老後の人生とは散りゆく桜の花びらのよう

 第二の人生とかいうように、人生には少年における第一の人生、成人になる第二の人生、そして、老人になる第三の人生があると思える。

 第一の人生が自我の芽生えで養育される時であり、第二の人生が自立する時で、社会を構築する。そして、第三の人生が死後の事を準備する時だろう。

 成年の時に、どう生きるかと必死な時であるが、老人になると、大体一生でやりたいこともやってしまった時に、残された人生をどう生きるかということを考えることになる。

 成人の目的は生きることだが、老人の目的は武士道のような死ぬことである。それは人生を山登りと譬えるならば、登りが生きることであり、下りが死ぬことである。そして、出発地点つまり生まれる以前のところに帰るようなものである。

 それはリターン人生のようなもので、老人を60歳とするなら、それ以上年齢が嵩むとマイナスになり、ー1歳ずつ若くなる。それを成人の59歳対して、老59歳と表現してみたい。

 それを計算すると、老0歳は成人120歳になるが、山登りのように登りに比べて下りは楽にしかも早く目的地に着く。平均寿命が80歳とするなら、3倍のスピードで年齢が進むことになる。

 私は今成人61歳であるから、マイナス1歳の3倍のマイナス3歳になるから、老57歳だ。誕生日が10月なので、後2ヶ月で老54歳になるようなものである。

 もちろん、人の寿命はまちまちなので、自分なりの老人年齢が計算できそうだ。

夢の扉特別編 20年後の君へ が先日放送されたが、癌であと6ヶ月から1年の命しかない仕事ばかりの父親が、離れていった妻や息子と娘の夢の実現の後押しをするドラマである。

 それは娘の3歳の誕生日の家庭ビデオが象徴的にそのドラマ全体を表していた。
父親は3歳になった娘に問い、家族で話しがすすむ。

「まり子の夢はなあに?」
「 夢ってなあに?」
「まり子が一番やりたいこと!」
「 私パパと結婚したい!」
笑いのあと、妻が夫に問う。
「じゃあ、パパの夢はなあに?」 
 「俺の夢・・・そうだな、うん、みんなの夢がかなうように頑張ること!」

 ドラマはおいしい野菜を自分で作りたい妻、最強の石積みの壁を造りたい息子、貧困のバングラディシュで、世界に負けないメイドインバングラディシュのカバンのブランドを立ち上げたい娘に、自分が応援できることをやりぬいて残りの半年を生き抜くというものである。

 主人公の中井喜一が51歳なので、かれの寿命は51歳と計算すると、末期癌の発見が50歳で余命1年とすると、50歳でリターン人生になり、下りの人生は1年なので50倍の速度で山を下りることになったともいえる。

 そして、父親の残りの1年でやったことが、老後の人生にあたる。残された家族の夢を叶えられるように応援することだ。彼は50歳にして、仕事の成功をおさめている。つまり、自分の夢は叶えたことになり、その後は家族の夢の応援に替えたのだ。

 老後の人生において、残された家族がいない一人暮らしの老人のような場合も増えてきた今日この頃である。それはこう考えればいいだろう。

 オリンピック選手が引退後後輩の指導に回るように、自分がそれまでに得たことを後輩に伝えることで、後輩がもっと強いオリンピック選手になれるようにバトンリレーする。

 老人になって、それまで失敗したこともまた次の成功のための貴重な体験になる。失敗した人生であっても、それは残された明日を生きる人にとっては貴重な人生の体験であり、宝になるのである。腐った食べ物も、新しく生まれる食べ物の肥料になることと同じである。

 つまり、老後の人生というのは、いかに死んでいくか?ということであり、明日を生きる子ども達の応援をどういていくかということなのである。

 桜が咲くのも美しいが、その花びらが散るのもまた美しい。老後の人生とはさように散りゆく桜の花びらのようなものであろう。

 

 

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智恵が満ちあふれている

 「愛が世界に満ちている」とはいうが、それは自分が恋しているときに、世界が愛に満ちあふれているように感じることだ。

 しかし、「智恵が世界に満ちあふれている」と観じられた時は、どんな事象をみても、それが自然の営みであり、それがすべての解決策を表していると知った時である。

 智恵とは何か苦しみぬいて、その中から生まれてきたような・・・そう泥沼の中から咲く蓮の花のようなものに思われているが、その蓮の花が咲くだけの事象ではなく、どんな事象にも智恵が表されているということだ。

 それは智恵とは産み出されるものではなく、そこに存在するものだということである。欲望を押さえるのは智恵であるといわれるが、欲望を促すのも智恵である。生きとし生けるものの欲望はまさに自然の営みであって、その欲望の発生と後退もまた自然の営みであり、その自然の営みそのものが智恵だといえるものなのである。

 また、悟りといって、まるで最高の智恵のようなことをいうが、智恵に最高も最上もあるというのがそもそもおかしなことである。人間が月に行くことができる技術というのはそもそも慣性や重力の法則を元にしたもので、そうした法則は自然の営みの一つにすぎないのだから、自然の営みを知っただけで、その自然の営みの通りに動いたら、そうできたにすぎない。

 智恵が人間の産物ではないのだ。ただ人は自然を観察しただけにすぎないのである。智恵が何かといえば、それは自然そのものであり、自然が何かといえば何もかも自然である。 
 つまり、自然なるものはすべて智恵である。だから、智恵は世界に満ちていると観じるのだが、むしろ、自然と智恵が同じならば、智恵が世界そのもの、自然そのものであると言っていいのである。

 知欲といって、智恵は求められるもののように思われているが、それは幸福の青い鳥を求めるようなもので、知を求めると、知はすでにそこにあるということだ。知は先にも以前にもそこにあるのだ。

 最近、エジプト人という映画をBSで観たが、キリスト以前の1500年前にも、民族や貴賓の差なく、人は平等であるという思想家もいたという。こうした人は平等であるという智恵は最近に生まれたものではなく、3500年前の人間にもあったともいえる。

 人が平等というのは、人以外の生物の視点から人間を観察すれば明らかな智恵であるから、平等の智恵は人類が誕生し、死滅する時にも、またそれ以前にもそれ以降にも存在する智恵である。

 また、その逆の智恵もあるが、それはこういうことだろう。一つ一つの事象がそのまま智恵であるということであろう。

 では馬鹿って何だろう? それはたぶん、「わかっちゃいるけど、やめられない」ってことだろう。とはいえ、その馬鹿につける薬も智恵である。馬鹿を観察する眼も智恵である。いわば、馬鹿とは智恵の演技のようなものにすぎないってことだ。

 

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食と人間

 もし食料がわずかだったら、人間はその食料を奪い合うだろう。
 もし食料が適度にあったら、人間はその食料を分け合うだろう。
 もし食料が有り余るほどあったら、人間は食料を別な目的のために奪い合うだろう。

 東京のアパートの住民だった家財荷物を整理が終わり、やっとリフォームすることができる状態になった。それまで、畑仕事で、麦の後の稲作に苦労していた。雑草と稲との交替を夢みていたが、稲は水田の方が、その特性を発揮しやすく、栽培には適しているようだ。畑作には陸稲の種でないと、成育が進まない。

 陸稲はとにかく雑草に負けないようにしないと成育ができない。稲が苗の状態だと、雑草との区分けが難しく、しかも、雑草の種のが圧倒的に多く、しかも成育が稲の数倍も早い。そのため、麦の後の種まきでは遅すぎたため、雑草負けになり、失敗した。

 結局、雑草負けしない大豆栽培に変更し。大豆の周りは雑草が生い茂る状態になり、雑草に下にわずかの10㎝ほど苗が生き残っている。

 雑草を採ることを毎日やっていたが、とても追いつかない。そして、ふと「どうして雑草を採るのだろうか?」と問うてみた。

 「稲の苗を生かすため」とすぐに答えた。「では、このまま雑草を採り続けていけば、稲は育つのか?」と問われると、「雑草の種類も、量も半端な量ではなく、大豆の成育を守るのが精一杯だ」  「だったら、稲作をあきらめて、今しなければならないリフォームでもしろよ」と言い換えされてしまう。

 雑草を採るというのは、雑草を殺すということである。これは虫を殺すことと同じで、畑で刺される蚊やブヨを殺し続けても、けして全部の蚊やブヨを殺すことはできない。殺しても殺しても蚊やブヨはどんどん発生してくるように、雑草をいくら採っても採っても生えてくるものである。

 そのため、蚊やブヨを殺さずに、刺されないように網の帽子と服を付ければいいだけである。また、蚊が多く発生しないように、水たまりをなくすようにしてしまえばいい。

 虫を殺すのではなく、虫が生まれるのを止めればいい。雑草も同じで、雑草の種がまかれないようにすれば、雑草は生えてこない。

 人は最終手段として、戦争のように「殺す」決断をするが、それはヒットラーのようにユダヤ人を抹殺しようとしても、無理であり、逆に復讐されて、自分が殺されてしまうだろう。

 殺すのではなく、発生を抑えることが、目的にかなう。

 発生を抑えるようなことは、予防であり、生まれるまえに、物事を処理することである。食料生産もまた、人が必要とするだけの生産だけをすれば悲惨な殺し合いは避けられるのである。

 

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テレビからネット時代に変わったなあ

 先日16日、「脱原発」を訴える大規模な市民集会「さようなら原発10万人集会」が開かれ、17万人集まったが、それがまったくテレビ報道されない時代に入った。これほどの人数が集まったデモ集会はソ連の崩壊の前の歴史的事件にも匹敵する。

 人々が一番信頼し、楽しみにしているテレビ報道がこうした歴史的事件を報道しないことはマスコミが政府権力や金に従属しており、人々の姿を伝えず、洗脳する方向に走ったことになる。

 テレビに代わるのはインターネットであろう。フェイスブックやツイッターがあっというまに国の改革をしたように、テレビが人々を先導する時代は終わり、インターネットとくに、ソーシャルネットワークが時代の先頭に立ってきたようだ。

 日本の改革は明治維新のころから、無血改革という平和的改革ができる民族のようだ。人は武力よりも、信じられる言葉の方が強く働くようだ。

   それにしても、大きな時代の変革をこうして観られたことは生きてきてよかったとつくづく感じられる。
 お金のために働く時代は減価貨幣の電子マネーによって、ベーシックインカムが実現した時に終焉を迎える。お金の時代は終わるのである。労働の主流はボランティア団体になり、株式会社は廃れていくだろう。

 原発や核の時代の終焉とともに、武力の時代も終わる。そして、法の時代が国際的に実現されていくだろう。

 こうした時代の流れはまさに自然に変遷されていく、奢るものは久しからずというのは自然の循環であり、生死の交替のように、新旧交代される社会になるようだ。

 こうした時代に変わる力は人々が夢見ることが同じだからなのだろう。誰だって殺し合う事を望まないし、格差社会を望まないからだ。人が助け合って生きることがこの上もなく幸せにさせてくれることを知っているからだろう。

 

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二者択一ということ

 もし世界が生と死のように、二者の世界しかなかったら、次の方式が成り立つ。

 それが生きていないならば、それは死んでいる。
 それが死んでいるならば、それは生きている。

 不生=死 不死=生 である。

 犯罪が無罪か有罪かの二者択一しかなかったら、 それは碁石の 白か黒かしかないので灰色もその他の7色もありえないことになる。

 私達が理性とか知性というのはこの二者択一がベースとなっている。

こうした二者択一の理性を脅かすものは、二者択一の前提を否定して展開される言い訳・論理であり、そこから産まれる感情である。

 生と死の二者択一を否定した場合、理性ではなく、宗教の信仰が発生する。

 それは死んでもいなければ、生きてもいない。それは生死を超越した魂である。魂は永遠不滅の存在である。それを統括するのが神仏であり、その神仏が宇宙を創造しているという論理になり、その論理を信じて、その神仏を崇めれば宗教になる。

 自然と人間

 自然と人間を二者択一で展開していくと、意外と物事をすっきりと観察することができそうだ。

 つまり、こうだ。

 自然とは人間が何も手を加えないことである。逆も真なりで、人間的とは自然に何か手を加えることである。

 極論すれば、この地球上に人類が存在しない世界が自然であるということである。それは人類誕生以前の世界が自然であり、人類がいなければ、戦争も、原発事故も、津波により悲惨な事故もないのである。電気も金も必要のない世界になる。

 そもそも人間が存在しなければ、こうした二者択一の理性もないのだ。

 そのため、人が自然という場合は、何かしらの手を加えるが、できるかぎり、苦労しないで、人の目的を達成する方法のことである。

 機械はまことに自然に動くので、実に自然的といえるが。その機械が古くなり、故障が多くなると、苦労が多くなるので、新しい機械に替えるのも自然的であるといえる。

 だが、原発のように重大事故で人類全体を危険に陥れるような機械は動かせば動かすほど苦労が多くなり、人類生存を脅かすものになるため、自然的ではなく人工的であるといえる。

 自然農というのは、最小限の手間で、最大の収穫をえる技術のことである。機械も農薬も、肥料も、いらないで、日々の食料が常に収穫できる苦労のほとんどいらない技術である。

 私が自然農を研究しているのは、もし人が収穫をしなければ、麦米大豆は雑草のごとく自然と実ることができるのではないかという想定の検証である。

 毎年生える雑草の種類はそう多くないので、人が食べられる米麦大豆もそうできるのではないかというものである。

 それは魚と同じで、人があまり捕獲しなければ毎年その魚は同じようにとれるからである。

 人の健康も同じで、人が美味いものを作り食べつくさないようにして、質素な食事で我慢できれば健康も維持できるのと同じである。

 食品加工でもそうだが、米の殻をとって白米にし、それをおいしく食べることで、殻の栄養を他の野菜や肉で補うのは、苦労多くして、健康維持を難しくしているのではないだろうか。

 私は麦を収穫して、精麦しないで、そのまま圧力釜で炊くだけでおいしく食べられることを発見した。どうして、製粉し、それを麺やパンにし、しいてはケーキなどにしてどんどんおいしく食べる方法を追求するのは、苦労多くして、ダイエットに苦しむようになるように思えてならない。

 確かに肉はおいしいが、それを作るのは大変である。もし、大豆のような蛋白質が豊富な食料で我慢できれば、苦労しないで、人の健康を維持できることになる。健康を害してまで、おいしいものを食べる必要はないだろう。

 自然農というのは質素分化の基本にきっとなるだろう。

 

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