諦めが肝心の意味

 家を造る勉強を始めてから、いろいろと設計が変わってきた。そして、昨夜も北海道で5強の地震があり、ほぼ毎日のように東北では震度3以上の地震が起きている。100年に1度の大地震が起きるような周期があるようだから、今年は1923年の関東大震災から88年であるから、震度6以上の大地震まで12年だ。そのため、いくら仮設住宅といえども、震度6の地震が来ても、安全な家を造る必要性がある。

 そんなことを考えていくと、コンテナ5台も捨てて、深い基礎を鉄筋コンクリートで作るしかない。素人で家を建てるなんてえことは安全上問題があり、人の命を軽視することにもつながってくる。5年前に7000万円で木造3階建てを建築するような振り出しにもどってしまった。

 大手のミサワホームと本契約をすませ、払い込みも1500万円払い、国民金融公庫の借りの書類もOK寸前だった。地鎮祭もすませ、最後の変更契約の印鑑を押す直前に問題がおきた。設計も見積もほぼ終わっていたのだが、鉄製階段だけがまだ設計が終わってなかったことをその時点で知った。

 そのため、階段の値段に変更ありの赤線が見積書に記されていた。その値段が400万円とあったのでびっくり、本契約のときは確か200万円だった記憶があったので、過去の見積書を数枚みせてもらったら、いつのまにか倍になっている。しかもまだ設計が終わっていないから値段が変わる可能性があることを知って、その変更契約の印を押さなかった。

 家に帰ってから、今までの設計図と見積書を素人なりに全チェックした。そこに見えたのはいいかげんな設計と跳ね上がる金額であった。最初の確認申請が通らなかった設計の玄関の高さがなんと1m30㎝だったことにびっくり仰天した。それが理由で確認申請が通らなかったのではなく、階段の床面積の計算ミスで建築制限を超えていたことにも唖然とした。それから、近隣の許可もミサワができず、私が建築基準法を勉強して、法的に説得した経緯も思い起こされた。

 結局、私が望んだ設計はミサワが得意とする工法では無理があり、鉄筋コンクリート工法が一番あっていることに気づいた。そこで、近くの建築業者にミサワの図面をもっていき、それと同じ3階建ての見積をださせたら、なんと、鉄筋コンクリートで造ると安く6000万円でできることがわかり、ミサワの営業方針というより、私のミサワ営業責任担当者のただ売ればいい姿勢が見えてきた。

 結局、その担当者ははずされ、上役の部長と新米の営業マンが引き継いだが、契約は破棄した。それから、契約金の全額返済をさせるまで、知人の弁護士を介して、2年の月日がたったのである。

 その間にコンテナ付き駐車場にして、収入をつないだ経緯を走馬燈のように思い起こした。

もし・・・・・あのとき、契約の印を押していたら?

 私は今のようなゆったりした田舎で畑作りを楽しめることはなかっただろう。きっと、借金返済で馬車馬のように働かざるをえなかった人生を送っていたように思う。

 また同じ二の舞を踏まないように、ここは「諦めが肝心」だと決心しかけた。一晩寝て起きたら、ふと、「まだ諦めるのは早いぞ」というような、逆転の発想が突如生まれた。コンテナの上に家を造ろうとするから無理なんだ。ただ、空いている空間にキャンピングカーを入れて住めばいいではないか。その方が安くて応用できるではないか。地震が来てもそれで逃げられるではないか。

 キャンピングカーで生活できるように、電気、水道、ガスをつければいいだけだ。休日にはのんびり田舎のどこでもそれでいけるではないか。 もっとも、私が住むのではないから、住む人の希望がそれでいいかが問題ではある。

 自由とはいつでも動けるということだ。なぜそこに家を建てるか、その目的をどんどん追求すればそこに解決の糸口が待っているように思う。 

 諦めが肝心という言葉は、世の中の苦しみの原因が「執着」にあるとシャカは見抜いた。その教えの基礎になるのが般若心経である。その意味はいろは歌にある。

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 境越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

単純にいえば、「諸行無常」である。この世の中に絶対的なものはないし、変わらないものはないのだから、その真実に合わせて生きれば、自由と幸福を得られるというものである。そのためには、何事も一つにこだわらず、なにものにも執着をもたずに、生きることが肝心だ。

 ところが、人はついつい思い出にひたり、欲望をとげようと必死になり、そこで右往左往してしまう。とても、そんな仏様のような気持ちになれない。そこで、祈りの技法が生まれた。

 こだわらない こだわらない 

 捨てて 捨てて 捨てて

 けして捨てきれない最後のもの

 それを大事に育て励もう 

 ・・・・・・・ 

 となって、アイデアがどんどん浮かんできた

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「社会保障宝くじ」の発行を

 「嘘も方便」という諺はたぶんシャカの「三車火宅の譬え」からきたものだろう。大邸宅が火事になっても、子供たちが遊びに夢中になり、火事に気づかないため、親が子供達が欲しがっていたおもちゃが外にあるぞと叫んで、無事、子供達を救ったという話である。

 この話の大邸宅は国や世界である。それが火災にあっているのは金融恐慌であり、子供達は国民、親は政府である。

 金融恐慌の原因はお金の発行流通システム自体にある。中央銀行から貸し出されたけして腐らないお金が流通しているからである。しかも、貸し出す利息を付けるために、市場競争が激しくなり、勝ち組の金持ちと負け組の貧乏人の差が天と地の差になっているためである。

 子供達に真実火事だと言っても、遊びに夢中になっていれば、その声だって届かない。火事など今まであった経験がないからだ。

  原発の危険性はずっと指摘されていたが、大事故が起きない限り、その危険性の話も聞く耳をもたなかったと同じである。

 人は真実を知るのを嫌がり、夢みたり、嘘を楽しむ性質がある。今の経済生活の中味は実体経済1に対して資産経済9である。資産経済とは資産の移動自体がもたらす利益の総体、金融経済のことであり、金で金を生み出すことである。いわばマネーゲームにあたる。

 1粒の種籾から米粒をたくさん作る実体経済であるが、100円の投資金宝くじから、1億円の収入当選金を生み出すのが資産経済・ギャンブル経済である。100円という金自体は常に100円であって、けして腐ることも増えることもないものであり、それが真実である。しかし、投資することで、100円があたかも1億円になるように見え、当選すれば実際に1億円集まるので、そう思いこむのである。それは真実ではなく、夢幻であり、それが本当だといえば嘘である。

 株や為替の売買はスポーツの勝敗と同じで、誰かが儲かり勝てば、必ず誰かが損をし負けるのである。これが市場競争である。それは宝くじでも同じだ。お金自体は食べることはできないように、お米を食べて生きる実体経済とはまったく関係がなく、単なる人間の遊びである。

 今、世界ではこの資産経済という遊びに夢中になっている子供達が地球という大邸宅に住んでいる。

 そして金融恐慌という大火事が起き、国が破綻炎上する危険に気が付かない。そこで、金融恐慌の真実の原因をどんなに叫んでも誰も耳をかさない。そこで、「もっと楽しく儲かるものがあるぞ!」と政府は叫ぶことで、今の窮状を救うことができる。

 こう叫べばいい。

「医療教育費すべて無料、毎月1人誰でも20万円の生活保護費をあげます。
 所得税も法人税も消費税も一切増税しません」

 「財源はどうするんだ?」
という声があがれば、

「社会保障宝くじ発行します !」

「それはなんだ?」

「すでに社会保障宝くじは発行済みです。それはすべての投資金のことです。株や為替や商品取引、不動産取引がそうです。投資する場合その10%を市場競争の場代を税金として治めてくれればOKです!」

「金のない人はどうするんだ?」

「金のない人はもちろん投資できませんから、無税です。金持ちがマネーゲームを楽しみながら、社会貢献できるシステムです」

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もめ事は大抵どうでもいいことだ

 コンテナ倉庫の上に家を建てることで、それを支える基礎を鉄骨にこだわっていたが、設計を進める上で、その重量が問題になり、結局、全体の重量を考えたら、木材でも充分だと思えてきた。鉄より木の方が加工しやすく、金額的にも安くできる。その材料も豊富にホームセンターで手に入る。

 ここ1ヶ月あまり、鉄材でなくてはだめだという思いこみで、その材料と加工でどんどん設計がかわっていった。私は全体をみていなかったために、細かい問題に頭を悩まされていた。やっと全体の設計がみえてきたときに、「なあんだ、だったら最初から柱も木材でいいではないか」と、まあ振り出しにもどった感がある。

 どうでもいいことはいつでも悩まされる。

 相田みつをの言葉に「どうでもいいものはどうでもいいんだよ。いちばん大事なことは一番大事ないのちをかけてゆくことだ」というのがあるが、それは枝葉末節なもめ事はどうでもいいのであって、それを支える命を忘れるなという意味だ。

 およそ、世界中で起きている色々な問題の核心は「エゴ」である。それは我欲だけでなく国のエゴも入るのだ。そうしたエゴをとって世界全体を大事にすれば問題は解決する。

 原発問題でもそれを止める止めないというのは電気事情からくる枝葉末節なことだ。原発全体を見ると、今何をすべきかがはっきりする。最終放射性廃棄物処分場を造って、今ある使用済み燃料を全部埋めて安全にすることだ。それ以外の議論はどうでもいいことだ。

 国際問題だって、国際司法裁判が国際問題を解決させる能力があるかどうかである。単に2国や6カ国のもめ事はどうでもいいことなのである。

 国の財源の問題だって、国債、税金、為替などの問題はみな枝葉末節なことでどうでもいいことだ。 お金の発行から流通全体を見ることが大事だ。そうすれば、お金そのものが一体誰のものであり、誰のために発行流通させるかはっきりする。お金の貸し借りや税金や金儲けなど本当にどうでもいいことなのである。

 どんな問題解決でも大事なのは、より大きくより深く全体を観て判断することである。

 そこで、こんなモットーを持てばいいかもしれない。

「もめ事は大抵どうでもいいことだ。解決はより全体を観ればいい」

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自分の死も他人の一歩

千里の道も一歩から

 という諺の意味を大きく広げることが可能だ。

 最近ずっと、コンテナの上に家を建てる鉄骨基礎をどう造るかを模索していた。あちらこちらのホームセンターやネットで、その材料やそれを接続する部品や加工する工具をみていた。

 もし、まっさらな駐車場だったら、H鋼を鉄工所に依頼して加工してもらい、それをクレーンで組み立てればいい。鉄骨でなくても鉄筋コンクリでも同じことだ。

 でも、私がこだわっているのは、自分で家を造ることだ。しかも、失敗しても、その家の部品を他に持っていって自分で組み立てられるようにすることだ。コンテナ付きの駐車場を造った時点では、将来、コンテナ改造して家を造り、それを倉庫コンテナの上に載せればいいと思っていた。

 しかし、前の道路がせまいことと、電線がかなりあるので、それが難しいことが解ってきた。そこで、プレハブをコンテナの上に組み立てる方針に変えた。そのプレハブを乗せる基礎を鉄骨で造る必要があり、しかも、下の重いコンテナをほとんど動かさずに造る方法を模索していた。

 それを可能にするにはどうしても自分で鉄骨を加工し、その鉄骨を接続する部品も、また、それを取り付ける工具まで手作りする必要がでてきた。プロだったら、きちんと設計して、そうした加工を鉄工所に依頼すればいいのだが、素人の自分には設計すら自信がない、もし設計ミスしたら、大量の鉄のゴミがでてしまう。第一、プロだったら、コンテナを移動させずに基礎を造るのは無理だとして当初から相手にしてくれないだろう。

 でも、もし鉄骨や部品や工具まで自分で造れれば可能になる。それに、下のコンテナと合体させた基礎にすればかなりの強度な基礎ができる。それで、まず溶接技術を習得することから始めればいいだけだと気が付いた。

 千里の鉄骨基礎も、溶接技術の一歩から

 というわけだ。

 話は変わるが、時々同じ夢をみる。それは新聞配達をしている自分が、ある家に配達し、裏にある次の家の配達をするとき、人の敷地を通ればすぐにでもいけそうなので行くが、どうにも垣根や塀があって、途中不審者に間違われて立ち往生している自分の姿である。

 この夢は入り口と出口が違っていたことと、近道をしようとして迷ったことだ。急がば回れとは実にうまい諺である。ほとんとの家は玄関があり、そこが出入り口である。入り口と出口は同じ場所なのだ。

 人生だって、家と同じで生死の出入り口は同じであろう。この世への入り口も出口も同じなのだ。もし、新聞配達する自分が裏口を通って近道をしようとせず、入った玄関から出て、同じ道を引き返し、回り道をして次の家に新聞配達をすれば、迷うことも立ち往生することもなかった。

 これは、「初心忘れるべからず」という諺に生きている。ある大きな目的を達成しようとしたら、初心に何度でも帰ることが重要になる。

 社会における一歩とは自己のこの世の誕生である。社会は個人の集合でしかないのだから。救世主であるキリストの誕生がその後の人類の目的の一歩になったように、どんな人であれ、この世に生まれた人はこの世界を築く第一歩である。

 そして、社会は自他の絆で成り立っている。それは自他の命のバトンタッチで社会は発展していくという意味でもある。

 自分の死は終わりを意味するが、その死をきっかけにして次の生にバトンタッチされるのは他人である。つまり、

 自分の死も他人の一歩

 であるのが、社会における絆であり、その生死の基本になっている。これは別角度からみると

 他人の死も自分の一歩

 といえるものだ。

「千里の道も一歩から」と「他人の死も自分の一歩から」は同じ人生の教訓になりえるものだ。

孤独に悩む人がいるが、どんな命も1人で形成されていない。人は食べなくては生きられないように、食べ物の命をいただいて生かされている。その事実からすれば、どんな命もみな一つにつながっており、それが絆になっている。いわば、

 命は一つ

 であり、その絆を壊すことはできないのが自然の掟である。孤独というのは土台ありえないことであり、それは「自分1人で生きているというオゴリ」である。エゴというオゴリと卑屈という厭世観は同じ出入り口にある。

 孤独という鬱は病気である。しかも自分は1人であるという単なる思いこみから生まれたものである。どんな死も他人にとって無駄なものはないように、どんな人生であっても、無駄な人生などありえないものである。自分の死は常に他人の一歩なのだから。

 それに、震災で亡くなった人の死は残された人の次の一歩になっているではないか。これが真実であり、孤独は真実ではなく、単なる思いこみにすぎないのだ。

 

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スピリチュアルというのは社会を造ることなのか

 人生が生への山登りから、リターンして、死への山下りの年齢になった。個人の生死は一回限りだ。でも、卵からにわとりが生まれ、にわとりが卵を産むように、個人は社会を築き、社会は個人を守る。

 個人の生死はこの世の肉体の世界ではあるが、あの世はスピリチュアルな世界のことであるという発見をした。つまり、この世の個人の肉体の死は社会における生き続ける魂になるということだ。

 このあの世であるスピリチュアルな世界というのは何か?というと、それは社会を築くことなんだと思えた。

 山梨の祭りで花火をしたが、今年は外部の露天の夜店がでなかった。そのため、まことに寂しい祭りになった。市の主催者にすれば、花火という地元のためのイベントを他の業者の金儲けに利用されたくなかったのだろう。

 催事屋とか祭り屋というのが全国を回っている。いわば、寅さんの仕事だ。祭りに寅さんがいないと寂しいのと同じで、外部からの夜店が出てこないのは寂しくなる。それは祭りだけでなく、大手のコンビニやスーパーが地元に進出しないと、寂しい町になるようなものである。

 地元の花火のイベントなんだから、夜店も地元でたくさん出店すれば理想的である。地元の業者が花火大会にあわせたお店を開けば、寂しいどころか、待ち望んだ楽しい祭りになる。小さい村だとそうしているはずだ。

 地元にイベントを盛り上げるには、地元の業者だけでなく、住民もお店をどんどん出せるようにすると、盛り上がる。とくに、私の店のようなフリーマーケットはどんな人のでき、夜店だって、自分たちの演出できるものだ。バーベキューをして楽しむように、夜店を出しながら花火を楽しむのもいいではないか。

 最近、気になるのが、孤独老人問題である。身近で、老老介護をしていた友人が、介護する92歳の母親が亡くなってしまった。兄弟も亡くなっていたので、孤独になってしまい、生きる目的を失ってしまったのだ。

 以前、スピリチュアル的には孤独になるということは死を意味するのだが、それが本当の死ではなく、「自分が1人であるという思いこみ(病)」である。スピリチュアルの世界では公私一体の感覚が基本であるから、個人の孤独というのはありえない設定なのである。

 スピリチュアルというのは社会と翻訳してもいいもので、その社会が独裁政権のように固定化したら、最悪な社会であり、個人は窒息してしまう。社会は個人の集合であるように、実際には固定的には存在しない。個人の集まりの状況によって、その社会の大きさや性質はどんどん新陳代謝しているのが健全な社会である。新しい個人が次々生まれ、古い個人は新しい個人をサポートしていく、いわば親子兄弟の家族のような社会が理想的である。

 固定化した社会ではなく、常に新しい社会を築き上げていくような流動した社会を築く力がスピリチュアルな力だといえるだろう。

 孤独老人はスピリチュアルに生きようとすると、孤独という病を吹き飛ばすことができる。スピリチュアルに生きるというのは、新しい社会を築こうとすることである。社会とは大きな家族のようなもので、たとえ、自分に子供や兄弟がいなくても、他人であればたくさんの子供達が身近にいるはずだ。例えば、老人経営における保育園や老人ホームを造れば新しい社会への貢献ができることになる。

 孤独老人が集まって、新しい老人ホームを造ったら、それはまことに新しい社会を築くスピリチュアルな生き方になるだろう。それは地元で花火大会をするようなものである。同じ気持ちの人同士が集まって、一緒に食べ、一緒に遊び、一緒に築いていくのがスピリチュアル世界なのだろう。

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