具体的意志は誰でもが引き継ぎまた、バトンを渡せる意志であるのが、魂の特徴であるといえるだろう。

 こうした魂のバトンはちょうどオリンピックの聖火リレーのように受け継がれ、その火はけして消えることがないようにする。オリンピックの精神はオリンピックの魂であるといえ、炎は魂、炎を燃やす松明は人間(肉体)である。松明である人の肉体は燃え尽きるが、その炎は他の松明に燃え移り、消え去ることはなく、その炎のバトンが魂のバトンである。

 最近、シリアの内乱をレポートしていた日本人の女性記者が政府軍に殺された。その女性記者の魂はきっと、平和的な国の革命の姿ではなかったのではないだろうか。日本は無血革命ができた国である。隣国との領土問題でも、けして武力による実行支配で解決しようとはしない国である。

 こうした武力なしで、国の問題を解決するという平和精神も平和魂といえる。

 魂のバトンは国会議事堂前でも毎日行われている。「脱原発の魂」のバトンである。そのデモは毎日バトンされ、時には大きく数十万人ものデモとなって、燃えている。

 これは世界中から一つの原発も無くなるように運動され、それが実現した後も、未来の子ども達の命を守るエネルギーの創造する魂へと替わり、永続されていく魂のバトンの姿である。

 

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魂って何だ

 友人と魂論議して寝ることも忘れるほどだった。人の意見は人の数だけあると思える。もし、こうした論議しないと、まさに孤独もしくは妄想に陥ることになる。金子みすずが、「みんな違ってみんないい」と言ったように、人の意見もまたこう言えるのだ。

「みんな意見が違って、みんなの見方があり、みんな合わせてより大きな視野が生まれ、より真実に迫ることができていい」

 それらの意見をまとめるには、参加者の多数決になるが、その多数の意見が真実であるとは限らない。

 また、個々の意見だって、論議また時間がたつうちに、変わることだってあるので、多数決も変わってくることもあるのだ。

 こうした多数の意見ではない、魂について、自分の意見を言いたくなった。 

死後の世界とかいって、臨死体験や伝承から、人の魂は不死であることが信じられている。今かた3300年前のツタンカーメンの時代でさえ、人の魂は不死であるとして、ミイラにされていた。

 だが、ツタンカーメンの魂を検証することはいまだにできていない。神様と言われるキリストや仏と言われる釈迦の魂さえも、未だに検証できていない。まして、その時代に生きていた無名で無数の人たちの魂の存在だの検証されるどころか、その名前さえも記憶されていない。

 つまり、魂は永遠不滅だと信じられているが、それを検証されていないため、事実だとは言い切れないのだ。

 そのため、それが事実だと検証されれば誰でもが信じることができるが、検証されない場合は信じる人と信じない人が生まれることになる。そして、それが検証されない間は魂は永遠なのか、そうでないのかは不明であるということしかできない。

 しかし、逆に、魂が不滅ではないと検証されれば、それは事実として誰でもが受け入れることができることになる。その検証は、ツタンカーメンの時代に生きていた人たち一人一人の魂の存在を確かめるかどうかを調べればいいので簡単にできる。

 その検証結果、魂は不滅ではないと証明することができ。誰しもが素直に信じることができるものである。

 だが、魂が不滅であると信じる人にとって、そうした検証は不服であり、魂とは何かと議論に発展することになる。

 その場合の論点は魂は肉体ではない、精神体であり、それは目で確認できるものではないから、魂は検証できないというだろう。

 魂は不滅ではないという検証の一つは、肉体の一部である骨とかではなく、その人の名前である。ツタンカーメンという名前は今も知ることができるが、その他大勢の人たちの名前すべてを知ることはできない。

 個人としての肉体も、その魂もまた、他の人間と識別できる、その人の名前が付けられることが最低条件だからである。

 こうして名前のある魂の存在を論議していくと、魂とは歴史上の著名人の名前や記載された文献上の名前であるということになるだろう。

 そのため、人は「死んで名を残す」とも言われる。その名が魂を形造るものになる。

 魂はその名前の記憶により形成されるので、魂は平等ではなく高低ができる。高低に合わせて、最も高い魂は神霊となり、最も低い魂は悪量になる。魂の高低に合わせて、いろいろな言葉があてられ、ハイヤーセルフとか、幽霊とかいろいろな名称が付けられている。

 魂の存在や姿を空想する場合、元になるものが肉体である。魂は肉体ではないといいながら、肉体を元にして、推測されるものである。というのは、肉体から魂が生まれるものだからである。輪廻転生においては、肉体と魂はニワトリとその卵にようにどっちが先でどっちが後か解らないが、そのDNAからの研究からニワトリが先で卵が後であることが判明したように、歴史的にみても、肉体が先で、魂が後に生まれると判断できるものである。

 では、輪廻転生のような思想、一種の知覚がどうして生まれるのだろうか?

 「存在しないものは空想すらできない」
 という概念がある。これは「我思う故に我あり」ということもそうだが、思ったものは必ず存在するという思想である。この思想は「夢は必ず叶う」というような発展にもつながってくるが、残念ながら、かなわない夢もたくさんあるのである。

 それは「存在しないものも空想できる」ということだからだ。これは幻想と言われ、「存在しないものを存在すると思いこむこと」また、「存在することを存在しないと思いこむこと」である。
 
 こうした思いこみは自分が経験した世界で新しい世界を観た場合にうまれる。それは人間が神や宇宙人を想像したら、それはほとんど人間に似てくるように、カエルがもし神様を想像したら、きっとカエルのような姿になると思える。

 しかし、新しい発見はどのようなプロセスでなされるものだろうか?

 これはいくつかの事実から推論して、空想された事実が予測できた場合である。そうした事実を元にした推論はいずれ検証されることも多い。

 魂のようなはっきりとした形をなさないものは、「個人の欲望」を元にした思いこむが多く、未だ発見されていない存在は「自然的事実」を元にして想像されたものであるといえる。

 そこで、永遠に生きたいという欲望から魂の存在を信じるよりも、ある自然的事象から魂の存在を想像してみるとこうなる。

 自然的事象である、トマトの姿を肉体、トマトの種を魂という仮定から想像してみよう。

トマトという肉体は朽ち果てるとたくさんの種だけが残り、その種の中のいくつかだけが次のトマトという肉体を持つことができると推論できる。

 たくさんの種のうち、再び肉体を持てたトマトは強い種であり、また強運な種であり、それはまさに、有名人だけの名前が残る歴史ように、偉大なトマトの魂だけが存続できるではないか。
 
 このトマトとその種をさらに人間に推測すると、その土地で種が生き続けるためには品種が変わることがあるように、魂もその時代に合わせて変わっていくことで命のバトンがされていくと想像できる。

 個人は家族で伝承された老舗の店や、社会的目的で集まった法人で受け継がれる会社があるように、老舗の店や法人のモットーで、長く存在続ける集団を魂の姿といえるのではないだろうか。

 その一つのトマトの姿も、そのトマトを造った元の種も消えるが、そこで造られた種はその強さと運で、生き残り続けることができるように、一つ一つの肉体は消えるが、その肉体が残した種(人生、生き方、業績など)は魂のバトンとして受け継がれ、時代に合わせていくことで、生き続けることができる。

 魂が永遠に不滅になるかどうかは、今の人間の努力にかかっているといえるだろう。

 つまり、魂とは永遠不滅なのではなく、その魂のバトンを受けた人たちがその魂が永遠不滅であるように努力し、生き、その魂のバトンを未来の人に渡していくというものであり、時代とともに修正創造されるものだと思うのである。

 

 

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米麦二毛作は不自然

 来年の稲作のために、大豆の上にのびる雑草の花を刈り取ろうとした。あとで植えた大豆は背丈が低く、そこには雑草の穂がたくさんはえていたが、6月にすぐに植えた大豆は大きくなって、雑草が上にいかず、雑草の成育が押さえられていた。

 つまり、稲よりも雑草が強く、雑草よりも大豆の方が強いことを発見した。

 この発見は、麦が冬にぐんぐん成長し、雑草がほとんどはえない冬では唯一強い草だった。それと対照するように、夏は多くの雑草が生えるが、その中でも、大豆がもっとも強い草だという発見である。

 今まで、米麦の二毛作を目指していたが、麦は育つが、稲がうまく育たないので困惑していた。第一の原因は麦は6月に実り、その時点に稲の種を蒔くと、雑草の方が早く成長し、成育ができない。そこで、4月に麦畑とは別に稲の苗床を造って、麦刈り後に、移植する方法である。

 この方法は麦畑とは別に苗床が必要で、同じ畑で、種をばらまくことで可能ではない。それは人手がかかり、不自然な二毛作であると思える。

 また、麦と稲は同じイネ科なので、必要とする肥料が同じで、両者の藁を肥料にしても、充分ではないように思える。稲に必要なチッ素肥料は豆科を育てることで、緑肥になるし、豆科はチッ素肥料が多いと成育できないため、イネ科を育てると、チッ素が吸収されているので、お互いに相性がいいことになると思える。

 実際、昨年は大豆の成育がよくなく、今年がよかったのは、大豆の肥料として、麦穂を敷き詰めたからだと思えるからだ。

 麦を刈る6月と、大豆の種まきの6月と実に作物交替が自然に行えるので、ほとんど苦労なく、麦と大豆の二毛作はうまくいく。

 雑草の交替も、春に豆科のカラスエンドウなどが繁茂して、それが枯れて、夏にころころ草のようなイネ科が繁茂する。それが肥料を分配しあうような交替なのである。

 日本中で、米麦の二農作をしているところはほとんど観たことがない。稲は稲作専用の水田がほどんどである。麦と大豆は安価なため、ほとんど輸入に依存している。

 麦大豆は広大な土地で、機械化もしやすいので、そうなるようだが、自給自足するには、簡単に種をまいて、収穫するだけで、自然農には一番適した作物のような気がする。

 米麦二農作は不自然
 麦大豆が自然な二毛作
 これを自然農の基本にしてみたい。

 

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